こうした福太郎の晴れがましい仕事ぶりが、炭坑中に知れ渡らない筈はなかった。……と同時に本職の源次から怨まれない筈はないのであった。
源次はこうして、ホンの駈出しの青二才に、仕事の上で大きな恥を掻かされた上に、入揚げた女まで取られてしまったのだから、何とかして復讐をしなければ引込みの付かない形になってしまっているのであったが、しかしそこがチャンチャン坊主と云われた源次の特徴であったろうか、それとも源次が皆の思っているよりもズット怜悧な人間であったせいであろうか。気の早い炭坑連中からイクラ冷笑されても、腰抜け扱いされても、源次は知らん顔をしていたばかりでなく、却ってそれから後というものは、福太郎に出会うたんびにヒョコヒョコと頭を下げて、抜目なく機嫌を取ろう機嫌を取ろうとする素振りを見せ始めたのであった。
すると又そうした源次の態度が眼に付いて来るにつれて、他の者はなおの事、源次の気持を疑うようになった。……今に見てろ、源次が遣るぞ。福太郎とお作に何か仕かけるぞ……といったような炭坑地方特有の、一種の残忍さを含んだ興味を持って見るようになったものであるが、しかもそのさ中にカンジンの福太郎夫婦だけは、そんな事を一向に問題にもしていない模様だったので、一層、皆の者の目を瞠らせたのであった。お人好しの福太郎は源次に対しても、他の者と同様に何のコダワリもないニコニコ顔を見せる一方に、お作は又お作で、
「あの腰抜けの源次に何が出来ようかい」
と云わぬ半分の大ザッパな調子でタカを括っているらしかった。今までの白ゆもじを燃え立つような赤ゆもじに改良したり、饂飩屋にいた時分の通りの真白な襟化粧を復活させたりするばかりでなく、その襟化粧と赤ゆもじで毎日毎日福太郎の帰りを途中まで出迎えに行き始める。一方には坑長の住宅の新築祝いに手伝いに行ってから以来、若い二度目の奥さんに取り入って、恰も源次の勢力に対抗するかのようにチョイチョイ御機嫌伺いに行っては、坑長の着古しの襯衣や古靴なぞを福太郎に貰って来てやったりなぞ、これ見よがしに福太郎を大切にかけて見せたので、炭坑中の取沙汰はイヨイヨ緊張して行くばかりであった。
福太郎は斜坑の入口で、自分の手に提げた安全燈の光りの中に突立ったまま、そんな取沙汰や思い出の数々を、次から次に思い出すともなく思い出していた。しかもその中でも源次に関係した事ばっかりは今の今まで……自分のせいじゃない……といったような気もちから一度も気にかけた事はないのであったが、この時に限ってアリアリと眼の前に浮かみ出て来るお作の白い顔と一緒に、そんな忠告をしてくれた連中の眼付きや口付きを思い出してみると、そんな評判や取沙汰が妙に事実らしく考えられて来るのであった。
その当の相手の源次は、タッタ今上って行った十台ばかりの炭車の真中あたりの新しい空函の中に、低い天井の岩壁から反射する薄明りの中を、頭を打たない用心らしく、背中を丸くして突伏したまま揺られて行った。着ている印半纏の背印は平常の※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、312-16]サとは違っていたけれども、その半纏の腋の下の破れ目から見えた軍隊用の青い筋の這入った襯衣と、光るほど刈り込んだ五分刈頭の恰好が、源次のうしろ姿に間違いないのであった。しかもソンナ風に頭を抱えて小さくなった源次のうしろ姿を今一度、お作の白い顔と並べて思い出した福太郎は、怖ろしいというよりも寧ろ、何だか済まないような……源次に怨まれるのは当然のような気がして仕様がなくなった。源次の姿を吸い込んで行った斜坑の暗黒に向って、人知れずソッと頭を下げてみたいようなタヨリない気持にさえなったのであった。
しかし福太郎は間もなくそんな思出や、感傷的な気持の一切合財が、クラ暗の中で冴え返って行く自分の神経作用でしかないようにも思われて来たので、そんな馬鹿げた妄想の全部を打切るべく頭を強く左右に振った。するとその拍子に左手に提げている安全燈の光りがクルクルと廻転するに連れて、今度は眼の前の岩壁の凸凹が、どこやら痩せこけた源次の顔に似ているように思われて来た。しかも誰かに打ち殺された無念の形相か何ぞのように、ジッと眼を顰めていて、一文字に噛み締めている岩の唇の間から流れしたたる水滴が、血でも吐いているかのように陰惨な黒光りをしているのに気が付いた。
ところが、その黒い水の滴たりを見ると福太郎は又、別の事を思い出させられて、吾知らず身ぶるいをさせられたのであった。
その岩の間から洩れる水滴が、奇怪にも摂氏六十度ぐらいの温度を保っている事を、福太郎はズット前から聞いて知っていた。それはその岩の割目の、奥の奥の深い処に在る炭層の隙間に、この間の大爆発の名残りの火が燃えていて、その水の通過する地盤をあたためているせいである……而も炭坑側ではそれを手の附けようがないままに放ったらかして、構わずに坑夫を入れているのであるが、そのうちにだんだんとその火熱が高くなって来る一方に坑内の瓦斯が充満して来たら、又も必然的に爆発するであろう事が今からチャンと解り切っていた。だからこの炭坑に這入るのは、それこそホントウの生命がけでなければならなかったのであるが、併しそうした事実を知っているのは極く少数の幹部以外には、その相談を偸み聞いた仕繰夫の源次だけであった。ところがそうした秘密がいつの間にか源次の口からコッソリとお作の耳に洩れ込んでいたのを、福太郎が又コッソリとお作から寝物語に聞かされていたので、
「インマの中に他の炭坑へ住み換えようか。それとも町へ出てウドン屋でも始めようじゃないか」
とその時にお作が云ったのに対して、シンカラ首肯いて見た事を、福太郎は今一度ハッキリと思い出させられた。そうして今日限り二度とコンナ危険な処へは這入れない……といったような突詰めた気持に囚われながらオズオズと前後左右を見まわしたのであった。
「書写部屋(事務所)ぞオオ……イイイヨオオ……イイヨ……オオイイイ……」
という呼び声がツイ鼻の先の声のように……と……又も遠い遠い冥途からの声のように、福太郎の耳朶に這い寄って来た。
その声に追い立てられるように福太郎は腰を屈めながら、斜坑の底の三十度近くの急斜面を十四五間ほどスタスタと登って行った。そうして斜坑が少しばかり右に曲線を描いて、真西に向っている処まで来てチョット腰を伸ばしかけた。
……その時であった。
福太郎はツイ鼻の先の漆のような空間に真紅の火花がタラタラと流れるのを見た。それを見た一瞬間に福太郎は、
「彼岸の中日になると真赤な夕日が斜坑の真正面に沈むぞい。南無南無南無……」
と云って聞かせた老坑夫の顔を思い出したようにも思ったが、間もなく轟然たる大音響が前後左右に起って、息苦しい土煙に全身が包まれたように思うと、そのまま気が遠くなった。
……何もかもわからなくなってしまった。
中
「福太郎が命拾いをしたちうケ」
「小頭どんがエライ事でしたなあ」
なぞと口々に挨拶をしながら表口から這入って来る者……。
「どうしてマア助かんなさったとかいな」
「土金神さんのお助けじゃろうかなあ」
と見舞を云う男や女の群で、二室しかない福太郎の納屋が一パイになってしまった。
そのまん中に頭を白い布片で巻いた、浴衣一貫の福太郎がボンヤリと坐っていたが、スッカリ気抜けしたような恰好で、何を尋ねられても返事が出来ないままヒョコヒョコと頭を下げているばかりであった。
福太郎は実際のところ、自分がどうして死に損なったのか判らなかった。頭の頂上にチクチク痛んでいる小さな打ち破り疵が、いつ、どこで、どうして出来たのかイクラ考えても思い出し得ないのであった。
集って来た連中の話によると、福太郎は千五百尺の斜坑を、一直線に逆行して来た四台の炭車が折重なって脱線をした上から、巨大な硬炭が落ちかかって作った僅かな隙間に挟み込まれたもので、顔中を血だらけにして、両眼をカッと見開いたまま、硬炭の平面の下に坐っていたそうである。しかもそれが丁度六時の交代前の出来事だったので、山中を震撼す大音響を聞くと同時に、三十間ばかり離れた人道の方から入坑りかけていた二番方の坑夫たちが、スワ大変とばかり何十人となく駈付けて来た。それに後から寄り集まった大勢の野次馬が加わって、油売り半分の面白半分といった調子で、ワイワイ騒ぎ立てたので、狭い坑道の中が芋を洗うようにゴッタ返したが、その中に、浮上った炭車の車輪の下から、思いがけない安全燈の光りと一緒に、古靴を穿いた福太郎の片足が発見されたのでイヨイヨ大騒ぎになったものだという。それからヤット駈付けた仕繰夫の源次が先に立って硬炭や炭車の代りに坑木の支柱を入れながら、総掛りで福太郎を掘出してみると、まだ息があるというのでそのまま、程近い福太郎の納屋に担ぎ込んで、ラムプを点して応急手当をしているうちに、幸運にも福太郎は頭の上に小さな裂傷を受けただけで、間もなく正気を回復した。そうして取巻いている人々の顔を吃驚した眼で見まわすと、ムックリと起上って、眼の前に坐っている仕繰夫の源次に、
「ここはどこじゃろか」
と尋ねたのであった。
皆はこれを見て思わず「ワーッ」と声を上げた。表口に折重なって、福太郎の容態を心配していた連中も、その声を聞いてホーッと安心の溜息をしたのであったが、その中の二三人が早くもゲラゲラ笑い出しながら、
「どこじゃろかい。お前の家じゃないか」
と云って聞かせたけれども、福太郎はまだ腑に落ちないらしく、そういう朋輩連中の顔をマジリマジリと見まわしていた。そのうちに付き添っていたお作が濡れ手拭で、汗と、血と、泥と、吹っかけられた水に汚れた顔を拭いて遣りながら、メソメソと嬉泣きをし始めたが、それでも福太郎はまだキョトンとした瞳をラムプの光りに据えていたので、背後の方に居た誰かが腹を抱えて笑い出しながら、
「まあだ解らんけえ。おいアノヨの吉公。チョットここへ来て呼んでやらんけえ。汝が家だぞオオオ……イヨオオオイ……イイ……という風にナ……」
と吉三郎の声色を使ったので、皆は鬨と吹出してしまった。併しそれでも福太郎はまだ腑に落ちない顔で口真似をするかのように、
「……アノヨ……アノヨ……」
と呟いたので皆は死ぬほど笑い転げさせられたという。
一方に炭坑の事務所から駈付けた人事係長や人事係、棹取、又は坑内の現場係なぞいう連中が、ホンノ一通り立会って現場を調査したのであったが、その報告に依ると福太郎は帰りを急いだものらしく、迂回した人道を行かずに、禁を犯して斜坑の方へ足を入れた。しかも六時の交代前の十台の炭車が、まだ斜坑を上り切って終わないうちに跡を追うようにして、着炭場(斜坑口)から徒歩で上り始めたものであったが、折悪しくその第七番目の鰐口に刺さっていた鉄棒が、ドウした途端か六番目の炭車の連結機の環から外れたので、四台の炭車が繋がり合ったまま逆行して来て、丁度、福太郎が足を踏掛けていた曲線の処で、折重なって脱線顛覆したもので、さもなければ福太郎は、側圧で狭くなった坑道の中で、メチャメチャに粉砕されていた筈であったという。
しかし元来、坑道に敷いてある炭車の軌条は、非常に粗末な凸凹した物なので、連結機の鉄棒が折れたり外れたり、又は索条が、結目の附根から断れたりする事は余り珍らしくないのであった。ことに最近斜坑の入口で二人の坑夫が遭難してからというもの、危険を虞れて炭車に乗る事を厳禁されていたので、その炭車に誰かが乗っていて、福太郎が上って来るのを見かけて故意にケッチンのピンを抜いたろう……なぞいう事は誰一人想像し得る者がなかった。又カンジンの御本尊の福太郎も、烈しい打撃を受けた後の事とて、その炭車に誰が乗っていたか……なぞいう事はキレイに忘れてしまっていたばかりでなく、自分が何のために、どうして斜坑を歩いていたかすら判然と思い出せなくなっていたので、ヤット気が落ち付いて皆の話が耳に止まるようになると、一も二もなく皆の云う通りの事実を信じて、驚いて、呆れて、茫然となっているばかりであった。
そんな状態であったから結局、出来事の原因は解らないずくめになってしまって、福太郎の遭難も自業自得といったような事で、万事が平々凡々に解決してしまった。その後で他所から帰って来た炭坑医も、福太郎の疵があんまり軽いのを見て笑い笑い帰って行った位の事だったので、集っていた連中もスッカリ軽い気持になって、ただ無闇と福太郎の運のいいのに驚くばかりであった。そうして揚句の果は、
「お前があんまり可愛がり過ぎるけんで、福太郎どんが帰りを急ぐとぞい」
とお作が皆から冷やかされる事になったが、流石に海千山千のお作もこの時ばかりは受太刀どころか、返事も出来ないまま真赤になって裏口から逃げ出して行った位であった。
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