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難船小僧(エス・オー・エス・ボーイ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-8 14:07:48  点击:  切换到繁體中文


「見やがれ。コン畜生ちくしょうくたばるんなら手際よくクタバレ」
 といった調子である。残酷なようであるが、限られた人数にんずで限られた時間に仕事をしなければ、機関長の沽券こけんにかかわるんだからむを得ない。所謂いわゆる、近代文明って奴の裡面りめんには到る処にこうした恐ろしい地獄が転がっているんだ。勿論、俺自身が、その中からタタキ上げて来たんだから部下に文句は云わさないがね……。
 その俺が横浜桟橋のショボショボ雨の中に突立って、積込つみこむ石炭を一々検査していると汗と炭粉で菜葉服なっぱふくを真黒にした二等機関士セカンドのチャプリンひげが、あえぎ喘ぎ駈け降りて来て「トテモ手が足りません。何とかして下さい」と云うんだ。
「馬鹿。そう右から左へ人が雇えるか」
 と一喝いっかつすると「それでもデッキの方で誰か一人でもいいんですから」と泣きそうな顔をする。
「馬鹿ッ。デッキの方だって相当忙がしいんだ。殴られるぞ」
「……でも船長室のボーイが遊んでいます」
「あんな奴が何の役に立つんだ」
「……でも、みんなそう云っているんです。この際、紅茶のお盆なんか持ってブラブラしている奴はタタキ殺しちまえって……」
「君から船長にそう云い給え」
「ドウモ……そいつが苦手なんで」
「よし。俺が云ってやろう」
 忙がしいのでイライラしていた俺は、二等運転手チャプリンの話が五月蠅うるさかったんだろう。そのまま一気にタラップを馳上かけあがって、船長室に飛込んだ。船長は相も変らず渋紙色の無表情な顔をして、湯気の立つ紅茶をすすっていた。傍の鉛張なまりばりの実験台の上で、問題の伊那少年が銀のナイフでホットケーキを切っていた。
 俺は菜葉服のポケットに両手を突込んだまま小僧の無邪気な、ういういしい横顔をジロリと見た。
「この小僧を借してくれませんか」
 伊那少年の横顔からサッと血の気がせた。おびえたように眼を丸くして俺と船長の顔を見比みくらべた。ホットケーキを切りかけた白い指が、ワナワナと震えた。……船長も内心愕然ぎょっとしたらしい。飲みさしの紅茶を静かに下に置いた。すぐに云った。
「どうするんだ」
石炭すみ運びの手が足りないって云うんです。みんなブツブツ云っているらしいんです……済みませんが……」
「臨時は雇えないのか」
「急には雇えません。二十四時間以内の積込つみこみですからね。明日あしたになら合うかも知れませんが……みんなモウ……ヘトヘトなんで……」
 船長のひたいに深い竪皺たてじわ這入はいった。コメカミがピクリピクリと動いた。当惑した時の緊張した表情だ。こうした場合の、そうした船員の気持が、わかり過ぎる位わかっているんだからね。
 それから船長は白いハンカチで唇のまわりを叮寧ていねいいた。ソロソロと立ち上って伊那少年を見下した。伊那少年も唇を真白にして、涙ぐんだを一パイに見開いて船長の顔を見上げたもんだ。
 その時の船長の云うに云われぬ悲痛な、同時に冷え切った鋼鉄のような表情ばかりは、今でも眼の底にコビリ付いているがね。
 船長はコメカミをピクピクさせながら大きく二度ばかり眼をしばたたいた。俺の顔をジッと見て念を押すように云った。
「大丈夫だろうな」
 俺は無言のまま無造作にうなずいた。
 俺と一所いっしょに静かに、二三度うなずいた船長は伊那少年を顧みて、硝子ガラスのような眼球めだまをギラリと光らした。決然とした低い声で云った。
「……ヨシッ……行けッ……」
「ウワア――アッ……」
 と伊那少年は悲鳴を揚げながら船長室を飛出したが……その形容の出来ない恐怖の叫び、悲痛のひびき、絶体絶命の声が俺は、今でも思い出すたんびにゾッとする。伊那少年は石炭運びの恐ろしさを知っていたのだ。いな、ソレ以上の恐ろしい運命が、石炭運びの仕事の中に入れまじっているのを予感していたのだね。
 しかし伊那少年は逃れ得なかった。船長室の外には、俺のアトから様子を見に来た向う疵の兼が立っていた。大手を拡げて伊那少年を抱きすくめてしまったもんだ。
「ギャア――。ウワアッ。助けて助けて……カンニンして下サアイ。僕はこの船を降りますから……どうぞどうぞ……助けてエ助けてエッ……」
「アハハハ。どうもしねえだよ。仕事を手伝いせえすれあ、ええんだ」
「許して……許して下さあい。僕……僕は……お母さんが……姉さんがうちに居るんですから……」
 伊那少年はれたデッキに押え付けられたまま、手足をバタバタさして泣き叫んだ。
「ウハハハハ。何をかすんだ小僧。心配しんぺいしるなって事……おらが引受けるんだ。このかね受合うけおうたら、指一本さしゃしねえかんな。……云う事を聴かねえとコレだぞ」
 兼は横に在った露西亜ロシア製の大スコップを引寄せた。そうして手を合わせて拝んでいる少年を片手で宙につるした。小雨こさめの中で金モール服がキリキリと廻転した。
「致します致します。何でも致します。……すぐに……すぐに船から下して下さい。殺さないで下さい」
「知ってやがったか。ワハハハハハハハ」
 兼は大口をいて笑いながら私たちを見まわした。船長も二等運転手も、多分俺の顔も石のようにこわばっていた。あんまり兼の笑い顔が恐ろしかったので……ひたい向疵むこうきずまでが左右にひらいて笑ったように見えたので……。
「……サ柔順おとなしく働らけ。誰も手前てめえの事なんか云ってる奴は居ねえんだからな。ハハハ」
 小雨の中に肩をすぼめて艙口ハッチを降りて行く伊那少年の背後うしろ姿は、世にもイジラシイあわれなものであった。
 そうして俺達はソレッキリ伊那少年の姿を見なかったのだ。
 犬吠埼いぬぼうさきから金華山きんかざん沖の燈台を離れると、北海名物の霧がグングン深くなって行く。汽笛を矢鱈やたらに吹くので汽鑵きかん圧力計ゲージがナカナカ上らない。速力も半減で、能率の不経済な事おびただしい。
 一等運転手と船長と、俺とが、食堂でウイスキー入りの紅茶を飲みながらコンナ話をした。
「今度は霧が早く来たようだね」
「すぐ近くに氷山がプカプカやっているんじゃねえかな。霧が恐ろしく濃いようだが……」
「そういえば少し寒過さむすぎるようだ。コンナ時にはウイスキー紅茶に限るて……」
「紅茶で思い出したがアノS・O・Sの伊那一郎は船長がおろしたんですか」
 船長は木像のように表情をこわばらせた。無言のまま頭を軽く左右に振った。
「おかしいな。横浜以来姿が見えませんぜ」
「ムフムフ。何も云やせん。あの時、君に貸してやった切りだ」
「ジョジョ冗談じゃない。僕に責任なんか無いですよ。デッキの兼に渡した切り知りませんが、貴方も見ていたでしょう」
ったんじゃねえかな……兼が」
 と云ううちに一等運転手チーフメートが自分でサッと青い顔になった。
「……まさか。本人も降りると云ってたんだからな……無茶な事はしまいよ」
「しかし降りるなら降りるで挨拶あいさつぐらいして行きそうなもんだがねえ」
「ムフムフ。まだ船の中に居るかも知れん……どこかに隠れて……」
 と船長が云って冷笑した。例の通り渋紙の片隅へしわを寄せて……硝子球ガラスだまをギョロリと光らして……。俺は何かしらゾッとした。そのまま紅茶をグッと飲んで立上った。
 こうした俺たちの会話は、どこかられたか判然わからないがたちまち船の中へパッと拡がった。
「捜し出せ捜し出せ。見当り次第海にブチ込め。ロクな野郎じゃねえ」
 と騒ぎまわる連中も居たが、そんな事ではいつでも先に立つ例のむこきずかねが、この時に限って妙に落付いて、
「居るもんけえ。飲まず食わずでコンナ船の中へれるもんじゃねえちたら。逃げたんだよ」
 とみんなを制したのでソレッキリ探そうとする者もなかった。しかし、それでも伊那少年の行方は妙にみんなの気にかかってしまったらしく、狭い廊下や、デッキの片隅を行く船員の眼はともすると暗い処をのぞきまわって行くようであった。
 船を包む霧は益々ますます深く暗くなって来た。
 モウ横浜を出てから十六日目だから、大圏コースで三千マイル近くは来ている。ソロソロかじをE・S・Eに取らなければ……とか何とか船長と運転手が話し合っているが、俺はどうも、そんなに進んでいるような気がしなかった。しかもその割りに石炭の減りようがはげしいように思った。これは要するに俺の腹加減で永年の経験から来た微妙な感じに過ぎないのだが、それでも用心のために警笛を吹く度数を半分から三分の一に減らしてもらった。同時に一時間八ノット経済速度エコノミカルスピードの半運転を、モウ一つ半分に落したものだから、七千トンの巨体がありうようにしか進まなかった。
「オイ。どこいらだろうな」
「そうさなあ。どこいらかなあ」
 といったような会話がよく甲板の隅々で聞こえた。むろん片手を伸ばすと指の先がボーッと見える位ヒドイ霧だから話している奴の正体はわからない。
汽笛ふえを鳴らすと矢鱈やたらにモノスゴイが、鳴らさないと又ヤタラにさびしいもんだなあ」
「アリュウシャン群島に近いだろうな」
「サア……わからねえ。太陽も星もねえんだかんな。六分儀なんかまるで役に立たねえそうだ」
「どこいらだろうな」
「……サア……どこいらだろうな」
 コンナ会話が交換されているところへ、老人の主厨しゅちゅうが飼っているまだらのフォックステリヤが、甲板にけ上って来ると突然に船首の方を向いてピッタリと立停たちどまった。クフンクフンと空中をぎ出した。同時にワンワンワンワンと火の附くようにえ初めた。
「オイ。おかだ陸だッ」
 とアトからいて来た主厨の禿頭はげあたまが叫ぶ。成る程、波の形が変化して、眼の前にボーッと島の影が接近している。
「ウワッ……おかだッ……大変だッ」
後退ゴスタン……ゴスタン……おかだ陸だッ」
「大変だ大変だ。ぶつかるぞッ……」
 ワアワアワアワアとはちの巣をつついたような騒ぎのうちに、船はたちまちゴースタンして七千トンの惰力をヤット喰止くいとめながら沖へ離れた。船首にグングンのしかかって来る断崖だんがい絶壁の姿を間一髪の瀬戸際まで見せ付けられた連中のひたいには皆生汗なまあせにじんだ。
「あぶねえあぶねえ。冗談じゃねえ。汽笛ふえを鳴らさねえもんだから反響がわからねえんだ。だからおかに近いのが知れなかったんだ」
「機関長の奴ヤタラにスチームを惜しみやがるもんだからな……テキメンだ」
「今の島はどこだったろう」
「セント・ジョジじゃねえかな」
「……手前てめえ……行ったことあんのか」
「ウン。飛行機を拾いに行った事がある」
「何だ何だセント・ジョジだって……」
「ウン。間違まちげえねえと思う。波打際なみうちぎわ恰好かっこうに見おぼえがあるんだ」
篦棒べらぼうめえ。セント・ジョジったらアリュウシャン群島の奥じゃねえか」
「ウン。船が霧ん中でアリュウシャンをん抜けて白令海ベーリング這入はいっちゃったんだ」
「間抜けめえ。船長おやじがソンナ半間はんまな処へ船をるもんけえ」
「駄目だよ。船長おやじにはもうケチが附いてんだよ。S・O・S小僧にたたられてんだ」
「でも小僧はモウ居ねえってんじゃねえか」
「居るともよ。船長おやじがどこかに隠してやがるんだ。夜中に船長室をのぞいたらシッカリ抱き合って寝てたっていうぜ」
「ゲエッ。ホントウけえ」
「……真実まったくだよ……まだ驚く話があるんだ。主厨カカンの話だがね、あのS・O・S小僧ってな女だっていうぜ。……おめえ川島芳子よしこッてえ女知らねえか」
「知らねえね。○○女優だろう」
「ウン……あんな女だっていうぜ。毛唐けとうの船長なんか、よくそんな女をボーイに仕立てて飼ってるって話だぜ。寝台ねだいの下の箱に入れとくんだそうだ。自分の喰物くいものけてね」
「フウン。そういえば理窟がわかるような気もする。女ならS・O・Sにちげえねえ」
「だからよ。この船の船霊様ふなだまさまア、もうトックの昔に腐っちゃってるんだ」
「ああいやだ嫌だ。おらアゾオッとしちゃった」
「だからよ。船員みんなは小僧を見付みつけ次第タタキ殺して船霊様ふなだまさまきよめるって云ってんだ。汽鑵かまへブチ込めやあ五分間で灰も残らねえってんだ」
「おやじの量見が知れねえな」
「ナアニヨ。S・O・Sなんて迷信だって機関長に云ってんだそうだ。俺の計算に、迷信が這入はいってると思うかって機関長にってかかったんだそうだ」
「機関長は何と云った」
「ヘエエッて引き退さがって来たんだそうだ」
「ダラシがねえな。みんなと一所に船を降りちまうぞっておどかしゃあいいのに」
「駄目だよ。ウチの船長おやじは会社の宝物ほうもつだからな。チットぐれえの気紛きまぐれなら会社の方で大目に見るにきまっている。船員のりくみだって船長おやじが桟橋に立って片手を揚げれや百や二百は集まって来るんだ」
「それあそうかも知れねえ」
「だからよ。晩香坡バンクーバに着いてっからS・O・Sの女郎めろうをヒョッコリ甲板デッキに立たせて、ドンナもんだい。無事に着いたじゃねえかってんで、コチトラを初め、今まで怖がっていた毛唐連中をギャフンとらわせようって心算つもりじゃねえかよ」
「フウン。タチがよくねえな。事によりけりだ。コチトラ生命いのちがけじゃねえか」
「まったくだよ。船長おやじはソンナ事が好きなんだからな」
「機関長も船長おやじにはペコペコだからな」
「ウムウム。この塩梅あんばいじゃどこへ持ってかれるかわからねえ」
「まったくだ。計算にケチが付かねえでも、アタマにケチが付けあ、仕事に狂いが来るのあ、おんなじ事じゃねえかな」
「そうだともよ。スンデの事にタッタ今だって、S・O・Sだったじぇねえか」
「ああ。いやだいやだ……ペッペッ……」
 コンナ会話を主檣メインマストの蔭で聞いた俺は、何ともいえない腐った気持になって、霧の中を機関室へ降りて行った。……これが迷信というものだかどうだか知らないが、自分の頭の中まで濃霧のうむとざされたような気になって……。

 それから三日ばかりした真夜中から、波濤なみの音が急に違って来たので眼がめた。アラスカ沿岸を洗う暖流に乗り込んだのだ……と思ったのでホッとして万年寝床ベッドの中に起上たちあがった。
 同時に船橋ブリッジから電話が来て、すぐに半運転を全運転に切りかえる。霧笛むてきをやめる。探照燈を消す。機関室は生きあがったように陽気になった。一等運転手の声が電話口に響いた。
「石炭はドウダイ」
桑港シスコまで請け合うよ。霧は晴れたんかい」
「まだだよ。海路コースは見通しだが空一面に残ってるもんだから天測が出来ねえ」
「位置も方角もわからねえんだな」
「わからねえがモウ大丈夫だよ。サッキ女帝星座カシオペヤが、ちょうどそこいらと思う近処きんじょへウッスリ見えたからな。すぐに曇ったようだが、モウこっちのもんだよ」
「アハハハ。S・O・Sはどうしたい」
「どっかへフッ飛んじゃったい。船長おやじ晩香坡バンクーバからさけかにを積んで桑港シスコから布哇ハワイへ廻わって帰るんだってニコニコしてるぜ」
「安心したア。お休みい……」
布哇ハワイでクリスマスだよオオ――だ……」
「勝手にしやがれエエ……エ……だ……」
「アハアハアハアハアハ……」
 ところがこうした愉快な会話が、霧が晴れると同時にグングン裏切られて行ったから不思議であった。
 夜が明けて、霧が晴れてから、久し振りに輝き出した太陽の下を見ると、船はたしかに計算より遅れている。しかも航路をズッと北に取り過ぎて、晩香坡バンクーバとは全然方角違いのアドミラルチー湾に深入りして雪をかむったセントエリアスの岩山と、フェア・ウェザー山の中間にガッチリと船首を固定さしているのにはあきれ返った。……船長と運転手の計算も、又は俺の腹加減までもが、ガラリとはずれてしまっていたのだ。
 そればかりではない。
 船に乗ってアラスカ近海へ廻わった経験のある人間でなければ、あの近海の波の大きさと、恐ろしさはチョット見当が付きかねるだろう。こんな処でイクラ法螺ほらを吹いても、あの波濤なみのスバラシサばっかりは説明が出来ないと思うが、何もかも無い。これが波かと思う紺青色こんじょういろの大山脈が、海抜五千米突メートルセントエリアス山脈を打ち越す勢いで、青い青い澄み切った空の下をてしもなく重なり合いながら押し寄せて来る。アラスカ丸は七千トンだから荷物船カーゴボートでは第一級の大型だったが、たとい七千噸が七万噸でもあの波に引っかかったらも同然だ。

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