妾は今、神戸海岸通りのレストラン・エイシャの隅ッこに、ちょこりんと腰をかけている。油気のない前髪をういういしく垂らして、紫ミラネーゼの派手な振袖を着て、金ピカの塩瀬を色気よく高々と背負っているのだから、ウッカリした男の眼には十四五ぐらいにしか、うつらないでしょうよ。どうぞ、そのおつもりでネ……ホホホホホ……。
妾の手にはタッタ今ボーイさんが買って来てくれた号外が一枚載っている。これは今から三時間ばかし前に、ここから二三町先の海岸通りの横町で起った事件で、あちこちのテーブルに固まっている男のお客たちも首をつき合わせながら引っぱり合っている。西洋人までが鹿爪らしく耳を傾げているせいか室の中が急にシンカンとなっている。妾もその中の大きな活字だけを拾い読みしてみると……この号外をここに挟んでおくわ……ごらんの通りトテモ大変な活字だらけなの……。
――財界のムッソリニ、高利貸王、赤岩権六氏粉砕さる――
――本日午後五時頃、同氏経営の通称ゴンロク・アパート前、海岸通横町街路上で――××党の爆弾か? 路面のアスファルトに二個の大穴――
――スバラシイ爆発の威力――同氏の遺骸と名刺、同氏乗用の自動車の破片八方に散乱し、該自動車の運転手とアパート勝手口附近事務室に残留せる女事務員二名惨死し、路上の男女数名即死重軽傷――十数間を隔てた十字路を整理中の交通巡査も打倒されて人事不省――電柱其他附近の店頭メチャメチャ――
――〔続報〕――事件後約一時間を経て出勤した同アパートの宿直小使白木某は、五階に居住していた美少女エラ子(本名年齢等一切不明)のコック兼従僕にして身長七尺に近い印度人ハラムと称する巨漢が、同少女の寝室床上に一糸も纏わざる裸形のまま、射殺されて居るのを発見――次いで同少女エラ子が情夫の××党員らしき青年と共に行方を晦まして居るらしい事が判明した――
――美少女エラ子は赤岩氏が一箇月ばかり前に何処からか連れて来て匿まっている同氏の私生児で、今日まで固く口止されていた事実を小使の白木某が陳述した――
――同アパートは新築匆々の為め、一階の事務室と、エラ子の居室のほか全部がガラ空きであった。――且、爆発現状の目撃者が重傷、惨死、又は人事不省に陥っている為め目下の処、事件の真相について、何等の手がかりを得ず――
――警察当局は曰く――××党とは絶対に無関係だ。赤岩氏が同アパートの空室に秘密運搬中の、鉱山用の火薬類が、取扱いの不注意の為めに発火したものと、少女エラ子に絡まる情痴関係の殺人が、偶然に一致したものでは無いか――爆弾ならば一発で効果は充分の筈である。路面に残っている二個の大穴が、何と云っても疑問の中心でなければならぬ――なお目下詳細に亘って取調中云々――
――疑問の美少女エラ子の行方は――正体は?――
妾はフキ出してしまった。あんまりトンチンカンな記事なので、一人でゲラゲラ笑い出したらカフェーじゅうの西洋人や日本人が一時にこっちをふり向いた。帳場の男も註文を通しながら妾の横顔に、色眼みたいなものを使っている。だけど妾がこの事件のホントーの犯人で、疑問の少女エラ子だなんて事は一人も気付いていないらしい。何といったって妾のメーキァップは、やっと女学校に這入ったぐらいのオチャッピイにしか見えないのだから……。
そんな連中のポカーンとした顔を見まわしているうちに、妾はたまらなくユカイになってしまった。スコシ酔っているせいかも知れないけど……妾はわざっと黄色い声を出して、帳場の男に頼んでやった。
「……あのね。すみませんけど、レターペーパと鉛筆を貸してちょうだいナ……」
帳場の男が眼をパチクリさせた。兵隊みたいに固くなって、
「かしこまり……ました」
と云い云いすぐにペーパと万年筆を持って来てくれた。
妾は一気にペンを走らせはじめた。ジン台のカクテルをチビリチビリ飲みながら……。
……みんな面喰っているらしい。そんなことなんか、どうでもいいんだけど……。
あたしは事件の真相を発表する前にタッタ一こと書いておく光栄を有します。
妾がこの手紙を書き上げるまでには、まだどれくらい時間がかかるかわからないけど、その間にこのあたし……疑問の少女エラ子を見つける事が出来なければ、日本の警察も新聞記者も、みんなお馬鹿さんよ……って……ネ……。
大丈夫よ。誰も妾を捕まえに来やしないわよ。妾がここを出たあとでこの置手紙を見て騒ぎ出すぐらいがセキのヤマよ。
妾は本当の事を書いておきます。妾はつくづく神戸がイヤになってしまいました。シンカラお友達になってみたいと思う人が一人も居ない事がわかりました。ですからモウこれっきり神戸に来まいと思って、タッタ一人でこのカフェーに乾盃をしに来たら、ちょうどコンナ号外が出たので、ツイ持ち前のイタズラ気を出してしまったのです。
妾は今朝早く窓際のベッドの中で眼を醒ました。前の晩に遅くまで遊んだ朝は、いつでも、おひる頃まで睡たいのに、今朝はよっぽどどうかしていた。
妾は窓のカアテンを引いた。硝子が一面にスチームで露っぽくなっていたから、手の平で拭いた。冷たかったので頭がハッキリとなった。
妾の室はゴンロク・アパートの五階だった。窓の外は神戸の海岸通りの横町になっていた。左手に胡粉絵みたいな諏訪山の公園が浮き出している。右手の港につながっている船の姿がまるで影絵のよう。その向うから冷たい太陽がのぼって、霜の真白な町々を桃色に照している。窓硝子が厚いから何の音もきこえない。
そんなシンカンとした景色を見ているうちに、妾はヘンに淋しくなって来た。何故っていう事はないけれど……こんな事は今までに一度もなかった。
妾は古代更紗のカアテンを引いて、つめたい外の景色を隠した。思い切って寝返りをしてみた。
妾の寝台は隅から隅まで印度風で凝り固まっていた。白いのは天井裏のパンカアと、海月色に光る切子硝子のシャンデリヤだけだった。そのほかは椅子でも、机でも、床でも、壁でも、みんなアクドイ印度風の刺繍や、更紗模様で蔽いかくしてあった。その中でも隣りの室との仕切りの垂れ幕には、特別に大きい、黄金色のさそりだの、燃え立つような甘草の花だの、真青な人喰い鳥だのがノサバリまわっていた。
その垂幕の間から、隣りの化粧部屋と、その向うの白い浴槽がホノ暗くのぞいている。浴槽の向うには鏡の屏風が立っている。そんなものの隅々にピカピカチカチカ光っている金銀だの、瀬戸物だのの装飾が、一ツ一ツにブルドッグ・オヤジ……妾の旦那になっている赤岩権六の金ピカ趣味をサラケ出していた。見れば見るほど淋しい、つまんないものばかりだった。
そのブルドッグ・オヤジの赤岩権六は、ゆんべ夜中に急用が出来て、諏訪山裏の本宅の白髪婆のところへ帰った。だから妾は今朝、一人ぼっちで眼を醒したのだった。
だけど妾がコンナに淋しいのはブル・オヤジが居ないせいじゃなかった。ブル・オヤジが百人出て来たって、妾の気持ちを、とり直すことなんか出来やしなかった。今までだってそうだった。今もそうに違いなかった。
妾はタッタ一人でベッドの上に長くなったまんま、暗いところへグングン落ち込んで行くような気もちになっていた。
妾はいつの間にか枕元のベルを押したらしい。入口の横の垂れ幕を押し分けて、コックのハラムがノッソリと這入って来た。
ハラムは印度人の中でも図抜けの大男だった。背の高さが二米突ぐらいあって左右の腕が日本人の股とおんなじ大きさをしていた。それがいつもの通り、妾の大好きな黄色い上等の印度服を引っかけて、おなじ色のターバンを高々と頭に捲き上げているばかりでなく、眼のまわりが青ずんで、瞳がギョロギョロして、鼻が尖んがって、腮鬚や胸毛を真黒くモジャモジャと生やしているのだから、ちょうどアラビアン・ナイトに出て来る強盗の親分みたいなスバラシサで、見上げただけでも気持ちがスーッとした。この印度人は故郷に居る時分からうらないが本職で、四十二歳の今日がきょうまで、何とかいうバラモンの神様に誓って、童貞を守っているのだ……と自分で云っていた。だけど色が黒いからホントだか嘘だかよくわからなかった。
妾は毎朝ブル・オヤジが帰ったあとで、誰も居なくなると、この男に抱かれてユックリお湯に入れてもらうのを何よりの楽しみにしていた。それは思いようによってはこの上もない、ステキな冒険に違いなかったから……。
けれどもハラムは妾の処に来た最初から、どこまでも柔順な妾の家来になり切っていた。今朝もやっぱりいつもの通り憂鬱なまじめな顔をしながら、黒い逞ましい両腕を悠々とまくり上げて、妾をヤンワリと抱き上げてくれた。そうして赤チャンを扱うように親切に身体を流して、新しいタオルで包んでくれた。
「今朝はたいそう、お早う御座います……お姫様……」
ハラムの日本語は、本物の日本人よりもズットお上品で、立派に聞えた。シンガポールの一流のホテルで日本人専門のボーイを志願して稽古したのだと云っていたが、発音がハッキリしている上に、セロみたいな深い響きをもっていた。
「……あたし……淋しいのよ……」
妾は濡れたまんまの両腕をハラムの太い首に捲きつけた。その拍子にハラムの身体に塗りつけた香油の匂いがムウウとした。
ハラムはすこしビックリしたらしく、眼をまん丸にして、白眼をグルグルと動かしながら、高らかに笑いだした。
「ハッハッハッハッハッ。……おおかたお姫様は……お腹がお空きになったので御座いましょう」
妾はイキナリ、その毛ムクジャラの胸に飛び付いて、甘たれるように首を振って見せた。
「イイエイイエ。あたしチットモひもじかない。ゆんべ遅くまで色んなものを喰べたんだもの……それよりも妾ホントウに淋しいのだよ。お前にこうして抱っこされていてもよ……綱渡りの途中で綱が切れちゃって、そのまんま宙に浮いているような気もちよ。ドッチへ行ったらいいのか解んなくなったような気もちよ。教えておくれよ。ハラム、どうしたらいいんだか……」
妾はそう云いながらハラムの頸をヤケにゆすぶった。逞ましい脂切った筋肉に、爪を掘り立てるくらいキツクゆすぶった。けれどもハラムはビクともしなかった。軽々と妾を抱えたまま長椅子の前に突立って、妾の顔をマジリマジリと見詰めているきりだった。
「……ヨウ……ハラムったら、教えてよう。どうして妾こんなに淋しいんだか……。お前は妾の家来じゃないか。何でも妾の云い付け通りの事をしてくれなくちゃダメじゃないの……お前はいつも妾の云いつけ通りに……」
ハラムがやっと表情を動かした。妾の瞳の底の底をのぞき込むように、青黒い瞳を据えたまま……赤い大きな舌を出して、口のまわりの鬚をペロリと甞めまわした。そうしてシンミリとした、落ち付いた声を出した。
「……わかりまして御座います……お姫様……何もかも運命で御座います」
ハラムは、そうした気持ちの妾を又も軽々と抱き上げて、ノッシノッシと歩きながら、室の真中に在る紫檀の麻雀台の前に来た。それは牌なんか一度も並べた事のない、妾達の食卓になっていた。その前に据っている色真綿の肘掛椅子の中に妾の身体を深々と落し込むと、その上から緞子の羽根布団を蔽いかぶせて、妾の首から上だけ出してくれた。
ハラムのこんなシグサは、まったく、いつもにない事だった。けれども妾は別段に怪しみもしないで、される通りになっていた。今から考えると、その時の妾の恰好は、ずいぶん変デコだったろうと思うけど……。
そればかりじゃなかった。ハラムは平生のようにパンカアを引き動かして、妾の身体を乾かしてくれる事もしなかった。そんな事は忘れてしまったように、室の隅から籐椅子を一つ、妾の前に引き寄せて来て、その上に威儀堂々とかしこまった。そうして塔のように捲き上げたターバンを傾けて、妾の瞳にピッタリと、自分の瞳を合せると、そのまま瞬き一つしなくなった。妾も仕方なしに、真綿の椅子の中で羽根布団に埋ったまま、おなじようにしてハラムの顔を見上げていた。
籐椅子がハラムの大きな身体の下でギイギイと鳴った。
その時にハラムは底深い、静かな声で、ユルユルと口を利きはじめた。妾の瞳をみつめたまま……。
「……何事も運命で御座います。妾は、お姫様の運命をはじめからおしまいまで存じているので御座います。あなた様の過去も、現在も、未来の事までも、残らず存じ上げているので御座います。この世の中の出来事という出来事は、何一つ残らず、運命の神様のお力によって出来た事ばかりなのでございます」
ハラムの顔付きがみるみるうちに、それこそ運命の神様のように気高く見えて来た。ターバンのうしろに光っている海月色のシャンデリヤまでが、後光のように神秘的な光りをあらわして来た。それにつれてハラムの低い声が、銀線みたいに美しい、不思議な調子を震わしはじめた。
「……その運命の神様と申しまするのは、竈の神、不浄場の神、湯殿の神、三ツ角の神、四つ辻の神、火の山の神、タコの木の神、泥海の神、または太陽の神、月の神、星の神、リンガムの神、ヨニの神々のいずれにも増して大きな、神々の中の大神様で御座いまする。その運命の大神様の思召しによって、この世の中は土の限り、天の涯までも支配されているので御座います」
妾はハラムの底深い声の魅力に囚われて、動くことが出来なくなってしまった。電気死刑の椅子に坐らせられて、身体がしびれてしまったようになってしまった。大きな呼吸をしても……チョイト動いても、すぐに運命の神様の御心に反いて、大変な事が起りそうな気がして来た。
そんなに固くなっている妾を真正面にして、ハラムは裁判官のように眼を据えた。なおも、おごそかな言葉をつづけた。
「……けれども……けれども……御発明なお姫様は、今朝から、それがお解りになりかけておいでになるので御座います。……お姫様は今朝から、眼にも見えず、心にも聞えない何ものかを探し求めておいでになるので御座います。……で御座いますから、そのようにお淋しいのでございます」
妾は返事の代りに深いため息を一つした。そうして今一度シッカリと眼を閉じて見せた。ハラムのお説教の意味がすきとおるくらいハッキリと妾にわかったから……。
ハラムは毛ムクジャラの両手を胸に押し当てて、黄色いターバンを心持ち前に傾げていた。その青黒い瞳をジイと伏せたまま、洞穴の奥から出るような謙遜した声を響かした。
「……おそれながら私は、今日という今日までの間、運命の神様のお仕事が、お姫様の御身の上に成就致しまするのを、来る日も来る日もお待ち申しておったので御座います。それを楽しみに明け暮れお側にお付き添い申上げておったので御座います。眼に見えぬ運命の神様のお力を借りまして、あの赤岩権六様を、あなた様にお近づけ申し上げましたのも、かく申す私なので御座います。それから、あの共産党の中川さまを、お伽におすすめ致しましたのも、ほかならぬ私めが仕事で御座いまする。そうして、かように申しまする私が、赤岩様のお眼鏡に叶いまして、あなた様の御守役として、御奉公が叶いまするように取り計らいましたのも、皆、この私めが、私の霊魂を支配しておられまする神様の御命令によって致しました事なので御座いまする」
ハラムはここまで云いさすと、何故だかわからないけれどもフッツリと言葉を切ってしまった。つっ伏したまま黙りこくって、身動き一つしなくなった。それにつれて、その下の籐椅子の鳴る音が、微かにギイギイときこえて来た。運命の神様の声のように、おごそかに……ひめやかに……。
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