何を隠しましょう、今朝の事です。しかもタッタ今の出来事です。私は病室の床の上にこぼれていた茶粕の上で、ウッカリ足を踏み辷らして、ヒドク尻餅を突いたのですが、そのトタンに、トテモ素晴らしい大事件が持上ったのです。永い間忘れていた過去の記憶……石狩川に陥ち込んだ以前の、身の毛も竦立つ記憶の数々が、一ペンにズラリッと頭の中で蘇ってしまったのです。同時にモウこれで私は、自分の頭の故障から完全に解放された……と気が付きましたので、早速ながらこうして、退院のお許しを受けに参りました次第ですが……。
ハイ……実を申しますと、この秘密をお話しするのは、私にとって身を切られるよりも辛いのです。むろん社会的にも、モノスゴイ反響を喚起すに違いない重大事件ですから、万一、公表でもされますと、私を中心とする一切合財が、破滅に陥るかも知れないと思われるのですが、しかし私自身の一生涯が、この病院の中で埋れ木になるか、ならないかの境い目と思いますから、背に腹は換えられない気持ちで、先生にだけソッとお打明けする次第ですが……ハハイ……ハイ。
先生はズット前に、誰からか、コンナ話をお聞きになった事がありましょう。
北海道は石狩川の上流、山又山のその又奥の奥山に、一軒の原始的な小舎が建っているのが見える。その家は北面の背後を、旭岳に続く峨々たる山脈に囲まれている一方に、前面は切立ったような、石狩本流の絶壁に遮られていて、人間業では容易に近付けない位置に在るので、ツイこの頃まで、誰にも発見されないままになっていたものらしい。
ところが最近に到って、北海道特有の薬草採りが、霧に出会って山道に踏み迷った結果、偶然に、遠くからこの一軒屋を発見してからというもの、急に評判が高くなって、北海道中に拡がってしまった。……その一軒家は、まだ誰も知らないアイヌ部落の離れ小舎だろうと云う者が居る。一方に、それは北海道名物の、監獄部屋から脱出した人間が、復讐を恐れて隠れているのだ……といったような穿った説が出るかと思うと、イヤそうではあるまい。ことによるとそれは、太古以来生き残っている原人の棲家かも知れない……なぞと云い出す凝り屋も居る。そうかと思うと……ナアニそれは薬草採りが見当違いをしたんだ。大方北見境に居る猟師の家を遠くから見たんだろう……なぞと茶化してしまう者も居る……といった塩梅で、サッパリ要領を得ないままに、噂ばかりがヤタラに高まって行った。
そのうちにその評判が、トウトウ新聞社の耳に這入ると、イヨイヨ騒ぎが大きくなってしまった。結局Aが奉公していた小樽タイムスの政敵、函館時報社の飛行機で撮影された、その家の鳥瞰写真が、紙面一パイに掲載されることになったが、その写真をよく見ると、それは明らかに日本人が建てたらしい草葺小舎で、外国映画に出て来る丸太小舎式の恰好をしているばかりでなく、純日本式の野菜畑や、西洋式の放射状の花畑なぞが、ハッキリと映っているところを見ると、皆の想像とは全然違った文化人の住居に違いない。しかも、それでいてその位置はというと、確かに、北海道の脊梁山脈の中でも、人跡未踏の神秘境に相違ないのだから、その一軒家が何人の住家であろうかは、容易に推測されない訳である。奇怪……不思議……といったような事実が、同乗の記者によって詳細に報道された。そうしてそのまま猟奇の輩の口端に上って、色々な臆説の種になっているばかりである……という事実を、先生は多分、何かの雑誌か、新聞で御覧になった事でしょう。ハハア。まだ御覧にならない……。御研究がお忙しいのでね。成る程……それでは致し方がありませんが、何を隠しましょう、その一軒屋こそ、私が建てた愛の巣なのです。私が妻子と一所に、楽しい自給自足の生活を営んでいた、第二の故郷に相違ないのです。……イヤどうも……御免下さい。どうも胸が一パイになりまして……ハハイ……ハハイ……。私は石狩本流の絶壁から墜落したトタンに、そうした記憶をスッカリ喪っていたのです。ええええ。事実ですとも事実ですとも……。
私の戸籍が偽物であることは、私の生れ故郷の村役場に御照会下されば一目瞭然することです。その戸籍面を偽造して、私を初め谷山一家の人々を欺いていたのが、誰でもない、新聞記者のAだったのですからね。
私が二度目の結婚問題に差し迫られたまま、旅行にカコ付けて家を飛び出したのも、かつは誰にも知れないようにAに面会してみたかったからでした。Aはその頃、小樽タイムスを罷めて、九州地方をウロ付いているという噂でしたからね。何かしら私の過去に就いて、探りに行ったのじゃないか……といったような気がしたからです。それから二度目に、モウ一度家を脱け出した時も、そうした潜在意識に支配されていたのでしょう。何となく石狩の上流に行ってみたい。そうしたら何もかもわかるに違い無い……といったような気持になったからでした。
併し、最早そんな無駄骨折をする必要は無くなりました。私が完全に過去の記憶を回復しているのですからね……同時に、そのお蔭で、谷山家の養子事件を裏面からアヤツリ廻して来た、冷血残忍なAの手の動きを、ハッキリと見透かしながら、お話する事が出来るのですからね……。
私は福岡県朝倉郡の造酒屋、畑中正作の三男で、昌夫と呼ばれていた者です。父の持山に葡萄を栽培するのが目的で、駒場の農科大学に入学して、卒業間際になっていた者ですが、九州人の特徴として、器量も無い癖に政治問題の研究に没頭した結果、当時の大政党憲友会の暴状に憤慨し、同会総裁、兼、首相であった白原圭吾氏を暗殺して終身懲役に処せられ、北海道樺戸の監獄に送られて間なく脱獄し、爾来、杳として消息を絶っていた者……と申しましたら、その他の細かい履歴は申上げずとも宜しいでしょう。暗殺、逮捕、脱獄の前後を通じて、全国の新聞紙に仰々しく掲載されていたものですからね……。
しかしその中に唯一つ、私の脱獄の理由として新聞紙上に伝えられていたものが皆、飛んでもない間違いばかりであった事は、誰も気付かないでいるでしょう。再度の暗殺決行とか、社会主義的潜行運動のためとか、又は露西亜への逃亡のためとかいったような風説が皆、御念の入った当てズッポーばかりで、天下を聳動した私の脱獄の動機なるものが、実は他愛もないモノであった事を知っている人間は、そう沢山には居ない筈です。
私が樺戸に落付いてから間もなくの事でした。東京で恋の真似事をしておりました女給の鞆岐久美子というのが、遥々、北海道まで尋ねて来て、思いがけなく面会に来てくれたのです。
この事実は間もなく新聞紙上に伝えられまして、活動写真にまで仕組まれたそうですから、御存じの方もありましょうが、何を隠しましょう。私はその時に、彼女から受けました巧妙な暗示と、係官に怨恨を抱いておりました同囚の者の同情とに依りまして、何の苦もなく脱獄を決行する事が出来たのです。……しかもその脱獄の方法というのが、特に私の生命に拘わる重大問題でありまして、同時に同囚の恩人たちにも、非常に迷惑のかかる話ですから、こればかりはこの口を引裂かれてもお話出来ないのです。……が……ともかくもそのような事情で、首尾よく逮捕の手をのがれました私は、彼女と共に石狩川の下流を越えまして、例の絶対安全の神秘境に恋の巣を営むことになったのです。
もっともコンナ風に話して参りますと、何のことはないお伽話みたような筋道になってしまいますが、併し、そこまで来る間の私共の辛苦艱難と、それから後の孤軍奮闘的生活といったら、優にロビンソン・クルーソー以上の奇談を綴るに足るものがあったのですよ。
私は樺戸を脱出するとそのまま、持って生れた健脚を利用して、山又山を逃げ廻りながら、一心に久美子の行衛を探索し初めたものです。無論囚人服を着たままですから、夜しか人里に出られなかった訳でしたが、私は盗みというものを絶対にしない方針でしたので、どこまでも青いお仕着せ姿で、鳥獣と同じ生活をして行かなければなりませんでした。ですから、その最初の間の苦しみというものは、実に想像の外でしたが、併し又一方から申しますと、そうした辛棒のお蔭で、私の逃げ足が絶対にわからなかったのですから、詰るところ差引の損得は無かったかも知れません。のみならずその辛棒の甲斐がありまして、脱獄してから一個月目に、新旭川附近の只ある村外れで、彼女が私に暗示していた、小さな奇術劇団の辻ビラがブラ下っているのを発見しました時の、私の喜びはドンナでしたろう。忽ち勇気を百倍しました私は、アラユル危険を物ともせずに、折からの暗夜に紛れて、旭川の町にかかっているその劇団に付き纏うたものでしたが、そのうちに、トウトウ彼女と連絡を取ることに成功しますと私は、迅速に手筈をきめまして、一気に彼女を引っぱり出してしまったのです。
その時に生命と頼むものは、大急ぎで彼女に買集めさした一挺の鍬と、一本の洋刀と、リュックサックに詰めた二つの鍋と、六貫目ばかりの食料だけでした。その以外には何の準備も出来ない囚人服のまま、舞台裏から飛出して来たばかりの、金ピカ洋装の彼女と手に手を取って、涯てしない原始林の奥を目がけて、盲滅法に突進したのですからね。恋は盲目と申しますが、これくらい思い切った盲目ぶりはチョットほかに類が無いでしょう。
しかもその途中では、深山幽谷に慣れた薬草採りでも震え戦く、寒い寒い霧に包まれて、二日二晩も絶食したまま、土の中に穴を掘って潜り込んだり、又は背丈よりも高い灌木林を、一反歩以上も掻き散らして、木の根を掘った餓え熊の爪の跡を見て、モウ運の尽きだと諦めて、二人で抱き合って泣き出したり、それはそれは喜劇とも悲劇とも付かない情ない目や、恐ろしい目に何度会ったものかわかりません。
ところでそのような次第で、木の実榧の実を拾いながらヤットのことで、念がけていた人跡未踏の山奥に到着しますと、私は辛苦艱難をして持って来た鍬と、ナイフで木を伐り倒して、頑丈な掘立て小舎を造り、畠を耕して自給自足の生活を初めると同時に、小川の魚を釣って干物にしたり、木の実を煮て苞に入れたりして、冬籠の準備を初めました。
二人はそこで初めて、この上もなく自由な、原始生活の楽しさを悟ったのです。科学、法律、道徳といったような八釜しい条件に縛られながら生きている事を、文化人の自覚とか何とか錯覚している馬鹿どもの世界には、夢にも帰りたくなくなったのです。
二人は約束しました。……二人はこれから後イクラ子供が出来ても、年を老っても、モウ人間世界へは帰るまい。アダムとイブが子孫を地上に繁殖させたようにして、吾々の子孫をこの神秘境に限りなく繁殖させよう。自然のままの文化部落を作らせよう……と……。
彼女はそれから年児を生みました。私が二十一の年から二十五までの間に、男の児と女の児を二人宛、都合四人の子供を生みましたが皆、病気一つせずに成長しましたので、山の中が次第に賑やかになって参りました。
ところが忘れもしませんその二十五の夏の事でした。最前お話しました新聞社の飛行機が、突然に私の家の上を横切りましたのは……。
その時の子供たちの脅えようといったらありませんでした。ちょうど私は家の前の草原に、放射状の花壇を作って、山から採って来た高山植物を植えかけておりましたが、思いがけない西北の方角から、遠雷のような物音が近付いて来ますと、踊るような恰好をして逃げ迷っている子供等と一所に、慌てて家の中へ逃げ込んだものです。そうして軒下に積んだ寝床用の枯草の中から、青い青い石狩岳の上空に消え失せて行く機影を見送っているうちに何か知らタマラない不吉な予感に襲われましたので、ホーッと溜息を吐いておりますと、その背後から久美子もソッと不安気な顔をさし出して、
「妾達を探しに来たのじゃないでしょうか」
と云ったものです。それを聞くと私は、思わずドキンとしましたが、しかし顔ではサリ気なく微苦笑しまして、
「ナアニ。俺たちみたような人間を探すのに、ワザワザあんな大袈裟な事をするもんか。しかも今頃になって……ハハハ……」
と打消すには打消したものの、それでも押え切れない不吉な胸騒ぎをドウする事も出来ないまま、立ち竦んでいたことでした。
私はそれから後、四五日の間というもの、ドウしても遠くに出歩るく気がしなかったものです。むろん写真まで撮られていようなぞいう事は、夢にも気付きませんでしたので、ただ、私共の居る神秘境をダシヌケに掻き乱して行った巨鳥の姿を、思い出しては溜め息しいしい、家の周囲の畠ばかりをいじくっていたものですが、そのうちに又、眼の前に差迫っている冬籠りの用意の事を思出しますと、何がなしにジッとしては居られなくなりましたので、お天気のいいのを幸いに、手製のタマ網を引っ担いで、鱒をすくいに出かけました。
久美子はその時にも、不安そうな顔をして私を引止めましたが、矢張り虫が知らせたとでも申しましょうか。それを振り切って山を下りまして、紅山桜や、桂の叢林を分けながら、屏風を切り立ったような石狩本流の崖の上まで来ますと、生木の皮で作った丈夫な綱をブラ下げまして、下の石原に降り立って、岩の間の淀みに迷う鱒や小魚を、掬い上げ掬い上げしておりました。
すると……どうでしょう。まだホンの五六匹しか掬い上げていないと思ううちに、ツイ向うの川隈の岩壁の蔭から、中折帽を眉深に冠った洋装の青年が、畳みボートを引っぱりながら、ヒョックリと顔を突き出したではありませんか……。
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