むろんその手紙には、学術研究のために問合せるのだから、仮令事実であっても絶対秘密にする……云々という追而書が添えてありましたし、問題の龍代も、最早トックにお位牌になっていた時分のことですから、私の心配も半分以下で済んだようなものでしたが、しかし、それにしても重大問題には相違無いので、取るものも取りあえず上京して目黒の精神病院を訪問してみますと……又もシインとするほど脅かされたのでした。頑丈な鉄の檻の中に坐り込んでいた、患者姿のAは、とりあえず見舞いに来た私の顔を、ハッキリと記憶していたばかりでなく、何やら訳のわからない紙片を鉄棒の間から突出しながら、辻褄の合わない脅迫めいた文句を、私に向って浴びせかけるではありませんか。むろんその紙片は、私の事を書いた新聞の複写か何かと思い込んでいたものに違い無いのですが……。
私はその複写拡大紙面の実物と、ブロマイドに焼付けられた妻子のグロ写真とを並べて、副院長の自室で見せてもらいましたが、それを見ているうちに初めて、自分の過去の記憶を電光のように呼び起す事が出来ました私は、あんまり烈しいショックを受けましたために、一時失神状態に陥ってしまったものです。
しかし間もなく、副院長の介抱によって正気に帰りますと、私は、すぐに非常な勇気を奮い起しまして、Aが自白した一切の事実を確認しました上に、尚足りないところを詳細に、副院長の前で補足してしまいました。そうしてAの一身に関する相当の保護を依頼すると同時に、私の前身を公表するかしないかという重大な判断はタッタ一つ……副院長の自由意志に一任しまして、その旨を半狂人のAに詳しく云い聞かせますと、そのまま北海道に引上げてしまいました。これは申すまでもなく、万一、私の前身が公表されました場合、落付いて刑に就くべく心用意をしておくためでした。……いくら他人の秘密を預るのが商売の精神病医でも、これ程の秘密を握り潰すのは、容易な事であるまいと思いましたからね。
……エッ……何ですって……。
私の話がトンチンカンですって……。
これは怪しからん。どこがトンチンカンですか。私は立派に順序を立ててお話ししているつもりですが……。
何ですか……その新聞記者のAという男の本名は、まだ思い出さないかって仰有るのですか……サア。それがまだ思い出せないのですが……モウジキに思い出すだろうと思っているんですが……。
……オヤ……何故お笑いになるのですか。
ヘエ。ここがその目黒の病院なんですか。ヘエッ。それじゃA君もここに居る訳ですね。ヘエ――ッ。ほんとうに居るのですか。……ちっとも知らなかった。イッタイどこに……。
エッ。……ここに居る……。
……ナ……何ですか……私がその新聞記者のAだと仰有るのですか。御冗談ばかり……私は只今も申しました通り、谷山家の養嗣子秀麿ですが。その久美子という、猛獣天女の亭主に相違ないのですが……龍代と二重結婚をしたアノ白痴同様の……。
エッ。その秀麿……谷山家の養子になった私が、ここに入院した原因をお尋ねになるのですか。そ……それはその……その発狂当時の事ですからチョット思い出しかねるのですが……。
……お笑いになっちゃ困ります。鏡なんか見なくたっていいです。自分の顔は自分でちゃんと知っております。
……ナ……ナ……何と仰有るのですか。その谷山秀麿は、今でもやはり谷山家の養子になって、盛んに事業界に活躍している。後妻には山の中から久美子を迎え出して、谷山夫人を名乗らしている……そ……それあ怪しからんじゃないですか……二人は今後、絶対に人間世界に帰らないと云って、あれ程固く約束していたのに……イヤイヤ。私の想像なんかじゃないのです。事実に相違ないのです。実に……ジツに怪しからんですなあ……。
ヘエ。何ですって……ここの副院長から与えられた暗示で、美事に過去の記憶を回復した谷山秀麿は、北海道に引返してから間もなく、副院長の誠意を籠めた手紙を受取ったので、ホット一息安心することが出来た。そうしてAの一生涯を、病院で飼殺しにしてもらうように、折返して返事を出すと、すぐにタッタ一人で極秘密の裡に、旭岳の麓へ久美子を迎えに行ったのですか。ヘエ……そこで流石の猛獣天女だった久美子も、なつかしい昌夫の泪ながらの告白に負けてしまった。ハハア……作り飾りの無い、昌夫の純情に動かされた結果、龍代の身代りになって、谷山家の一粒種……龍太郎を育て上げるべく、涙ぐましい決心をした。成る程……そこで四人の子供を左右に引連れた猛獣天女が、はるばると人間世界に天降る事になったが、それに就ては昌夫の秀麿が、思い出深い石狩川の上流から、エサウシ山下の別荘まで、人に知れないように連れ込むべく、アラユル苦心を払ったものである。いかにもねえ……それから久美子の戸籍面の届出や、子供の行儀作法のテストに至るまで、又もや惨憺たる苦心研究を積ませられたものであるが、さてそのあげく、イヨイヨ一行を谷山家に乗込ませて見ると、案ずるよりも生むが易いで、久美子の奥様振りが頗る板に付いたアザヤカナものだったので、龍代の再来という評判が立って、一躍、界隈の社交界をリードするようになった。同時に家庭も極めて円満で、五人の子供達にミジンの分け隔ても見せないから、将来、谷山家の秘密に気付くものは絶対に出ない見込である……だからその事に就ては、絶対に心配しなくともいいと仰有る……ナア――ンダイ。馬鹿にしやがらア……。
イヤ……アハハハハ……これあ失敗った。うっかりネタを曝らしちゃった。
アハハハ。実はね。先生をドウかして一パイ引っかけて、マンマと首尾よく退院してくれようと思いましてね。この間から寝ないで話の筋を考えていたんです。そうしたらツイ今サッキ尻餅を突いた拍子に、自分の経歴を思い出したような気がしたもんですからね。こいつあ占めたと思って、すぐに先生の処へ来たんですが……ハアテネ……。
俺は一体、誰の経歴を思い出したんだろう……自分で調べた他人の経歴を思い出したんじゃないか……ハテ…いけねえいけねえ。モットよく考えて来れあよかった。どこかに辻褄の合わない処があったんだ……。ヨオシ……今度こそは……。
エッ。昨日も僕が同じ話をしに来たんですって……一昨日も……ズット前から何度も何度も……アノ僕が……ヘエ……。だから先生の方でも、谷山さんに頼まれた通りに、繰り返し繰り返し詳しい事情を説明して、ヤキモキしないように云って聞かせているが、ドウしてもわからない……僕がですか……ヘエ。おまけに自分の事と、他人の事とをチャンポンにして考えたりするので、話がだんだんトンチンカンになって来る。だから君のアタマはタシカでない。谷山家の事なんか忘れてしまって、モット気楽に養生しなければ、いつ退院出来るかわからない……ヘエ――……。それあ誰のことですか……エッ……僕のこと……ヘエ。そうして貴方は……。失礼ですが、どなたですか。
エッ。副院長の助手さん……一緒に僕の心理状態を研究している……。
……ウワア……しくじったア。それじゃ何でも知っている筈だ。僕は又院長さんかと思った。院長さんなら、まだ一度も僕に会ったことがないから、もしかすると一パイ喰うかも知れないと思ったんだが……いけねえいけねえ……。
アッハッハッハッハッハッハッハッ……。
ああア――ッ。くたびれたアッ……ト……。
ねえ先生……話し賃に煙草を一本下さいな…………。
……オヤア――ッ。誰も居やがらねえ……。
ここは監房の中だ……おかしいな。俺あサッキから一人で饒舌ってたのかな……フーン……イッタイ何を饒舌ってたんだろう……。
……桐の花が、あんなに散ってやがる…………。
……アッ……忘れていたッ…………。
俺あ龍代に復讐するつもりだったんだ……彼女は俺に肱鉄を喰わせやがったんだ……妾をオモチャにするつもり……って冷笑しやがったんだ。だからその通りにしてやったんだ。前科者を亭主に持たして、一泡吹かしてくれようと思ったのが、間違ってコンナ事になってしまったんだ。あべこべに俺がキチガイ扱いされる事になったんだ。
エエッ……コンナ篦棒な……不公平な……。
俺あ谷山家に怨みがあるんだ。ココを出してくれ。不法監禁だぞ畜生……ドウスルカ見ろ……龍代の阿魔……。出してくれ出してくれ出してくれくれくれ……出してくれッ……。出して……くれエエエ――ッ……。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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