「アッハッハッハッハッ……」
冷めたい、底意地の悪るそうな高笑いが、小雨の中の片側松原から聞こえて来た。小田原の手前一里足らず。文久三年三月の末に近い暮六つ時であった。
石月平馬はフット立止った。その邪悪な嘲笑に釣り寄せられるように松の雫に濡れながら近付いて行った。
黄色い桐油の旅合羽を着た若侍が一人松の間に平伏している。薄暗がりのせいか襟筋が女のように白い。
その前後に二人の鬚武者が立ちはだかっていた。二人とも笠は持たず、浪人らしい古紋付に大髻の裁付袴である。無反りの革柄を押えている横肥りの方が笑ったらしい。
「ハッハッハッ。何も怖い事はない。悪いようにはせんけんで一所に来さっせえちうたら……」
「関所の抜け道も教えて進ぜるけに……」
「……エッ……」
若侍は一瞬間キッとなったが軈て又ヒッソリと低頭れた。凝と考えている気配である。
「ハハ。贋手形で関所は抜けられるかも知れんが吾々の眼の下は潜れんば……のう……」
「そうじゃそうじゃ……のうヨカ稚児どん。そんたは男じゃなかろうが……」
「……も……もっての外……」
と若侍は今一度気色ばんだが、又も力なく頭を下げた。隙を窺っているようにも見えた。
……フウン。肥後侍かな……。
と平馬は忍び寄りながら考えた。
……いずれにしてもこの崩れかかった時勢が生んだナグレ浪人に違いない。相当腕の立つ奴が二三人で棒組む……弱い武士と見ると左右から近付いて道連れになる。佐幕、勤王、因循三派のどれにでも共鳴しながら同じ宿に泊る。馳走をするような調子で酒肴を取寄せる上に油断すると女まで呼ぶ。あくる朝はドロンを極めるというのがこの連中の定型と聞いた……歎かわしい奴輩ではある……。
そう考えるうちに若い平馬の腕が唸って来た。
……自分はお納戸向きのお使番馬廻りの家柄……要らざる事に拘り合うまい……。
とも考えたが、気の毒な若侍の姿を見ると、どうしても後へ引けなかった。黒田藩一刀流の指南番、浅川一柳斎の門下随一という自信もあった。去年の大試合に拝領した藩公の賞美刀、波の平行安の斬味見たさもあった。
その鼻の先で鬚武者が今一度点頭き合った。
「サアサア。問答は無益じゃ無益じゃ。一所に来たり来たり。アハハハ……アハアハ……」
女と侮ったものか二人が前後から立ち寄って来るのを若侍はサッと払い除けた。思いもかけぬ敏捷さで二三足横に飛んだと思うと、松の蔭から出て来た平馬にバッタリ行き当った。
「……アッ……」
と叫んだ若侍が刀の柄に手をかけたが、その利腕を掴んだ平馬は、無言のまま背後に押廻わした。二人の浪人と真正面に向い合った。
「……何者ッ……」
「邪魔しおるかッ」
「名を名宣れッ」
という殺気立った言葉が、身構えた二人の口から迸った。
「ハハ。名宣る程の用向きではないが……」
平馬は落付いて笠を脱いだ。若侍も平馬を味方と気付いたらしい。背後で踏み止まって身構えた。
「委細は聞いた。貴公達が肥後の御仁という事もわかったが、しかし大藩の武士にも似合わぬ見苦しい事をなさるのう……」
「何が見苦しい」
「要らざる事に差出て後悔すな」
「ハハ。それは貴公方に云う事じゃ。関所の役人は幕府方と心得るが、貴公方はいつ、徳川の手先になった」
二人はちょっと云い籠められた形になったが、間もなく平馬が、まだ青二才である事に気が付いたらしい。心持ち引いていた片足を二人ともジリジリと立て直して来た。
「フフフ。武士たる者が松原稼ぎをするとは何事か。両刀を手挟んでいるだけに、非人乞食よりも見苦しいぞ」
平馬がそう云う中に、相手はいつとなく左右に離れていた。こうした稼ぎに慣れ切っているらしく、平馬が持っていた菅笠を、背後の若侍に渡す僅かな隙を見て、同時に颯と斬込んで来た。その太刀先には身動きならぬ鋭さがあった。
「……ハッ……」
と若侍が声を呑んだ。その眼の前を、平馬が撥ね上げた茶色の合羽が屏風のように遮ったが、それがバッタリと地に落ちた時、二人の浪人はモウ左右に泳いでいた。切先の間に身を飜した平馬が、一方を右袈裟に、一方を左の後袈裟にかけて一間ばかり飛び退いていた。
俯向けに横倒おしになった二つの死骸の斬口を確かめるかのように、平馬はソロソロと近付いた。それから懐紙を出して刀を拭い納めると、
「このような者に止を刺す迄も御座るまいて……」
と独言を云い云い白い笠を目当に引返して来た。
松の雫の中に立っていた若侍は、平馬に聞こえるほど深いため息をした。
「お怪我は御座いませなんだか」
「イヤ。怪我をする間合いも御座らぬ」
と笑いながら返り血一滴浴びていない全身をかえり見た。
「ありがとう存じまする。大望を持っておりまする身の、卑怯とは存じながら逃げる心底でおりましたところ、お手数をかけまして何とも……」
ちゃんと考えていたのであろう。若侍がスラスラと礼の言葉を陳べたので、思い上っていた平馬は、すこしうろたえた。
「いや。天晴れな御心懸け……あッ。これは却って……」
と恐縮しいしい茶合羽と菅笠を受取った。
「お羨しいお手の内で御座いました。お蔭様でこの街道の難儀がなくなりまして……」
「……まことに恥じ入りまするばかり……」
言葉低く語り合ううちに松原を出た。そうして二人ともタッタ今血を見た人間とは思えぬ沈着いた態度で、街道の傍に立止まった。
明るい処で向い合ってみると又、一段と水際立った若侍であった。外八文字に踏開いた姿が、スッキリしているばかりではない。錦絵の役者振りの一種の妖気を冴え返らせたような眼鼻立ち、口元……夕闇にほのめく蘭麝のかおり……血を見て臆せぬ今の度胸を見届けなかったならば、平馬とても女かと疑ったであろう。
その若侍は静かに街道の前後を見まわしながら、黄色い桐油合羽の前を解いた。ツカツカと平馬の前に進み寄って、恭々しく、頭を下げた。
「……手前ことは江戸、下六番町に住居致しまする友川三郎兵衛次男、三次郎矩行と申す未熟者……江戸勤番の武士に父を討たれまして、病弱の兄に代って父の無念を晴らしに参りまする途中、思いもかけませぬ御力添えを……」
「ああいやいや……」
平馬は非道く赤面しながら手をあげた。
「……その御会釈は分に過ぎまする。申後れましたが拙者は筑前黒田藩の石月と申す……」
「……あの……黒田藩の……石月様……」
といううちに若侍は顔を上げて、平馬の顔をチラリと見た。しかし平馬は何の気も付かずに、心安くうなずいた。
「さようさよう。平馬と申す無調法者。御方角にお見えの節は、お立寄り下されい」
「忝のう存じまする。何分ともに……」
若侍は又も、いよいよ叮重に頭を下げた。
「……何はともあれこのままにては不本意に存じまするゆえ、御迷惑ながら小田原の宿まで、お伴仰せ付けられまして……」
「ああ……イヤイヤ。その御配慮は御無用御無用。実は主命を帯びて帰国を急ぎまするもの……お志は千万忝のうは御座るが……」
「……御尤も……御尤も千万とは存じまするが、このままお別れ申してはいつ、御恩返しが……」
「アハハ。御恩などと仰せられては痛み入りまする……平に平に……」
「……それでは、あの……余りに御情のう……おなじ御方角に参りまする者を……」
「申訳御座らぬが、お許し下されい。……それとも又、関所の筋道に御懸念でも御座るかの……慮外なお尋ね事じゃが……」
「ハッ。返す返すの御親切……関所の手形は仇討の免状と共々に確と所持致しておりまする。讐仇の生国、苗字は申上げかねまするが、御免状とお手形だけならば只今にもお眼に……」
「ああイヤイヤ。御所持ならば懸念はない。御政道の折合わぬこの節に仇討とは御殊勝な御心掛け、ただただ感服いたす。息災に御本望を遂げられい。イヤ。さらば……さらば……」
平馬は振切るようにして若侍と別れた。物を云えば云う程、眼に付いて来る若侍の妖艶さに、気味が悪るくなった体で、スタスタと自慢の健脚を運んだ。振り返りたいのを、やっと我慢しながら考えた。
……ハテ妙な者に出合うたわい。匂い袋なんぞを持っているけに、たわいもない柔弱者かと思うと、油断のない体の構え、足の配り……ことに彼の胆玉と弁舌が、年頃と釣合わぬところが奇妙じゃ。……真逆に街道の狐でもあるまいが……。
などと考えて行くうちに大粒になった雨に気が付いて、笠の紐をシッカリと締上げた。
……いや……これは不覚じゃったぞ。「武士は道に心を残すまじ。草葉の露に足を濡らさじ」か……。ヤレヤレ……早よう小田原に着いて一盞傾けよう。
刀の手入を済ましてから宿の湯に這入ってサバサバとなった平馬は、浴衣がけのまま二階に上ろうとすると、待ち構えていたらしい宿の女中が、横合いから出て来て小腰を屈めた。
「……おお……よい湯じゃったぞ……」
「おそれ入りまする。あの……まことに何で御座いますが、あちらのお部屋が片付きましたから、どうぞお越しを……」
「ハハア。身共は二階でよいのじゃが……別に苦情を申した覚えはないのじゃが……」
「……ハイ……あのう……主人の申付で御座いまして……」
「……そうか。それならば余儀ない」
平馬は鳥渡、妙に考えたがそのまま、女に跟いて行った。女中は本降になった外廊下を抜けて、女竹に囲まれた離座敷に案内した。
十畳と八畳の結構な二間に、備後表が青々して、一間半の畳床には蝦夷菊を盛上げた青磁の壺が据えてある。その向うに文晁の滝の大幅。黒ずんだ狩野派の銀屏風の前には二枚襲ねの座布団。脇息。鍋島火鉢。その前に朱塗の高膳と二の膳が並べてある。衣桁にかかった平馬自身の手織紬の衣類だけが見すぼらしい。
お小姓上りだけに多少眼の見える平馬は、浴衣がけのまま、敷居際で立止まった。
「……これこれ女……」
女は絹行燈の火を掻立てながら振返った。
「そちどもは客筋を見損なってはいやらぬか。ハハハ……身共は始終、この辺を往来致す者……斯様な部屋に泊る客ではないがのう……」
「ハイ……あの……」
女は真赤になって行燈の傍に三指を突いた。
「……まこと……主人の申付けか……」
「……あの。貴方様が只今お湯に召します中に、お若いお武家様が表に御立寄りなされまして……」
「……何……若い侍が……」
「ハイ。あのう……お眼に掛って御挨拶致したい筋合いなれど、先を急ぎまする故、失礼致しまする。万事粗略のないようにと仰せられまして、私共にまで御心付けを……」
「……ヘヘイ。只今はどうも……飛んだ失礼を……真平、御免下されまして……」
五十ばかりの亭主と見える男が、走って来て平馬の足元に額を擦り付けた。
「……また只今は御多分の御茶代を……まことに行き届きませいで……早や……」
平馬は突立ったまま途方に暮れた。使命を帯びている身の油断はならぬ……が、志の趣意は、わかり切っている。最前の若者が謝礼心でしたに相違ないことを無下に退けるのも仰々しい……といってこれは亦、何という念入りな計らい……年に似合わぬ不思議な気転……と思ううちに又しても異妖な前髪姿が、眼の前にチラ付いて来た。
「……どうぞ、ごゆるりと……ヘイ。まことに、むさくるしい処で御座いますが……」
と云ううちに亭主と女中が退って行った。
平馬は引込みが付かなくなった。そのまま床の前の緞子の座布団にドッカと腰を下して、腕を組んでいると今度は、美しく身化粧した高島田の娘が、銚子を捧げて這入って来た。
「……入らせられませ。あの土地の品で、お口当りが如何と存じますが……お一つ……」
平馬は腕を組んだまま眼をパチパチさせた。
「お前は……女中か……」
「ハイ……あの当家の娘で御座います」
「ふうむ。娘か……」
「……ハイ。あの……お一つ……」
平馬は首をひねりひねり二三献干した。上酒と見えていつの間にか陶然となった。
……ハテ。主命というても今度は、お部屋向きの甘たるい事ばかりじゃ。附け狙われるような筋合いは一つもないが……やはり最前の若侍が真実からの礼心であろう……。
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