―― 11 ――
その夜養策が外出の留守中、音絵は独で「雪」を弾いていた。
すると誰とも知れず表を尺八で合せて行くものがあった。
音絵は琴を弾きさしたまま表に駈け出したがもうそれらしい人影はなかった。音絵はしおしおと家に這入った。
物蔭から竹林武丸が現れて、音絵の落した琴の爪を拾い、軒燈の光りに照して「歌寿」という文字を見るとハッと驚いてあたりを見まわした。押し頂いて懐中して去った。
音絵はそれから琴を弾かなくなった。何故となく床に就き養策は限りなく心配した。
―― 12 ――
或る夜歌寿の家に忍び込んで、歌寿の枕元に札の束の包みを置いて行ったものがあった。歌寿は不審がった。夜になると僅かな音にも眼を覚ました。それでも、その後度々の金包が彼女の枕元に置かれた。歌寿はその金に少しも手を附けずに寝床の下に隠した。
―― 13 ――
月の冴え渡った冬の深夜であった。
音絵の住む家から一町ばかりのとある四辻に一台の自動車が止まった。中から和服の紳士風の竹林武丸が現れて音絵の家に近寄り、尺八を取り出して「残月」を吹き始めた。
しかし音絵は出て来なかった。
武丸は尺八を仕舞って塀を乗り越えて、音絵の寝室に忍び入った。
音絵と看護婦は熟睡していた。その枕元に睡眠薬と手筥があった。
武丸は懐中から手紙を取り出して手筥に入れようとすると、中から琴の爪筥と「青眼鏡の賊」の記事を載せた新聞の切れ端が出て来た。
武丸はハッと驚いた。あたりを見廻して腕を組んで考えたが何か二三度うなずいて手紙を仕舞い、懐中から魔睡剤を取り出して二人の女に嗅がせ初めた。
―― 14 ――
音絵は夢を見ていた……武丸と連れ立って雪の中を果てしもなくさまようていた……がふと気が付くと自動車の中で、武丸に抱かれて知らぬ野道を走っていた。
これはと驚く音絵を武丸は押し鎮めた。
青い眼鏡を見た音絵は一切を覚った。武丸の膝に泣き伏した。
武丸はその背を撫でて「何事も因縁です。因縁は運命よりも何よりも貴いものです」と云った。
音絵は泣きながらうなずいた。
武丸は盗んで来た音絵の晴れ着と化粧道具でその姿を改めさせ、自分は老人に変装した。
―― 15 ――
自動車は鶴屋という温泉宿に着いた。
武丸は運転手に「オトエハタケマルトトモニブジ」と書いた電報を渡して「帰って夜が明けたらすぐに打て」と命じて多額の口止め金を与えた。
宿屋にも充分の心付けをして「当分娘と共に厄介になるから」と最上等の室へ案内させた。
室に通ると音絵は武丸に「又父に会われましょうか」と問うた。
武丸は自分の胸を打って事もなげに微笑した。
音絵は元気が出て久し振り湯に入った。
―― 16 ――
音絵の家は大騒ぎになった。狂気のような養策、泣き伏す看護婦、警察の人々、親類縁者、近所の人々、診察に来る患者などがゴッタ返した。
戸塚警部は音絵の手筥に秘められた琴の爪が一つ足りない事と、その下に敷いてある新聞に「青眼鏡の賊」の記事が載っている事を発見して腕を組んだ。それから間もなく家の外まわりの土塀の蔭に落ちている紙包みを拾って見ると、中から不足している琴の爪を発見した。手筥の指紋、賊の足跡等が次から次へ調べられた。
戸塚警部は養策に琴の爪を示して一つ離れている理由を問うた。
養策は空しく頭を振った。
戸塚警部は歌寿を訪うて同じように琴の爪を示した。
歌寿は渡された爪を手で探って見て「これは私がお嬢様に差し上げたもの」と云った。
戸塚警部はうなずいた。「それではそのお嬢様に秘密の愛人がある事を聴かなかったか」ときいた。
歌寿は屹となった。「隠し男を持つようなお嬢様ではありません」と云った。
戸塚警部は首をひねって去った。
その立ち去る足音を聞き澄ました歌寿は裏表の戸締りを厳重にして、寝床の下から札の束の包みを出し火鉢に入れて焼き初めた。涙が止め度なく流れた。
歌寿の弟子で養策の治療を受けている一人の男が、音絵の失踪を知らせに来たが、表戸が閉まって中から煙が洩れて来るのでいよいよ驚いて表戸をたたき離して飛び込んで来た。
見ると火鉢の中で札の束が燻っているので仰天して、抓み出そうとして焼けどをした。
歌寿は烈しく咽び入った。
―― 17 ――
温泉宿鶴屋を出た自動車の運転手は帰る途中で泥酔して人を轢いた。警察に引っぱられて調べられると一切を白状して武丸からことづかった電報を見せた。
戸塚警部とその部下を載せた自動車が間もなく警察の門を出た。雪を衝いて暁の野をヒタ走りに鶴屋の門前に乗り付けた。武丸と音絵はしかしもう居なかった。
戸塚警部はすぐにそこの警察に駈け付けて助力を乞い、二手に別れて雪の国道に自動車を馳せた。
戸塚警部の自動車は山道にかかった。
はるかの岨道を乞食体の盲目の男と手引女が行くのが見えた。自動車は追い迫った。
乞食夫婦が道の傍に避けると自動車はピタリと止った。中から戸塚警部が現われて乞食男の青い眼鏡を奪った。
二人は睨み合った。
女のうしろから近寄った一人の刑事が、女を不意に雪の中に引きずりたおした。
男は唇を噛んだ。突然懐中から拳銃を出して一発の下に女を射ちたおした。自分も自殺しようとした。
戸塚警部はその拳銃をたたき落して組み付いた。
男は警部を投げ付けておいて崖の上から身を躍らした。
戸塚警部が崖の下に駈け付けた時にはもう人影はなかった。しかし草の葉に数滴の血のしたたりと、雪の上を林の奥へ続いた足跡が残っていた。
戸塚警部はあとを逐うた。
―― 18 ――
その夜頭に繃帯をした武丸は歌寿の家の前に立って「鶴の巣籠り」を吹いた。
歌寿は病の床から起き上って戸を開いた。
武丸は転がるように中に這入ってあとを閉し「お母さん」と縋り付いた。
歌寿は泣き且つ怒った。「勘当をされても手癖がなおらぬ上に大恩ある家のお嬢様を盗むは何事だ」と責めた。
「どうしてそれを御存じ!」と武丸は驚いた。
「知らいでなるものか。お嬢様をかえせ」と歌寿は責めた。
武丸はひれ伏して泣きに泣いた。
そこへ大勢の警官が踏み込んだ。
武丸は巧みに逃れた。
歌寿は失神したまま息を引き取った。
―― 19 ――
糸川家に音絵の屍体が到着した。
養策はその屍体を見ると泣き倒おれて、奥の一室に連れ込まれた。人々は慰めかねた。
僧侶が来て読経したあと悲しい通夜が行われた。哲也も音絵の相弟子として列席した。
夜更けて幌を深く下した人力車が玄関に着いた。中から羽織袴の竹林武丸が威儀正しく現われて、案内なしに座敷に通り一同に会釈して霊前に近付き、礼拝を遂げて香を焚き、懐中から名器「玉山」を取り出して「罌子の花」を吹奏し初めた。
通夜の人々は初め驚いたが、間もなくその妙音に魅せられてしまった。
哲也は武丸の持つ尺八を見ると青くなって座敷を辷り出してどこへか急いで行った。
「罌子の花」を吹き終った武丸は尺八を霊前に捧げ、音絵の枕元に進み寄り、死に顔を見て黙祷し涙に掻き暮れた。
狂人の表情になった養策が奥から出て来た。突立ったままこの光景を見下した。
武丸は養策を見ると手を合せてひれ伏した。そのまま血を吐いて死んだ。
哲也は戸塚警部を同伴して来た。
戸塚警部は頭に繃帯をした武丸を見るとツカツカと近寄って引き起したが、忌々しそうに突き転ばした。
養策が高らかに笑い出した。
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なまけものの恋
―― 1 ――
作良徳市は夢を見ていた。
……富豪の両親が一人子の彼をこの上なく愛し育てているところ……
……彼が貰い立ての高等商業の卒業免状を家中に見せまわって祝福を受けているところ……
……震災で両親を喪うと同時に莫大な遺産を受け継いで喜びと悲しみとに面喰っているところ……
……彼が放蕩を初めているところ……
……親戚や朋友の忠告をはねつけているところ……
……とうとう一文無しになって馴染の女の処へ無心に行き愛想尽かしを喰って追い出されているところ……
……自棄酒を飲んでますます落ちぶれて行くところ……
そんな夢を次から次へ見ている最中に徳市はお尻の処を強く蹴られて眼を覚ました。
彼は穢ない仕事着を着て石の上に腰をかけていた。前には人夫頭の吉が恐ろしい顔をして立っていた。徳市は眼をこすった。
吉は徳市の尻を今一つ強く蹴った。
又なまけていやがる……
早く仕事をしないか……
徳市は不承不承に立ち上った。道路工事の水揚ポンプの柄につかまった。
―― 2 ――
吉は仕事を仕舞って帰って行く人夫の群れを見送った。
徳市は吉の前に進み寄った。帽子を脱いでペコペコした。
済みませんが給金をすこし……
吉は彼を押し飛ばした。
間抜けめ……
貴様みたいな奴は喰わしておくだけでも損が立つんだ……
吉はそのままスタスタと去った。
徳市はうなだれて合宿の方へ歩いた。途中のバアの前で何度も立ち止まったが、懐へ手を入れると諦めて歩き出した。
―― 3 ――
徳市はとある淋しい横町を通りかかった。
立派な紳士が一人徳市のうしろから現れた。徳市の様子に眼をつけるとツカツカと近寄って肩に手をかけた。
徳市は立ち止ってふり返った。
紳士はニコニコして云った。
若いの……
一寸そこまで来ないか……
うまい仕事があるんだが……
徳市は帽子を脱いだ。オズオズしながら云った。
どんな御用ですか旦那……
紳士は又ニッコリした。
今夜十二時迄……
君の身体を借してくれれば……
十円上げるがどうだね……
徳市は妙な顔をした。しかし又思い直した。決心したらしくお辞儀をした。
お伴しましょう……
紳士はうなずいた。ポケットから煙草を出して徳市にすすめた。マッチを擦って徳市のにつけてやり自分も吸い付けると、先に立ってあるき初めた。
徳市も従いて行った――横町から――横町へ――
―― 4 ――
紳士はとある路地の入口で立ち止まった。その角の家の硝子扉を押してふり返った。
徳市はその家の小さな表札を見た。
┌────────┐
│ 津島貿易商会 │
└────────┘
紳士は眼くばせをして中に這入った。
徳市も這入った。中は立派な事務室であった。
紳士は手ずから瓦斯ストーブに火をつけて電気をひねった。その前の椅子に徳市を坐らせて差し向いになった。机の上の呼び鈴を押した。
次の室へ通ずる入り口から眼の覚めるような美人が現れた。愛想よく叮嚀に徳市にお辞儀をした。
いらっしゃいませ……
徳市は慌てて礼を返した。
美人は戸棚の内からウイスキーの瓶とコップを取り出して、二人の中に並べてなみなみと注いだ。
徳市はお辞儀しいしい吸い付いた。
紳士も一息に干した。
美人は又一杯注いで叮嚀に徳市に一礼して次の間へ去った。
紳士は溢るるばかりの愛嬌を見せて徳市に云った。
承知してくれるでしょうね……
徳市は飲みさして顔を上げた。口を拭いて真面目な顔になった。肩で息をしながら云った。
どんな仕事でしょうか……
紳士はますますニコニコした。ますます叮嚀に云った。
何でもないんです……
今夜十二時迄僕の云う通りになるのです……
御承知なら唯今十円差し上げます……
成功すれば百円差し上げるという証文を添えて……
どうです……
徳市はすっかり酔ってしまった。ワクワクフラフラしながらうなずいた。
紳士はポケットからボロボロの十円札を一枚と証文のようなものを出して徳市の前に置いた。
徳市は受け取って証文の署名を見た。
――浪越憲作――
紳士――憲作は念を押すように云った。
よろしいですね……
徳市はうなずいて証文と十円札を懐に仕舞った。すぐにコップに手をかけた。
憲作はニコニコして酌をしながら半分真面目に云った。
人間は働らかねば駄目です……
徳市は眼をつむってグ――ッと飲み干した。
憲作は呼鈴を鳴らした。
美人が出て来た。
二人は眼くばせをし合って徳市を奥へ案内した。
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