上
地の底の遠い遠い所から透きとおるような陰気な声が震え起って、斜坑の上り口まで這上って来た。
「……ほとけ……さまあああ……イイ……ヨオオオイイ……旧坑口ぞおおお……イイイ……ヨオオオ……イイ……イイ……」
その声が耳に止まった福太郎はフト足を佇めて、背後の闇黒を振り返った。
それはズット以前から、この炭坑地方に残っている奇妙な風習であった。
坑内で死んだ者があると、その死骸は決してその場で僧侶や遺族の手に渡さない。そこに駈け付けた仲間の者の数人が担架やトロッコに舁き載せて、忙わしなく行ったり来たりする炭車の間を縫いながらユックリユックリした足取りで坑口まで運び出して来るのであるが、その途中で、曲り角や要所要所の前を通過すると、そのたんびに側に付いている連中の中の一人が、出来るだけ高い声で、ハッキリとその場所の名前を呼んで、死人に云い聞かせてゆく。そうして長い時間をかけて坑口まで運び出すと、医局に持ち込んで検屍を受けてから、初めて僧侶や、身よりの者の手に引渡すのであった。
炭坑の中で死んだ者はそこに魂を残すものである。いつまでもそこに仕事をしかけたまま倒れているつもりで、自分の身体が外に運び出された事を知らないでいる。だから他の者がその仕事場に作業をしに行くと、その魂が腹を立てて邪魔をする事がある。通り風や、青い火や、幽霊になって現われて、鶴嘴の尖端を掴んだり、安全燈を消したり、爆発を不発にしたりする。モット非道い時には硬炭を落して殺すことさえあるので、そんな事の無いように運び出されて行く道筋を、死骸によっく云い聞かせて、後に思いを残させないようにする……というのがこうした習慣の起原だそうで、年が年中暗黒の底に埋れている坑夫達にとっては、いかにも道理至極であり、涙ぐましい儀式のように考えられているのであった。
今運び出されているのは旧坑口に近い保存炭柱の仕事場に掛っていた勇夫という、若い坑夫の死骸であった。むろん福太郎の配下ではなかったが、目端の利くシッカリ者だったのに、思いがけなく落盤に打たれてズタズタに粉砕されたという話を、福太郎はタッタ今、通り縋りの坑夫から聞かされていた。又、呼んでいる声は吉三郎という年輩の坑夫であったが、この男は嘗て一度、この山で大爆発があった際に、坑底で吹き飛ばされて死んだつもりでいたのが、間もなく息を吹き返してみると、いつの間にか太陽のカンカン照っている草原に運び出されて、医者の介抱を受けている事がわかったので、ビックリしてモウ一度気絶したことがあった。だからそれ以来、一層深くこの迷信に囚われたものらしく、死人があるたんびに駈け付けると、仕事をそっち除けにして、こうした呼び役を引き受けたので、仲間からはアノヨの吉と呼ばれているのであった。
吉三郎の声は普通よりもズッと甲高くて、女のように透きとおっていたのみならず、ズタズタになった死体の耳に口を寄せて、シンカラ死人の魂に呼びかけるべく一生懸命の声を絞っているので、そこいらの坊さんの声なぞよりもはるかに徹底した……無限の暗黒を含む大地の底を、冥途の奥の奥までも泌み透して行くような、何ともいえない物悲しい反響を起しつつ、遠くなったり近くなったりして震えて来るのであった。
「……ここはアアア……ポンプ座ぞオオオ……イヨオオオ……イイイ……イイイイ……イイ……」
その声に聞き入っていた福太郎は、やがて何かしらゾ――ッと身ぶるいをしてそこいらを見まわした。吉三郎のすき透った遠い遠い呼び声を聞くにつれて、前後左右の暗黒の中に凝然としている者の一切合財が、一つ一つに自分の生命を呪い縮めよう呪い縮めようとして押しかかって来るような気はいが感じられて来たので……。
福太郎は元来こんなに神経過敏な男ではなかった。工業学校を出てから凡そ三年の間、この炭坑で正直一途に小頭の仕事を勤めて来たお蔭で、今では地の底の暗黒にスッカリ慣れ切って、自分の生れ故郷みたような懐かし味をさえ感じていたばかりでなく、生れ付き頭が悪いせいか、かなり危険な目に会っても無神経と同様で、滅多に感傷的な気持になった事はないのであった。
ところが去年の暮近くになって女房というものを持ってからというものは、何となく身体の工合が変テコになって、シンが弱ったように思われて来るに連れて、色んな詰らない事が気にかかり始めたのを、頭の悪いなりにウスウス意識していた。ことにこの時は一番方から二番方まで、十八時間ブッ通しの仕事を押付けられて、特別に疲れていたせいであったろう。頭が妙に冴えて来て、何ともいえない気味の悪さが、上下左右の闇の中から自分に迫って来るように思われて仕様がなくなったのであった。
……俺も遠からず、あんげなタヨリない声で呼ばれる事になりはせんか……。
……ツイ今しがた仕繰夫(坑内の大工)の源次を載せて、眼の前の斜坑口を上って行った六時の交代前の炭車が索条でも断れて逆行して来はせんか……。
……それとも頭の上の硬炭が今にも落て来はせんか……。
といったようなイヤな予感に次から次に襲われ始めると同時に、それが疑いもない事実のように思われ出して、吾知らず安全燈の薄明りの中に立ち竦んでしまったのであった。
すると、そうした不吉な予感の渦巻の中心に何よりも先に浮かんだのは、女房のお作の白い顔であった。
お作というのは福太郎よりも四ツ五ツ年上であったが、まだ何も知らなかった好人物の福太郎に、初めてにんげんの道を教えたお蔭で、今では福太郎から天にも地にも懸け換えのないタッタ一人の女神様のように思われている女であった……だからその母親か姉さんのようになつかしい……又はスバラシイ妖精ではないかと思われるくらい婀娜っぽいお作の白々と襟化粧をした丸顔が、モウ二度と会われない幽霊か何ぞのようにニコニコと笑いながら、ツイ鼻の先の暗黒の中に浮かみ現われた時に、福太郎は思わずヨロヨロと前にノメリ出しそうになった。そうして初めてお作に会った時からの色々な曰く因縁の数々を思い出しながら、今更のようにホッと溜息をするのであった。
お作は元来福太郎の方から思いかけた女ではなかった。ちょうど福太郎がこの山に来た時分に、下の町の饂飩屋に住み込んだ流れ渡りの白ゆもじで、その丸ボチャの極度に肉感的な身体つきと、持って生れた押しの太さとで、色々な男を手玉に取って来たものであったが、その中でも仕繰夫の指導係をやっているチャンチャンの源次という独身の中年男が、仲間から笑われる位打ち込んで、有らん限り入揚げたのを、お作は絞られるだけ絞り上げた揚句にアッサリと突放して見向きもしなくなった。……というのはこれが縁というものであったろうか、その頃から時々饂飩を喰いに来るだけで、酒なぞ一度も飲んだ事のない福太郎のオズオズした坊ちゃんじみた風付きに、お作の方から人知れず打ち込んでいたものらしい。去年の冬の初めに饂飩屋から暇を取るとそのまま、貯金の通帳と一緒に、福太郎の自炊している小頭用の納屋に転がり込んで、無理からの押掛女房になってしまったのであった。
その時には流石に鈍感な福太郎もすくなからず面喰らわせられた。何もかも心得ているお作の前にかしこまって、赤ん坊のようにオドオドするばかりであったが、それでもどうしていいか解からないまま五日十日と経って行くうちに、福太郎はいつの間にか、お作の白い顔を見に帰るべく仕事の仕上げを急ぐようになっていた。毎朝起きて見ると、自炊時代と打って変って家の中がサッパリと片付いている枕元に、キチンと食事の用意が出来ているのが、勿体ないくらい嬉しかったばかりでなく、夕方疲れてトボトボとうなだれて帰って来る坑夫納屋の薄暗がりの中に、自分の家だけがアカアカとラムプが点いているのを見ると、有り難いとも何とも云いようのない思いで胸が一パイになって、涙が出そうになる位であった。しかもそれと同時に翌る朝四時から起きて、一番方の炭坑入りをしなければならぬ事を思い出すと、タマラナイ不愉快な気持に満たされて、又も力なくうなだれさせられる福太郎であった。
こうして単純な福太郎の心は、物の半月も経たない中にグングンと地底の暗黒から引き離されて行った。そうしてこんな炭山の中には珍らしいお作の柔かい、可愛らしい両掌の中に、日一日と小さく小さく丸め込まれて行くのであったが、それにつれて又福太郎は、そうしたお作との仲が、炭坑中の大評判になっている事実を毎日のように聞かされて、寄ると触ると冷やかし相手にされなければならなかったのには、少からず弱らされたものであった。しかもそんな冷かし話の中でも、「源次に怨まれているぞ」という言葉を特に真面目になって云い聞かせられるのが、好人物の福太郎にとっては何よりの苦手であった。
「源次という男は仕事にかけると三丁下りの癖に、口先ばっかりのどこまで柔媚いかわからん腹黒男ぞ。彼奴は元来詐欺賭博で入獄して来た男だけに、することなす事インチキずくめじゃが、そいつに楯突いた奴は、いつの間にか坑の中で、彼奴の手にかかって消え失せるちう話ぞ。彼奴がソレ位の卑怯な事をしかねん奴ちう事は誰でも知っとる。彼奴に違いないと云いよる者も居るには居るが、なにせい暗闇の中で、特別念入りに殺りよると見えて、証拠が一つも残っとらん。第一彼奴は水道鼠のごとスバシコイ上に、坑長の台所に取り入っとるもんじゃけんトウトウ一度も問題にならずに済んで来とるが、用心せんとイカンてや。ドゲナ仕返しをするか解からんけになあ。元来お作どんの貯金ちうのがハシタの一銭まで源次の入れ揚げた金ちう話じゃけんのう!」
と親切な朋輩連中からシミジミ意見をされた事が一度や二度ではなかったが、そんな話を聞かされるたんびに頭の悪い福太郎はオドオドと困惑して心配するばかりで、ドンナ風に用心をしたらいいか見当が付かないので困ってしまった。
「……そげに云うたて俺が知った事じゃなかろうもん」
と涙ぐんで赤面したり、
「源次はそげな悪い人間じゃろうかなあ……」
とため息しいしい、夢を見るような眼付をして見せたりしたので、折角親切に忠告してくれる連中もツイ張合抜けがして終う場合が多かった。
しかし問題はそれだけでは済まなかった。福太郎は自分が源次に怨まれている原因が、単にお作に関係した事ばかりではない。それ以外にもモット重大な、深刻な理由があることを、それから後も繰り返し繰り返し聞かされなければならなかった。
……というのは外でもなかった。
福太郎は元来何につけても頭の働きが遅鈍い割に、妙に小手先の器用な性質で、その中でも大工道具イジリが三度の飯よりも好きであった。工業学校へ這入る時でも、最初建築の方を志望していたのを、死んだ両親に云い聞かせられて、不承不承に不得手な採鉱の方に廻ったお蔭で、ヤット炭坑から学資を出してもらう事が出来たのであったが、それでもチョイチョイ小遣を溜めては買い集めた大工道具の一式を今でもチャント納屋の押入に仕舞い込んでいる位で、どんなに疲れている時でも、頼まれさえすれば直ぐに、その箱を担いで出かけるという風であった。だから坑内の仕繰の仕事なぞも、本職の源次よりかズット見込みが良い上に、馬鹿念を入れるので、出来上りがガッチリしていて評判がなかなかよかった。現にタッタ今潜って来た炭坑の大動脈ともいうべき斜坑の入口なぞも、去年の夏頃に源次が一度手を入れたものであったが、間もなくその源次が風邪を引いて寝ているうちに、いつの間にか天井の重圧で鴨居が下って来て、炭車の縁とスレスレになっていたので、知らないで乗って来た坑夫の頭が二ツも暗闇の中でブッ飛んでしまった。そこで取り敢ず福太郎が頼まれて指導者になって手を入れた結果、ヤット炭車の縁から一尺許りの高さに喰止めたものであったが、その時に、源次が材料を盗んで良い加減な仕事をしてさえいなければ、モウ二尺位上の方へ押上げられるであろう事が、立会っていた役員連中の眼にもハッキリと解ったのであった。
[1] [2] [3] [4] 下一页 尾页