妾は今までに泣いた事などは一度もなかった。人間が何人殺されたって、どんなに大勢からイジメられたって、悲しいなんか思ったことはコレッばかしもなかった。それだのにこの時ばっかりは、何故ともわからないまんまに、泪が出て来て仕様がなかった。ハラムのお説教とは何の関係もなしに胸が一パイになって来て仕様がなかった。何が悲しいのかチットモ解からないのに泣けて泣けてたまらなかった。
……すると、そのうちに何だか胸がスウ――として来たようなので、妾は羽根布団からヒョイと顔を出してみた。
両方の眼をこすって見るとハラムはまだ妾の前に頭を下げている。妾を拝むように両手を握り合わせて、両股を広々と踏みはだけている。そうして心の中で御祈祷か何かしているらしく、唇をムチムチと動かしている。
そうしたハラムの姿を見ているうちに、妾はフッと可笑しくなって来た。何だか生れかわったように気が軽くなって、思わずゲラゲラと笑い出してしまった。
ハラムはビックリしたらしかった。白眼をグルグルとまわしながら顔を上げて、妾の顔をのぞき込んだから、妾はもう一度キャラキャラと笑ってやった。
「……ハラムや御飯をちょうだい……」
「……ハ……ハイ……」
ハラムは面喰らったらしかった。妾のために一生懸命で、ラドウーラ様をお祈りしていた最中だったらしく、毒気を抜かれたように眼ばかりパチクリさせていた。
「それからね。御飯が済んだら、妾に運命を支配する術を教えて頂戴ね。自分の運命でも他人の運命でも、自分の思い通りに支配する術を教えて頂戴……あたし……悪魔の弟子になってもいいから……ネ……」
「……ハ……ハ……ハイ……ハイ……」
ハラムはイヨイヨ泡を喰ったらしかった。ムニャムニャと唇を動かしていたが、やがて、こんな謎のような言葉を、切れ切れに吐き出した。
「……運命の神様……ラドウーラ様の前には……善も……悪も……御座いませぬ」
「ダカラサ。何でも構わないから教えて頂戴って云ってるじゃないの……あたしの運命を、お前の力で、死ぬほど恐ろしいところに導いてくれてもいいわ」
ここまで云って来ると妾は思わず羽根布団を蹴飛ばしてしまった。妾のステキな思い付きに感心してしまって、吾れ知らず身体を前に乗り出した。両手を打ち合わせて喜んだ。
「いいかい。ハラム。妾はまだハラハラするような怖い目に会った事が一度もないんだから、お前の力でゼヒトモそんな運命にブツカルようにラドウーラ様に願って頂戴……妾は自分で気が違うほど怖い眼だの、アブナッカシイ眼にだの会ってみたくて会ってみたくて仕様がないんだから」
「……ハイ……ハハッ……」
ハラムはやっと息詰まるような返事をした。
「その代りに御褒美には何でも上げるわ。妾はナンニモ持たないけど……妾のこの身体でよかったらソックリお前に上げるから、八ツ裂きにでも何でもしてチョウダイ」
ハラムはイヨイヨ肝を潰したらしかった。眼の玉を血のニジムほど剥き出した。唇をわななかして何か云おうとした。……と思うと、その次の瞬間には、みるみる血の色を復活さして、身体じゅうを真赤な海老茶色にしてしまった。口をアングリと開いて、白い歯をギラギラ光らせながら、思い切って卑しい……獣のような……声の無い笑い顔をした。
その顔を見ているうちに妾はヤットわかった。ハラムの本心がドン底までわかってしまった。ハラムは運命の神様のマドウーラ様から、この妾を生涯の妻とするように命令られているに違いなかった。
ハラムはズット前から、妾に死ぬほど惚れ込んでいたに違いない。そうしてその悪魔みたいな頭のよさと、牡牛のような辛棒強さとで、妾の気象を隅から隅まで研究しながら、妾の心を捉える機会を、毎日毎日、一心にねらい澄ましていたにちがいない。
「オホホホホホ。おかしなハラム……そんなに真赤にならなくたっていいよ。妾は嘘を吐かないから……その代りお前も嘘を吐いちゃいけないよ」
ハラムは幾度も幾度も唾液を呑みこみ呑みこみした。御馳走を見せつけられた犬みたいに眼を光らせながら……。
「キット……キットお眼にかけます。ハイ。ハイ。私はお姫様の奴隷で御座います。ハイ……私は……私はまだ誰にも申しませぬが、世にも恐しい……世にも奇妙なオモチャを二つ持っております。印度のインターナショナルの言葉で『ココナットの実』と申しますオモチャを二つ持っております。それは輸入禁止になっておりまする品物でナカナカ手に這入らない珍らしいもので御座いますが、私は、その取次ぎを致しておりまするので……」
「そのオモチャは何に使うの……云って御覧……」
ハラムは急に両手をさし上げた。いかにも勿体をつけるように頭を烈しく振り立てた。
「イヤ……イヤイヤイヤ。それは、わざと申し上げますまい。お許し下さいませ。只今はそれを申上げない方が、運命の神様の御心に叶うからで御座います。……しかし……それはもう間もなく、おわかりになる事で御座います。私はその『ココナットの実』を、きょう中に二つとも、ある人の手に渡すので御座います。その方は、お姫様がよく御存じの方で御座いますが……そうしますると、その『ココナットの実』が、その方と、それから矢張り、お姫様がよく御存じのモウ一人の方の運命を支配致しまして、お二方ともお姫様のところへは二度とお出でになる事が出来ないような、恐ろしい運命に陥られる事になるので御座います。お姫様の眼の前で……お身体の近くで、そのような恐ろしい事が起るので御座います。そうして……そうして……お姫様は……お姫様は……」
「ホホホホホホ。キットお前一人のものになると云うのでしょう」
ハラムは真赤な上にも真赤になった。眼に泪を一パイに溜めた。口をポカンと開いて、今にも涎の垂れそうな顔をしたが、両手をさし上げたまま床の上にベッタリと、平蜘蛛のようにヒレ伏してしまった。
「もういいもういい。わかったよわかったよ。それよりも早く御飯の支度をして頂戴……お腹がペコペコになって死にそうだから……」
妾のお腹の虫が、フォックス・トロットとワルツをチャンポンに踊っていた。そこへ美しい印度式のライスカレーが一皿分天降ったら、すぐに踊りをやめてしまった。妾はお腹の虫の現金なのに呆れてしまった。それからハラムの御自慢の、冷めたいニンニク水をグラスで二三杯流し込んでやると、虫たちはイヨイヨ安心したらしく、グーグーとイビキをかいて眠り込んでしまった。だから妾もすぐに、寝台の上に這い上って、羽根布団にもぐり込んで寝た。死んだようにグッスリと眠ってしまった。
それから三時頃眼をさまして、羽根布団の中で焼き林檎を喰べていると、いつの間に這入って来たのか、狼が枕元に突立っていた。
狼というのは最前ハラムが云った中川青年のことだった。左翼の左翼の共産党の中でも一等スバシコイあばれ者だと自分で白状していたが、それはハラムの童貞とおんなじにホントウらしかった。青黄色い、骸骨みたいに瘠せこけた青年で、バラバラと乱れかかった髪毛の下から、眼ばかりが薄暗く光っていた。唇だけが紅をつけたように真赤なのもこの青年の特徴だった。
このウルフ青年は妾に、いろんな事を教えてくれた。インキの消し方だの、音を洩らさないピストルの撃ち方だの、台所にある砂糖とか、曹達とかいうものばかりで出来る自然発火装置だの、ドブの中に出来る白い毒石の探し方だの……そんなものは、みんな印度のインターナショナルの連中から伝わったので、共産党の仕事に入り用なものばかりだと云って、得意になって話してくれた。けれどもカンジンの共産党の主義の話になると、ウルフの頭がわるいせいか、まるっきりチンプンカンプンなので困ってしまった。ウルフはただ小器用なのと、感激性が強くて無鉄砲なだけが取り柄の人間らしかった。
「……だから僕は一文も無いのだ。おまけに親ゆずりの肺病だから、生命だってもうイクラもないようなもんだ。その上にあんたから毎日こうして虐待されるんだからね」
ウルフはいつも詩人らしい口調でそう云っては、黒ずんだ歯を見せて薄笑いをした。きょうも散々パラ遊んだあげくに、もとの寝台にかえってさし向いになると、又おんなじ事を云ったから、妾は思い切って冷かしてやった。
「又はじまったのね。あんたのおきまりよ。ナマイダナマイダナマイダって」
ウルフは慌てて手を振った。妾の言葉を打ち消しながら、やはり薄笑いをつづけた。
「……そ……そうじゃないよ。エラチャン。そうじゃないったら。だから……僕はだから、生命のあるうちに、何か一つスバラシイ、思い切った事をやっつけなくっちゃ……」
「……また……生命生命って……そんなに生命の事が気になるのだったら、サッサとお帰んなさいよ」
妾から、こう云われると、ウルフは急にだまり込んで、うなだれてしまった。寝台の向う側に妾の爪先とスレスレにかしこまったまま、それこそ狼ソックリのアバラ骨を薄い皮膚の下で上げたり下げたりして、一生懸命に咳を押え押えしていた。
「エラチャンは肺病は怖くないかい」
「チットモ怖かないわ。肺病のバイキンならどこでもウヨウヨしている。けれども達者な者には伝染しないって本に書いてあるじゃないの。妾その本を読んだから、あんたが無性に好きになったのよ。あんたが肺病でなけあ、妾こんなに可愛がりやしないわ。妾はあんたが呉れた赤い表紙の本を読んでいるうちに、あんた以上の共産主義になっちゃったのよ。……あんたが妾にサクシュされて、どんな風にガラン胴になって、ドンナ風に血を吐いて死んで行くか、見たくって見たくってたまんなくなったのよ。だからこんなに一生懸命になって可愛がって上げるのよ」
妾がこう云って笑った時の狼の顔ったらなかった。蒼白く並んだ肋骨を、鬼火のように波打たして、おびえ切ったウツロ眼から泪をポトリポトリと落しはじめた。泣くような……笑うような皺を顔中に引き釣らして泪の流れを歪みうねらせた。……と思うと不意に妾の両脚の間の、真白なリンネルの上に、骨だらけの身体を投げ伏せて、両手をピッタリと顔に押し当てた。
妾はハッとして起き直った。血を吐くのじゃないかしらんと思った。そのモジャモジャと乱れ重なった髪毛の下を、ドキドキしながら見守っていた。しかし、そうじゃないらしい事が間もなくわかったので、妾はガッカリしてしまった。
ウルフは、差し出した妾の手をソッと押し退けた。そうして泪でよごれた顔を手の甲で拭い拭い寝台から降りて、長椅子の上に投げ出した洋服を着はじめた。
けれども継ぎ継ぎだらけのワイシャツとズボン下を穿いて、黒いボロボロのネクタイを上手に結んでしまうと、ウルフは、穴だらけの黒靴下を両手にブラ下げたまま、又、ジッとうなだれて考えはじめた。
すると、そのうちにジッと考え込んでいたウルフは、何と思ったか両手に提げていた古靴下を麻雀台の上に投げ出した。髪毛をうしろにハネ上げて、入口の扉の方へヒョロヒョロと近づいた。そこの棚の上に置いてある黒い風呂敷包みを丁寧にほどいて、新しい食パンの固まりを二つ、大切そうに取り出した。そうして、その一つを両手で重たそうに抱えながら引返して来て、寝ころんでいる妾の眼の前に突きつけた。
「これは……約束の品です」
「ナアニ。コレ……食パンじゃないの」
ウルフはニヤニヤと笑い出した。笑いながらパンの横腹を妾の方に向けて、そこについている切口を、すこしばかり引き開けるとその奥にテニスのゴム毬ぐらいの銀色に光る球が見えた。ところどころに黒いイボイボの附いた……。
「アッ……コレ爆弾、アブナイジャないの、こんなもの」
「エラチャンは……この間……云ったでしょう。日暮れ方にこの窓から覗いていると、あのブルドッグの狒々おやじが、往来を向うから横切って、妾の処へ通って来るのが見える。その威張った、人を人とも思わぬ図々しい姿を見ると、頭の上から爆弾か何か落してみたくなるって……」
「ええ……そう云ったでしょうよ。今でもそう思っているから……」
「その時に僕が、それじゃ近いうちにステキなスゴイのが仲間の手に這入るから、一つ持って来て上げましょう。その代りにキット彼奴の頭の上に落してくれますかって念を押したら、貴女はキット落してやるから、キット持って来るように……」
「ええ。そう云ったわ。タッタ今ハッキリと思い出したわ」
「その約束をキット守って下さるなら、このオモチャを……おいしい『ココナットの実』を貴女に一つ分けて上げます。どうぞ彼奴に喰べさしてやって下さい。あいつは財界のムッソリニです。彼奴はお金の力で今の政府を押え付けて、亜米利加と戦争をさせようとしているんです。現在の財界の行き詰りを戦争で打ち破ろうと企んでいるのです。日本は紙と黄金の戦争では世界中のどこの国にも勝てない。下層民の血を流す鉄と血の戦争以外に日本民族の生きて行く途はない。不景気を救う道はないと高唱しているのです。彼奴はこの世の悪魔です。吾々の共同の敵なのです……彼奴は……イヤあなたの旦那の事を悪るく云って済みませんが……」
「……いいわよ……わかってるわよ。そんな事どうでもいいじゃないの。もうジキ片付くんだから……」
「……大丈夫ですか……」
「大丈夫よ。訳はないわ。あのオヤジはここへ来るたんびにキット、この窓の真下の勝手口の処で立ち止まって汗を拭くんだから……そうして色男気取りでシャッポをチャンと冠り直して、ネクタイをチョット触ってから勝手口の扉を押すのが紋切型になっているんだから、その前に落せば一ペンにフッ飛んでしまうかも知れないわね。そうしたら、なおの事おもしろいけど……ホホホ……」
妾がこう云うとウルフはチョット心配そうな顔をした。室の中をジロジロと見まわしたが、鉄筋コンクリートの頑丈ずくめな構造に気が付くと、やっと安心したらしく妾の顔を見直した。真赤な唇を女のようにニッコリさせつつ、無言のまま、ウドン粉臭いパンの固まりを私のお臍の上に乗っけた。その無産党らしい熱情の籠もった顔付き……モノスゴイ眼尻の光り……青白い指のわななき……。
本当を云うと妾はこの時に身体中がズキンズキンするほど嬉しかった。約束なんかどうでもいい……こんなステキなオモチャが手に這入るなんて妾は夢にも思いがけなかった。妾はウルフに獅噛み付いて喰ってしまいたいほど嬉しかった。丸い銀の球を手玉に取って、椅子やテーブルの上をトーダンスしてまわりたくてウズウズして来た。
けれども妾は一生懸命に我慢した。その新しいパンの固まりを、お臍の上に乗っけたまま、ソーッとあおのけに引っくり返った。その中の銀色の球の重たさを考えながら、静かに息をしていると、そのパンの固まりが妾の鼻の先で、浮き上ったり沈み込んだりする。その中で爆弾が温柔しくしている。そのたまらない気持ちよさ。面白さ。とうとうたまらなくなって妾は笑い出してしまった。
あんまりダシヌケに笑い出したので、ウルフは驚いたらしかった。靴を穿きかけたまま妾の処へ駈け寄って来て、妾のお臍の上から辷り落ちそうになっているパンの固まりをシッカリと両手で押え付けた。サッキのように、おびえて、ウツロな眼付きをしいしいパンの固まりを抱え上げて、妾の寝台の下に並んでいる西洋酒の瓶の間に押し込んだ。ホッと安心のため息をしいしい立ち上り、又服を着直した。靴穿きのまま、ダブダブのコール天のズボンと上衣を着て、その上から妾の古いショールをグルグルと捲き付けた。その上から厚ぼったい羊羹色の外套を着て、ビバのお釜帽を耳の上まで引っ冠せた。それから膝をガマ足にして、背中をまん丸く曲げて、首をグッとちぢめると五寸ぐらい背が低くなった。どっちから見てもズングリした、脂肪肥りのヘボ絵かきぐらいにしか見えなくなった。
妾はいつもながらウルフの変装の上手なのに感心してしまった。口をへの字なりにして頬の肉をタルましたりしている顔付きのモットモらしいこと……妾だって往来のまん中でウルフを見つける事は出来ないだろうと思った。
そのうちに厚ぼったい手袋のパチンをかけたウルフはヨロヨロと入口の方へ歩いて行った。もう一つのパンを黒い風呂敷包みにつつみ直して、大切そうに小腋に抱えると、扉を静かに開いて廊下に出たが、扉を閉めがけに今一度、共産党らしい、執着に冴えた眼の光りを妾の顔に注いだ。そうして念を押すように淋しくニッコリと笑いながら扉を閉じた。
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