―― 5 ――
徳市は酔った眼であたりを見まわした。美事な洗面台や化粧台、バスなぞが眼に付いた。
憲作と美人はヨロヨロする徳市を捕まえて腰を掛けさせた。
徳市はフラフラ眠り初めた。
憲作は徳市の頭を鋏でハイカラに苅り上げた。
美人は徳市の髭と襟を綺麗に剃った。
二人していつの間にかねむっている徳市をゆり起し、顔や手足を洗わせ、着物を脱がせて身体を拭い上げ、美事な背広や中折や靴やオーバーを与えて立派な紳士に作り上げた。そうして二階へ連れ上げた。
徳市はやっと眼をさました。そこは立派な居間で真中の机に洋食弁当の出前が二つと西洋酒の瓶が二三本並んでいた。
憲作は美人を徳市に紹介した。
僕の家内の美津子です……
徳市は夢に夢見るようにお辞儀をした。しきりに洋服の着工合を直した。しかし眼の前に御馳走を並べられると真剣に喰い付いた。
憲作と美津子は顔を見合わせて笑った。
―― 6 ――
憲作は徳市を連れて二三町往来を歩いた。
徳市は酔って満腹して紳士になって夢心地でついて行った。
憲作は辻待自動車を呼んで二人で乗って、東京第一の宝石店王冠堂へ来た。自動車を表に待たしたまま中に這入った。
憲作は入口の処で徳市に云った。
何でも黙って……
うなずいているのですよ……
徳市はわけもなくうなずいた。
憲作は帳場の方へ行った。
徳市は店の鏡にうつった自分の姿を見てハタと立ち止まった。……素晴しい若紳士……日に焼けた……骨格の逞ましい堂々たる最新流行……
憲作は番頭の久四郎に名刺を出して叮嚀にお辞儀をした。
私は横浜の足立家の者ですが……
若様の御婚約の品を……
ダイヤの指環か何か……
憲作は言葉の中に徳市を指した。
番頭の久四郎はチラリと徳市の様子を見た。
徳市は大鏡の前に立って慣れた手附きでネクタイを締め直していた。
番頭久四郎は名刺を見た。
――足立商会会計主任 大島鹿太郎――
久四郎は揉み手をしながら品物を取りに行った。
徳市がネクタイを締直すと間もなく、鏡の奥に見える入口の硝子扉が開いて母親らしい貴婦人に連れられた令嬢が這入って来たのが見えた。その令嬢は和装で女優かと見える派手好みであった。徳市はふり返って恍惚となった。
憲作が徳市の前に来てヒョコリとお辞儀をした。
若様……
一寸品物を御覧遊ばして……
徳市は気の向かぬげに帳場の方へ連れて行かれた。
憲作はそこに拡げられたダイヤ入りの指環のケースをあれかこれかと撰って見せた。
徳市は上の空で唯うなずいてばかりいた。
令嬢が近附いて来て徳市の前に拡げられた指環のケースを見た。その中の一つを欲しそうにした。
憲作は最大のダイヤを撰り出して徳市にさし付けた。
令嬢の眼はそのダイヤに注いだ。怪しく光った。
徳市は憲作の手からその指環を取り上げてもとの通りケースに納めた。令嬢の前に押し進めた。
どうぞお撰り下さい……
私共はあとで宜しゅう御座います……
憲作と久四郎は妙な顔をした。
貴婦人と令嬢は云い知れぬ感謝の眼付きをした。
令嬢は恥じらいながら辞退した。
まあ……
どうぞお構いなく……
あの……
貴婦人も感謝に満ちた表情で云った。
ま……
恐れ入ります……
イイエ……どう致しまして……
徳市は幾度も手を振った。
私のは贈り物にするのですから……
ちっとも構いません……
さあどうぞ……
憲作と久四郎は別々に苦笑しながら三人の様子を見ていた。
令嬢は辞退しかねた。嬌態を作ってお辞儀をした。
では……
あの……
御免遊ばして……
令嬢はケースの中から最前憲作が撰り出した最大のダイヤを抓み上げた。指にはめてみるとちょうどよかった。如何にも気まり悪そうに徳市の顔を見て笑った。
あの……
これを頂いても……
よろしゅう御座いましょうか……
徳市は溶けるような顔をしてうなずいた。
貴婦人と令嬢は深い感謝の表情をした。
貴婦人は番頭の久四郎に指環の価格をきいた。
久四郎は慌ててペコペコし出した。
ヘイ……
一千二百円で……ヘイ……
毎度どうも……ヘイ……ヘイ……
貴婦人は手提から札の束を出して勘定して久四郎に渡した。
久四郎は今一度勘定して受け取った。ダイヤの指環をサックに入れて渡しながら盛んに頭を下げた。
徳市はボンヤリ見とれていた。
令嬢は手提から小さな名刺を出して一礼しながら徳市に渡した。
あの……
まことに失礼で御座いますが……
わたくしはこのようなもので……
唯今はまことに……
徳市は名刺を受け取った。同時に自分の名刺のない事に気が附いてハッとした。
憲作はすかさず自分の名刺を出して二人の婦人に徳市を紹介した。
徳市はホッとしながら様子ぶって一礼した。
貴婦人と令嬢は受け取った名刺を見ると一層叮嚀に恐縮した。
まあ存じませんで失礼を……
どうぞお序でも御座いましたら……
お立ち寄りを……
徳市は鷹揚にうなずいた。
二人の婦人は去った。
憲作は徳市に向って叮嚀に云った。
ちょっと唯今のお名刺を……
徳市は吾れ知らず握り締めていた。
――下六番町十九番地 星野智恵子――
徳市はこの間の新聞にソプラノの名歌手として載っていた智恵子の肖像を思い出した。
憲作はその名刺を横からソッと取って見た。
徳市の顔を意味あり気に見ながらニヤリと笑った。
この名刺は私がお預り致しておきましょう。
徳市は不平そうにうなずいた。
憲作は平気な顔で又ダイヤを撰り初めた。最も光りの強い新型に磨いたダイヤ入りの指環を撰り出して徳市に見せた。
これはいい……
これはいかがで……
徳市はボンヤリとうなずいた。
憲作は久四郎に価格をきいた。
久四郎は揉み手をした。
四千七百円で御座います……
当店で最上の質のいいダイヤで御座いまして……
憲作は内ポケットから大きな金入れを出して百円札を念入りに勘定して久四郎に渡した。代りにサックに入れた指環を受け取った。
久四郎は札を勘定し初めた。途中でちょっと躊躇して眼を伏せたが又初めから静かに勘定し初めた。
憲作はサックに入れた指環を一度あらためて、サックの上から新しい半巾で包んで恭しく徳市に渡した。
徳市は夢のように受け取った。そのままポケットに仕舞った。
久四郎は別室でお茶を差し上げたいからと云って二人を案内した。
憲作は急ぐからと断りながら札の残りを調べ終ると久四郎が止めるのもきかずに店を出た。表の自動車に乗って去った。
徳市も帰ろうとするのを久四郎は無理に止めた。
つまらぬものですが……
お土産に差し上げたいものが御座いますので……
是非お持ち帰りを……
どうぞこちらへ……
―― 7 ――
徳市は無理やりに応接間のような処へ連れ込まれた。
久四郎は出て行った。
給仕女が這入って来て徳市の前に珈琲を置いて去った。
久四郎は最前の札を持って急いで這入て来た。
まことに恐れ入りますが……
只今の指環を今一度チョト拝見さして頂きとう御座います……
余計に頂いておりますようですから……
徳市はサックを渡した。
久四郎は受け取ってハンケチを解き初めた。非常に固く結んであるのを解いてサックを開くと空であった。
徳市はビックリして立ち上った。
久四郎は素早く室から飛び出してあとをピッタリと締めて鍵をかけた。
徳市は狼狽して中から大声を揚げた。扉を動かしたがビクともしなかった。床の上にペタリと坐った。頭を抱えた。
久四郎と私服巡査が扉を開いて這入って来た。眼の前に徳市が坐っているので驚いて後退りをした。
久四郎は私服巡査に札を見せた。
この通り贋せもので……
この男が共犯なので……
徳市は縮こまった。
私服巡査は徳市の両手を捉えて手錠をかけた。
立て……
徳市は老人のように頭を下げて腰をかがめて歩き出した。
外へ出ると私服巡査は徳市を突き飛ばした。
こっちだ……
―― 8 ――
徳市は警察に来るとすっかり酔いが醒めた。
警視と警部と私服巡査の三人が徳市を取り巻いた。
王冠堂の番頭久四郎は証人として傍に居た。
警部がボロボロの十円札と受取証と指環のサックを突き付けて徳市を訊問した。
徳市はメソメソ泣きながらも何もかも白状した。
津島商会は……
金杉橋停留場の近くです……
警官連は顔を見合わせた。
警視は呼鈴を押して一人の警部と三人の私服巡査を呼んで何事か命令を下した。
四人の警官は自動車に乗って去った。
徳市はそのまま留置所に入れられた。
番頭久四郎は一枚の名刺を出して警部に渡した。
これは主人の名刺で御座います……
失礼で御座いますが代理としてお願い致します……
実は店の信用に拘わりますので……
どうぞなるべく秘密に一ツ……
警視はうなずいた。
久四郎は一同に叮嚀にお辞儀をして去った。
人夫頭の吉が入れ代って這入って来た。警視に名刺を出してお辞儀をしながら汗を拭いた。
私服巡査が留置所の中の徳市に会わせた。
吉はなまけものの徳市に相違ないと保証した。徳市に向って忌々しげに云った。
飛んだ肝を潰させやがる……
貴様みたいな奴はもう雇わない……
こう云い棄てると吉は警官に一礼して去った。
警部と私服巡査三名の一行が手を空しくして帰って来た。警官一同呆れた顔を見合わせた。
―― 9 ――
徳市は十円の紙幣を下渡されて拘留所を出た。汚れた紳士姿のままボンヤリと当てもなくうなだれて歩き出した。長い事歩いて後静かな通りへ来た。
ドン――……
徳市は吃驚して頭を上げた。空いた腹を撫でまわしてあたりを見まわした。眼の前に立派な家が立っていた。何気なくその表札を見た。
┌───────────┐
│ 下六、一九 ホシノ │
└───────────┘
徳市は急にシャンとなった。ポケットに手を入れて十円札を引き出した。ボロボロになった表裏をあらためて又ポケットに入れた。キョロキョロとして早足に歩き出した。
徳市はそれからとある洋品店に這入って大きなブラシを一つ買って釣銭を貰った。表へ出てホッと一息した。そのブラシを持って手近い横路地へ這入って帽子、上衣、ズボン、靴まで綺麗に払った。ブラシを尻のポケットに仕舞って揚々と往来へ出た。
次に向うの活版屋に這入って名刺を注文して前金を払った。その次には安洋食店に這入って酒を飲みながら鱈腹詰め込んだ。その払い残り五円で花束を買って、往来の靴繕いを見付けて靴を磨かせた。最後に活版屋へ行って名刺を受取った。
―― 10 ――
徳市は星野家を訪うて名刺を出した。
ハイカラな女中が出て来て奥へ取り次いだがやがて引返して来て応接間に案内した。
徳市は応接間に這入るとポケットから葉巻を出して吹かし初めた。
星野智恵子はさも嬉し気に這入って来た。貴婦人も這入って来て挨拶をした。
私は智恵子の母時子と申します……
この間は何とも……
まことに……
徳市は苦笑しながら礼を返した。謹んで花束を智恵子に捧げた。
智恵子の眼は感謝に輝やいた。
母子は茶や菓子を出して徳市をもてなした上、近いうちに智恵子が出演する歌劇の切符を二枚徳市に与えた。
智恵子は意味あり気な眼付きをして云った。
もう一枚の方は……
どうぞ奥様に……
徳市はハッと顔を撫でて苦笑した。
ヤ……
私は……
まだ独身で……
智恵子もハッと半巾で口を蔽いながらあやまった。
マ……
どうも失礼を……
徳市は高らかに笑った。
智恵子も極まり悪げに笑った。
時子が傍から取りなした。
ではお友達にでも……
徳市は急に真面目になって暇を告げた。
智恵子と時子は名残を惜しんだ。
徳市は二枚の切符を懐中にして逃げるように星野家を出た。
―― 11 ――
徳市は星野家を出ると又行く先がなくなった。懐中には唯帝劇の切符が二枚ある切りであった。スッカリ悄気てとある横町を通りかかった。
労働者の風をした男が徳市に近付いて肩に手をかけた。
徳市は立ち止まってふり返ると、変装した浪越憲作を認めてハッとよろめいた。
憲作はニヤリとして口に指を当てた。眼くばせをして先に立った。
徳市はうなだれてついて行った。
二人はやがて丸の内の山勘横町へ来た。事務所様の扉を押して憲作はふり返った。
徳市は躊躇しいしいあとから這入って行った。
憲作は暗い階段をいくつも上った。天井裏のような処まで来ると、そこにある安ストーブの前に椅子を二つ持って来て並べながら徳市にストーブを焚けと命じた。
徳市は面を膨らした。
憲作は睨み付けた。
徳市は渋々シャベルを執って壁際に散らばっている石炭を掻き集めた。
憲作はニヤニヤと笑った。
徳市はストーブに火を入れてよごれたハンケチで拭いた。
憲作は近寄って徳市のポケットの中から二枚の切符と名刺の箱を引き出した。
徳市は慌てて取り返そうとした。
憲作は手を引こめながら切符を見るとニヤリと笑って一枚を徳市に返した。徳市に椅子を進めて自分も向い合いに腰をかけた。
徳市はしょげ返って腰をおろした。
憲作は徳市の名刺を見た。
┌──────┐
│ 足達徳市 │
└──────┘
憲作は名刺の箱を徳市に返しながら肩をたたいた。
とうとう貴様も悪党になったな……
しかも凄い腕じゃないか……
徳市は小さくなってうなだれた。
憲作はそり返って笑った。
アッハッハッハ……色男……
まあそう屁古垂れるな……
おれが力になってやる……
あの娘と夫婦にしてやる……
徳市は頭を擡げて恨めし気に憲作を睨んだ。
憲作は睨み返した。ポケットから大きな黒いピストルを出して見せた。徳市の顔に自分の顔を寄せて云った。
その代り……
嫌だと云えあ……
これだぞ……
徳市は又うなだれた。ブルブルと顫えた。眼から涙を一しずく落した。
憲作はジッと徳市の様子を見てうなずいた。ピストルを引っこめて代りに札の束を出した。儼然として云った。
心配するな……
サアこれを遣る……
この金でおれの指図通りに仕事をしろ……
でないともう智恵子に会えないぞ……
徳市は手を引っこめて小さくなった。
憲作は右手にピストル左手に札の束をさし付けてニヤリニヤリと笑った。
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