桐の青葉が蝙蝠色に重なり合って、その中の一枚か二枚かが時折り、あるかないかの夕風にヒラリヒラリと踊っている。
うるんだ宵星の二つ三つが、大きく大きくその上にまばたき初めると、遠く近くの魂がヒッソリと静まり返って、世界中が何となく生あたたかい悪魔のタメ息じみて来る。
その桐畠の片隅の一番低い葉蔭に在る、太い枝の岐れ目に、昼間から一匹の髪切虫がシッカリと獅噛み付いていた。その髪切虫が、そうした悪魔気分に示唆られて、ソロソロとその長い触角を動かし初めた。
髪切虫にとっては、触角を動かす事が、つまり、考える事であった。見る事であった。聞く事であった。嗅ぐ事であった。あらゆる感覚を一つに集めた全生命そのものであった。その卵白色とエナメル黒のダンダラの長い長い抛物線型に伸びた触角は、宇宙間に彷徨している超時間的、超空間的の無限の波動を、自由自在の敏感さで受容れるところの……そうして受入れつつユラリユラリと桐の葉蔭で旋回しているところの……変幻極まりない鋭敏な、小さい、生きた、アンテナそのものであった。
蝙蝠色に重なり合った桐の葉の群れのズット向うの、青い半円型の草山の蔭の地平線から、ボヘメヤ硝子色のサーチライトが、空気よりも軽く、淋しい、水か硝子のように当てどもなく、そこはかとなく撒き散らされていた。だからその草山の方向に、何気なく触角を向けている中に髪切虫は、何ともいえない大宇宙の神秘さをヒシヒシと感じ初めて来たのであった。
その草山の向うの、海の向うの、大陸の向うの、星座の向うの、まだまだずっと向うの、大地が作る半円球越しの何千里か向うの広い広い土地は、まだその日の正午近くらしかった。その焦げ付く程熱した、沙漠の塵埃だらけの大空に、何千年か前から漂い残って、ニュートンの引力説に逆行し、アインシュタインの量子論を超越した虚空の行き止まりにぶつかって、極く極くデリケートな超短波の宇宙線に変化しながら、やっと引返して来たイーサーの霊動が、蛍の光のように青臭く、淋しく、シンシンと髪切虫の触角に感じて来るのであった。
それはナイル河底の冥府の法廷で、今から一千九百六十五年前に、記録係のトートの神が読上げた、神秘的な、薄嗄れた声が大空の涯から引返して来た旋律に相違なかった。
青桐の幹にシッカリと獅噛み付いた髪切虫の触角がピインと一直線に伸び切って、眼にも止まらぬ位すばらしく細かく……ブルルン……ブルルン……ブルブルブルルルルルルルルルルルルルルルルル……と震動し初めた。
エジプトの 御代しろしめす
美しき クレオパトラの
わが女王は 笑はせたまはず」
国々は うれひに鎖し
民草は 悲しみ濡れて
朝まつり いとおろそかに
夜のおとど みあかし暗く
まさびしき 御閨のうち
わが女王は 寝がへらせつゝ
ひそやかに 歎かせたまふ」
われはこれ 美はしの女王
エジプトの 御代を治めて
神々の 力をかねて
思ふこと とゞかぬは無く
ねごふこと かなはぬはなし
何一つ 不足なけれど
ただ一つ みちたらぬもの
わが知れる 生きとし生ける
ものみなは などかくばかり
たど/\と ものうきやらむ」
天地は 古くよごれて
ものみなは 汗ばみつかれ
めざめては 又ゐねむりて
ちりひぢに まみれ腐れて
おなじ日と おなじ月のみ
さびしらに かゞよひ渡る」
われもまた あだいたづらに
春秋を 老いて行くのみ
ああわれは かくはかなくも
エジプトの 御代を知りつゝ
神々の まもりうけつゝ
此の広き 山と河にも
おもしろく をかしき事を
何一つ 見出でぬまゝに
老い行きて 死に果てむ身か」
御涙 ハラ/\と落ち
ほのぼのと 夜は明けわたる」
折しまれ あなめづらしや
女王様の 御声として
カヤ/\と 笑はせ給ふ」
わが女王の 御閨ぬちに
いづくより 迷ひ入りけむ
一匹の 髪切虫を
かしこくも 捕はせ給ひ
此上もなく 興がらせつゝ
黄金にも たとへ難かる
御髪を あたへ給ひて
啄ばませ 喰ませ給ひて
カヤ/\と 笑はせ給ふ」
あなをかし 髪切虫よ
おもしろの 髪切虫よ[#底本では、この「髪切虫よ」だけ1字上がっている]
いつまでも 髪切り飽かず」
あかつきの 雲の波打つ
はてしなき わが黒髪を
残りなく 切りつくさむとや
丸坊主に しつくさむとや」
埃及の 御代を知る身を
はばからね 髪切虫よ
汝こそは 虫の王なれ
青光る 髪切虫よ
美はしの 髪切虫よ」
われ死なば 汝に慣ひて
髪切の 虫と生まれて
かぎりなく 恋を重ねて
はてしなく 卵を生みて
黒雲の 天ぎるきはみ
白浪の 打ち寄るかぎり
匐ひまはり 且つ飛びかけり
闇といふ 闇に忍びて
女てふ 女の髪を
こと/″\く 喰べつくして
青空の たなびくところ
黒つちの くゞまるところ
人間の さまよふきはみ
口づけの 結ぼほるかぎり
美しき 坊主あたまを
永久永遠に 流行らせむかな
あなをかし あなおもしろや
おもしろの かみきり虫や
ヒヒヒホホ カヤ/\/\/\」
女王の御代 これより朗らに
大御心 ひらけ浮かれて
歌宴して 舞ひ給ふとて
腋下の おん渦巻毛
こと/″\く 抜かせ給ひて
かの虫に あたへ給ひぬ」
さればわが 女王の御果て
み誓ひの 固きにまかせ
御柩の 御片隅に
彼の虫の 木乃伊を作り
秘めやかに 納めまつりつ
女王様の 髪切虫の
生れまさむ 来世を待ちね
美はしき 坊主頭を
永久永遠に 流行らせむ為」
されば聞け 後の世の人
女王様の 木乃伊納めし
御柩の おん片隅に
女王様の 御髪喰みつゝ
髪切虫 今も啼くなり
千年の 神秘をこめて
キツチ/\……ヰツチ/\……
……ギイ/\/\/\/\……」
「キッキッ。ギイギイギイギイギイ」
桐の葉蔭の髪切虫は、思わず啼いてしまった。その拍子にイーサーの霊動がフッツリと感じられなくなってしまったが………。
……しかし……それでも若い髪切虫は感激にふるえ上ったのであった。
ただ残念なことに、自分が果して二千年前の
埃及女王クレオパトラの生れ変りなのか。それとも女王様の寝棺の中に秘め置かれた髪切虫か、
河馬にも喰われず、
太陽神にも叱られずに二千年後の
今日、
輪廻転生の道理に恵まれて、
呼吸を吹返して来たものか、その辺のところがサッパリ判明しなかったが、やがて間もなく、そんな事はどうでもいい事に気が付いたので、髪切虫は一層、朗かになった。
「そうだ。
妾はこれから恋を探さなければならない。そうして卵を沢山に生んで、可愛い子供をウジャウジャ
撒き散らして、世界中の女の
髪毛をみんな朗かに
啖べさせて、一人残らずクルクル坊主にしてしまわなければならないのだわ」
けれども彼女は恋というものがドンナものか知らなかった。……一体恋なんていうものはドンナ処に、ドンナ風にして在るものだろう……と思って、ソロソロと桐の葉の上に匐い上りながらそこいらを見まわした。
桐畠の周囲の木立は、大きくまばたく
夕星の
下に、青々と暮れ悩んでいた。その重なり合った枝と、葉と、幹の向うに白々と国道が横たわっていて、その向うのポプラの樹が行儀よく立並んだ間から、何だかわからない非常に美しいものが光って見えた。
それは何ともいえず匂やかな、柔かい薄桃色の絹シェードの光であった。
「アラッ。まあ何て神秘な光でしょう。……妾は思い出したわ。虫の血で染めたパピルスの
行燈を……ナイル河に臨んだ王宮の
燈火を……妾の恋はキットあそこに在るのに違いないわ」
それから彼女はシッカリと畳まっている左右の羽根を生れて初めて、
夕暗の中でユルユルと拡げてみた。なやましい湿度を含んだ風が羽根の裏側にヒッソリと沁み渡った、と思うと彼女は早や、青い青い夕星の下の
宵暗を、はるかはるかの桃色の光に向って一直線に飛んで行くのであった。
「アッ。お父様……髪切虫が来ましたよ」
「ナニ。髪切虫が……」
「ええ。お父様が今夜は違った虫が捕りたいから誘蛾燈に赤いシェードを掛けとけって
仰言ったでしょう。ですからそうしといたら蝶々は一匹も来ないでコンナ髪切虫が……」
「ううむ。面白いのう。甲虫は一体に赤い色が好きなのかも知れんのう」
「オヤッ。この髪切虫は普通のと違っている。この間お父様が大学で見せて下すった化石の髪切虫によく似てますよ。ね。ホラネ。
身体が
瓢箪型になって、触角がズット長くて……おまけにトテモ綺麗ですよ。
卵白色と、黒
天鵞絨色のダンダラになって……ホラ……ネ……」
「フウム。成る程。これは珍しいのう。三千年ばかり前のツタンカーメンの墓の中から出て来た、実物の
木乃伊とはすこし色が違うが、これがホントの色じゃろう。今はモウこの世界から絶滅している種類だと聞いているのに……おかしいなあこんな処に居るのは……」
「その
木乃伊の棺の中から生き返った奴が
埃及から飛んで来たのじゃないでしょうか」
「アハハハ。そうかも知れんのう。とにかく標本にしといて御覧……学界に報告してみるから……」
青酸
瓦斯にみちみちた
硝子の毒壺に入れられるべくピンセットで挟み上げられた時、彼女は思わず手足と触角を振りまわして悲鳴をあげた。今を最後の千古の神秘をこめて、
「ギチギチギチギチ。イチイチイチイチ。ギイギイギイ。カヤカヤ……カヤカヤカヤカヤカヤ……」
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。