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梅津只円翁伝(うめづしえんおうでん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-8 14:05:12  点击:  切换到繁體中文

  梅津只圓翁の生涯


 故梅津只圓うめづしえん翁の名前を記憶している人が現在、全国に何人居るであろうか。翁の名はその姻戚故旧の死亡と共に遠からずこの地上から平々凡々と消え失せて行きはしまいか。
 只圓翁から能楽の指導を受けた福岡地方の人々の中で、私の記憶に残っている現存者は僅々きんきん左の十数氏に過ぎない。(順序不同)

牟田口利彦(旧姓梅津)、野中到、隈本有尚、中江三次、宇佐元緒、松本健次郎、加野宗三郎、佐藤文次郎、堺仙吉、一田彦次、藤原宏樹、古賀得四郎、柴藤精蔵、小田部正二郎、筆者(以上仕手して方)
安川敬一郎、古賀幸吉、今石作次郎、金内吉平(以上囃子はやし方)
小嶺武雄、宮野儀助(以上狂言方)
 その他故人となった人々では(順序不同)、
間辺――、梅津正保、山本毎、梅津朔造、同昌吉、桐山孫次郎、川端久五郎、上原貢、戸川槌太郎、小山筧、中江正義、粟生弘、沢木重武、斎田惟成、中尾庸吉、石橋勇三郎、上村又次郎、斉村霞栖、大賀小次郎、吉本董三、白木半次郎、大野仁平、同徳太郎、河村武友、林直規、尾崎臻、鬼木栄二郎、上野太四郎、船津権平、岩佐専太郎、杉山灌園(以上仕手、脇方。その他囃子方、狂言方等略)
 まだこの他に遺漏忘失が多数ある事と思う。氏名なども間違っている人があるかも知れないが筆者の記憶の粗漏として諒恕御訂正を仰ぎたい。
 その生存している僅かな人々と相会して翁の旧事を語ると誠に感慨無量なものがある。
 翁の一生涯は極めて、つつしまやかな単純なものであった。
 維新後、西洋崇拝の弊風が天下を吹きめぐって我国固有の美風良俗が地を払って行く中に毅然として能楽の師家たる職分を守り、生涯を貫いて倦まず。悔いず。死期の数刻前までも本分の指導啓発を念としつつ息を引取った……というだけの生涯であった。翁はその九十幾年の長生涯を一貫して、全然、実社会と無関係な仕事に捧げ終った。名聞みょうもんを求めず。栄達を願わず。米塩をかえりみずして、ただ自分自身の芸道の切瑳琢磨と、子弟の鞭撻べんたつに精進した……という、ただそれだけの人物であった。
 もしも、それがいささかでも実社会に関係のある仕事であったならば……又は同じ芸術でも、絵画とか、文章とか、劇とか、音曲とか多少世俗に受け入れられ易い仕事に関係していられたならば……そうしてあれだけの精彩努力を傾注されたならば、翁は優に一代の偉人、豪傑もしくは末世の聖賢として名を青史に垂れていたであろう。
 いわんや翁程の芸力と風格を持った人で、いささかでも名聞を好み、俗衆の心を執る考えがあったならば、恐らく世界の文化史上に名を残す位の事は易々たるものがあったであろう。
 これは決して筆者の一存の誇張した文辞ではない。その当時の翁の崇拝者は、不言不語の中に皆しかく信じていたものである。そういう筆者も翁の事を追懐する毎に、そうした感を深めて行くものである。

 翁の偉大なる人格と、その卓絶したる芸風は、維新後より現在に亘る西洋崇拝の風潮、もしくは滔々とうとうたる尖端芸術の渦の底に蔽われて、今や世人から忘れられかけている。翁もまた、不言不語の間にこの事を覚悟し満足していたらしい事が、その生涯を通じた志業の裡に認められる。そうして今は何等の伝うるところもなく博多下祇園町順正寺の墓地に灰頭土面している。墓を祭る者もあるか無しの状態である。その由緒深い昔の私宅や舞台も、見窄みすぼらしい借家に改造されて、軒傾き、瓦辷り、壁が破れて、のぞいて見ただけでも胸が一パイになる有様である。
 しかし翁の真面目はそこに在る。翁の偉大さ崇高さは、そうした灰頭土面の消息裡に在る。生涯の光輝と精彩とを塵芥、衆穢の中に埋去して惜しまなかったところに在る。
 画に於ける仙崖、東圃、学に於ける南冥、益軒、業に於ける加藤司書、平野次郎、野村望東尼は尚赫々かっかくたる光輝を今日に残している。しかも我が梅津只圓翁の至純至誠の謙徳は、それ等の人々よりも勝れていたであろうに、何等世に輝き残るところなく黙々として忘れられて行きつつ在る。
 繰返して云う。
 現在の日本は維新後の西洋崇拝熱から眼ざめつつ在る。国粋万能を叫ぶ声が津々浦々に満ち満ちて、今まで棄ててかえり見られなかった郷土の産物、芸術が、国粋の至宝として再認識され、珍重され初めつつ在る。能楽の如きも老人の閑技、骨董芸術として、忘却されていたものが、明治の末年頃から西洋人の注意をいて以来、日本の識者間に再認識され、騒がれ初めた。そうして現在の民族芸術尊重熱の炎波に乗って唯一無上の国粋芸術として一般の知識階級、学生層に洪水の如く普及しつつある。
 梅津只圓翁はこの時代を見ずして世を去った。しかも維新後、能楽没落のただ中に黙々として斯道しどう研鑽けんさんを怠らなかった。東都の能楽師等が時勢の非なるをさとって、装束を売り、能面を売って手内職や薄給取りに転向している際にも翁は頑として能楽の守護神の如く子弟を鞭撻し続けていた。
 明治の後年になって東都の能楽師がボツボツ喰えるようになって互いに門戸を張り合って来た時、翁の如き一代の巨匠が中央に乗出していたならば、当時の能界の巨星と相並んで声威を天下に張る事が容易であったかも知れぬ。しかも翁はそのような栄達、名聞みょうもんを求めず。一意、旧藩主の恩顧と、永年奉仕して来た福岡市内各社の祭事能に関する責務を忘れず、一身を奉じつくして世を終った。
 風雲に際会して一時の功名を遂げるのは比較的容易であると聞く。権を負い、才力をたのんで天下に呼号するのは英雄豪傑の会心事でなければならぬ。
 しかし純忠の志を地下につくし、純誠の情涙を塵芥裡に埋めて、軽棄されたる国粋の芸道に精進し、無用の努力として世人に忘却されつつ、満足して世を去るという事は普通の日本人……世間並の国粋流者のくするところでない。
 旧藩以来福岡市内薬院やくいんに居住し、医業を以て聞こえている前医師会理事故権藤寿三郎氏(現病院長健児氏令兄)は梅津只圓翁の係医として翁の臨終まで診察した人であるが、かつて筆者にかく語った。
「私は謡曲とか能楽とかいうものはすこしも解からず、又面白いとも思わない。しかし医師として梅津只圓翁の高齢と元気とには全く敬服していた。私は翁を健康な高齢者の標本として研究していたので、爾後じご幾多の老人の診察に際して非常な参考となった事を感謝している。晩年といっても翁が九十二歳、明治四十一年から三年間病臥して居られたが、それといっても決して病気ではない。ただ樹木の枯れるように手足が不叶いになられただけで、健康には申分なく、そのまま枯れ果てて三年後の夏の何日であったかに、眠るが如く世を去られたまでの事であった。
 その亡くなられた当日の朝の事であった。
 門下の中でも一番の故老らしい品のいい二人の老人が、無論お名前なぞ忘れてしまったが、わざわざ私に面会に来られて翁の容態を色々尋ねられた後、実は老先生が亡くなられる前に聞いておきたい謡曲の秘事が唯一つ在る。それをお尋ねせずに老先生に亡くなられては甚だ残念であるが、その事を老先生にお尋ねする事を主治医の貴下にお許しを受けに伺った次第ですが……というナカナカ叮重ていちょうなお話であった。
 これには私も当惑した。むろん梅津先生は御重態どころではない。その前日の急変以来眼も、耳も、意識も全く混濁しているとしか思えないので、単に呼吸して居られる。脈がかすかに手に触れるというだけの御容態である。御家族の方や私が御気分をお尋ねしても御返事をなさらない事が数日に及んでいる折柄で、面会などは主治医として当然、お断り申上げなければならない場合であったが、しかし又一方から考えてみると、その時は、その面会謝絶すらも無用と思わるる絶望状態で、何を申上げてもお耳に入る筈はない。御臨終の妨げになる心配はないと考えたから、折角せっかくの御希望をお止めするのはかえって心ない業ではあるまいかと気が付いて……それならば折角のお話ですから私が立会いの上でお尋ね下さい……と御返辞した。
 二人の老人は非常に喜ばれた。即刻、私と同伴して、程近い中庄なかしょうの老先生の枕頭に来られて、出来るだけ大きな声で、私にはチンプンカンプンわからない謡曲の秘伝らしい事を繰返し繰返し質問されたが、私の推察通り意識不明の御容態の事とて、老先生が御返事をなさる筈がない。短い息の下にスヤスヤと眠って居られるばかりである。
 二人の老人は暗然として顔を見合わせた。仕方なしに今度は御臨終に近い老先生の枕元で本を開いて、二人の御老人が同吟に謡い出した。
 それが何の曲であったか、もとより私の記憶に残っていよう筈もないが、たしか開かれた一枚の真中あたりまで謡って来られたと思ううちに老先生の呼吸が少し静かになって来た。そうして間もなく私が執っていた触れるか触れないか程度の脈搏が見る見るハッキリとなり、突然に喘鳴ぜんめいが聞こえ初めたと思うと、老先生は如何にも立腹されたらしく、仰臥して眼を閉じたまま眉根を寄せて不快そうにあかだらけの頭を左右に動かされた。
 二人の老人は真青になって汗を拭き拭き顔を見交わした。そうして二人で二三度同じ処を謡い直されたと思ったが、間もなく左右に振り続けて居られた老先生の頭が安定し、喘鳴がピッタリと止んで『その通りその通り』という風に老先生の頭が枕の上で二三度縦に緩やかに動いたと思うと、又もとの通りの短い呼吸の裡にスヤスヤと眠って行かれた。家内の御方が慌てて何か云うて居られたがモウ何の御返事もなかった。
 二人の老人はそのお枕元の畳に両手を突いて暫く涙に暮れていたが、私が『モウ宜しいですか』と念を押すと、『お蔭で』と非常に感謝されたので、そのまま御内の方に御注意を申上げて退出した。
 老先生はそのままその夜の中に御他界になったが、その時の医師としての私の驚きは非常なものがあった。
 あのような深い昏睡に陥って居られる、申さば断末魔の老先生が御門弟の謡の間違いを聞きわけられる。これを是正されるという事は如何に芸術の力とはいえ医学上あり得べき事でない。一つの途方もない奇蹟、もしくは驚異的な出来事である。してみると人間の精神の力は肉体が死んでも生き残るものかも知れない……とつくづく思わせられた事であった」
 この話を筆者と一緒に聞いて居られた権藤夫人は現存して居られる。又前医師会理事権藤寿三郎氏が言葉を飾る人でなかった事は周知の事実である。
 筆者は、まだ、これ程の偉大崇高な臨終を見た事も聞いた事もない。翁は九州の土が生んだ最も高徳な人ではなかったろうか。
 その銅像の銘には古賀得四郎氏揮毫の隷書で左の意味の文句が刻んで在る。

       梅津只圓翁

翁ハ旧黒田藩喜多流ノ能楽師ナリ。明治四十三年九十四歳ヲ以テ歿ス。弱冠ニシテ至芸、切磋一家ヲ成ス。喜多流宗家六平太ろっぺいた氏未ダ壮ナラズ、嘱セラレテ之ヲ輔導ス。しばしば雲上高貴ニ咫尺しせきシ、身ヲ持スルコト謹厳恬淡てんたんニシテ、芸道ニ精進シテ米塩ヲカヘリミズ。ソノ人ニ接スルヤ温乎玉ノ如ク、子弟ヲ薫陶スルヤ極メテ厳正ニ、老ニ到ツテおこたラズ。福岡地方神社ノ祭能ヲ主宰シ恪勤かっきん衆ニ過グ。一藩人士翁ノ名ヲ聞キテ襟ヲ正サザルナシ。歿後二十五年、旧門下追慕カズ、大方ノ喜捨ヲ請フテ之ヲ建ツ。
 隠れたる偉人、梅津只圓翁の略歴は下記の通りである。勿論僅かに残っている翁の手記等によって、微力な筆者が調査、推測想像したものだから遺漏敗欠が少くない事と思うが、そのような点は引続き大方の御指摘是正を蒙って、老師の真伝記を完成する事が出来たならば、筆者の幸福これに過ぐるものはない。ただ粗漏蕪雑ぶざつのまま大体を取纏めて公表を急がなければならなくなった筆者の苦衷を御諒恕の程幾重にも伏願する次第である。

 梅津家は代々非常な遠祖から歌舞音曲の家柄であったという。山城国葛野郡に現在梅津という地名が在って、梅津家は代々ここに定住し、そうした家業を司っていたらしい。但し如何なる種類の歌舞音曲であったかは的確に判明しないが、後に同家の家系の中から梅若九郎右衛門なぞいう名家を分派したところを見ると、相当の繁栄を遂げていた事が推測される。梅若というのは梅津の一字を残し、若の一字を附け加えて芸名とし、旧来の梅津家の伝統と区別して華やかに披露をしたところから起った家名らしく、今の梅若家の祖先であるという。なお詳細は不明であるけれども、平安朝時代にその梅津家の一人が九州筑後高良山玉垂神社所属の田楽法師でんがくほうしとして下向し、久留米市の南方一里ばかりの所に現存する朝日村を所領として家業を伝えた。(坂元雪鳥、山崎楽堂両氏談)今でもその朝日村に梅津家の墓石が現存しているという。
 もちろんその当初には、まだ能楽なるものが発生していなかったのだから、いずれ田楽、もしくは里神楽さとかぐら類似の神事舞曲の司となっていたもので、後に能楽が流行して来るにつれて、自から転向して家業とし、祭事能を司って来たものであろうと考えられる。その喜多流をんだ由来も、もとよりつまびらかでないが、元亀天正の乱世に、肥前に似我という忠勇無双の士が居た。太鼓に堪能で喜多流の大家であったというような話を筆者が幼少の時代に祖父から聞き伝えているところから考えると、喜多流なる流派の存在は現在伝うるところよりもズット古く戦国時代から既に存在していて、九州地方にも流行していた。従って梅津家も、その流を酌んでいたものではないかとも考えられるようであるが、しかし、これは単なる臆測類似の聞き伝えで、あるいは筆者の聞き誤りか記憶違いかも知れない。いわんや宗家の記録と甚しい時代の相違があり、引例考証らしいものすら絶無であるから、ただ何かの参考としてここに記載しておくに止める。
 それから物変り星移って徳川時代に入り、筑前福岡が黒田の城下となった時、その梅津の本家の方は博多に在住してその頃の所謂いわゆる町役者となり、山笠に名高い博多の氏神、櫛田くしだ神社の神事能を受持っていた。現梅津正利師範は故梅津正保師範と共にこの家系の末に当っているのであるが、同時にその分家である今一軒の梅津氏は観世流の藤林家と相並んで藩公黒田家のお抱えとなり、邸宅と舞台を薬院中庄なかしょうに賜わり士分に列せられていた。
 その後裔こうえいに当る黒田藩士梅津源蔵正武氏(正利氏令息で隠居して一朗といった)と、その妻判女(児玉氏)との間に一女二男が生まれた。
 兄は文化十四年丁丑四月十七日出生、梅津源蔵利春という。初め政之進、又は栄と名のっていたが、藩主長溥公の御沙汰によって改名したものである。それが後に隠居して只圓と号した。すなわち我が只圓翁であった。
 利春(只圓翁)の妻は黒田家播磨殿家士、梅津羽左衛門の娘で弘化三年に縁組したが、元治元年十一月に三十五歳で死別したので、明治三年七月、後妻として野中勝良氏の姉イト子と縁組した。尚、参考のため翁の姻戚関係を左に掲げておく。(翁生前の手記に拠る)
◇姉セキ 弘化四年未六月一日生る。明治五年佐々木啓次郎に嫁す。
◇嫡子 梅津栄重利、嘉永三年戌二月十六日生る。明治四年未十月家督。明治十二年一月十八日卒す。無涯と号す。
◇二女マサ 嘉永五年子十一月六日生る。明治二年牟田口重蔵に嫁す。同二十五年八月十日卒す。
(以上先夫人の所生)
◇三女千代 明治四年未九月晦日生る。明治二十四年野中到に嫁す。
◇養子 梅津利彦。牟田口重蔵三男。明治十五年十月二十五日生る。明治二十四年六月に養子す。明治三十年四月改名。明治三十七年十二月事故有て離別す。
◇養子 梅津健介。佐々木啓次郎次男。明治十一年六月十六日生る。同三十八年養子す。同年十月家督譲る。
◇弟 梅津九郎助。荒巻軍平養子となり伊右衛門という。後軍治と改めその後行度と改む。明治九年三月二十日卒す。行栄という。行年五十四歳。

 元来梅津家は前記の通り、黒田藩お抱えの能楽師の家柄として喜多流を相伝していたので、利春は幼少の頃から部屋住のまま藩主斉清公の前に出て御囃子や仕舞しまいを度々相勤めて御感に入り、いつも御褒美を頂戴していた。
 続いて天保三年の春、師家へ入門の手続をして直ぐに秘曲「おきな」の相伝を受けた。時に利春十六歳と伝えられているが、これはその時代の事であるから直接上京して入門した訳ではないようである。大藩黒田侯の御取済によって、地方の神社祭事に是非とも奉納しなければならぬ神曲「翁」の允可いんかを受けたものであろう。ただ弱冠十六歳で、能楽師家担当の重大責務ともいうべき神曲「翁」の相伝を受けたという一事によって、その当時の黒田藩内の能楽界に於ける利春の声望と実力の如何に隆々たるものであったかが想像される次第である。
 それから利春は十二年後の弘化元年の春(二十八歳)と嘉永元年春(三十二歳)と両度上京した。喜多十三世能静のうせい氏に就いて能楽を修業し、重習能おもならいのう小習こならい等を相伝したという。
 次の話は翁のその頃の苦心をあらわすもので、或は逸話の部類に入れるべき事柄かも知れぬ。又出所等もつまびらかでないが、筆者が何かの大衆雑誌で読んだ事である。
 翁が能静氏の門下で修業中、名曲「とおる」の中入なかいり後、老人の汐汲しおくみの一段で「東からげの潮衣――オ」という引節ひきふしの中で汐を汲み上げる呼吸がどうしても出来なかった。そこで能静氏から小言を云われっ放しのまま残念に思って帰郷の途中、須磨の海岸で一休みしながら同地の名物の汐汲みを眺めていたが、打ち寄せる波が長く尾を引いて、又引き返して逆巻こうとするその一刹那をガブリと担い桶に汲み込んで、そのまま波に追われながら後退あとしざりして来る海士あまの呼吸を見てやっと能静氏の教うる「汐汲み」の呼吸がわかった。同時に「潮衣――オ――」という引節に含まれた波打際の妙趣がわかったので、感激しながら帰途に就いたという。
 前記の通り事の真偽は知らないが、斯様かような話が世に伝えられているところを見ると、この当時の翁の苦心が多少に拘らず世に伝えられていた証左としてここに附記しておく。
 これより前、弘化三年三月、父正武氏の退隠により利春氏が家督を相続した。時に利春三十歳。翌弘化四年、三十一歳の時に父をうしなった。
 父を喪った後の利春は藩内の能楽に関する重責を一身に負い、その晩年に窺われた非凡の気魄、必死の丹精と同様……もしくはそれ以上の精彩を凝らして斯道の研鑽に努力した事が察しられる。その手記には「その後、御能、囃子等度々相勤むる」と極めて謙遜した簡短な文辞が挟んで在るだけであるが……。

 嘉永五年の三月に利春は、中庄の私宅舞台(福岡市薬院)に於て相伝の神曲「翁」の披露能を催した。相伝後正に二十年目に初めて披露をした訳である。翁一流の慎重な謙遜振りがこの時にも現われている。
 これは晩年の翁の気象から推察して、相伝後、自分が満足するまで練りに練り、稽古に稽古を重ねた結果と思われるが、更に今一歩深く翁の性格から推し考えてみると、翁は決して自分一人を鞭撻べんたつしていたのではあるまいと思われる。
 能楽は元来綜合的な舞台芸術である。だから仕手方シテかたを本位とする地謡じうたい囃子方はやしかた、狂言等に到るまで、同曲の荘厳と緊張味とを遺憾なく発揮し得なければ、如何に達者な仕手方(翁自身)といえども十分の舞台効果を挙げる事が出来ない筈である。
 しかも地方僻遠へきえんの地で「翁」ほどの秘曲を理解し、これを演出し得る程に真剣な囃子方、狂言方等は容易に得られない関係から、当地方の能楽界の技倆が、その程度にまで向上する時機を待っていたものか、もしくはその程度に達するまで、翁が挺身して一同を鞭撻し続けて来たものではあるまいかという事実が、前述の理由から想像される。
 そうして万一そうとすれば、只圓翁のこの披露は、当節の披露の如き手軽い意味のものでない。正に福岡地方の能楽界に一紀元を画した重大事件であったろうと思われる。同時に翁のそこまでの苦心とこれに対する一般人士の翹望ぎょうぼうは非常なものがあったに違いない事が想像されるので、その能が両日に亘り、黒田藩のお次(第二種)装束の拝借を差許される程の大がかりのものであった事実を見ても、さもこそと首肯される次第である。
 いずれにしてもこの「翁」披露能は一躍只圓翁をして福岡地方の能楽界の重鎮たらしめる程の大成功を収めたらしい。能後、翁は藩公より藩の御装束預かりを仰付おおせつけられた。これは藩の能楽家柄として最高無上の名誉であると同時に、藩内の各流各種の催能はすべて翁の支配下に属しなければならぬという大責任が、それから後翁の双肩に落下した訳である。
 かくしてこの神曲「翁」披露能後に認められた翁の人格と芸能の卓抜さがその後引続いて如何に名誉ある活躍を示したか……そうしてその間に於ける翁の精進が如何に不退転なもので在ったかは、後掲の記録を一見しただけでも一目瞭然であろう。
 不幸にしてその頃は封建時代で、その時代特有の窮屈な規範に縛られ易い能楽の事とて、翁の声価も極めて小範囲に限って認められていたうらみがある。前にも述べた通り万一これが、ほかの大衆的な芸術で、封建の障壁が取払われている現代であったならば、芸術界に於ける翁の威望はどの範囲にまで及んでいたであろうか。
 嘉永七年(安政元年利春三十八歳)三月。福岡市天神町水鏡天満宮二百五十年御神祭につき、表舞台(今の城内練兵場、旧射的場附近御下屋敷所在)で三日とも翁附の大能を拝命した。殊に藩公の御所望で、物習能ものならいのう(普通の能ではない、達人でなければ舞えない秘伝の曲目)を仰付られた。右つとめ終って後、御目録を頂戴し荒巻軍治氏(翁の令弟)に祝言を仰付られた。
 又文久元年九月(利春四十五歳)、宰相公(長知ながとも)御昇進御祝につき、表舞台で同二十八日より三日共翁附の御能を仰付られた。
 同じく文久元年十月十五日に藩公から翁に御用召があったので、何事かと思って御館へ罷出まかりでたところ御月番家老黒田大和殿から御褒美があった。すなわち「利春事、家業の心掛よろしく、別して芸道丈夫である。のみならず平日の心得方よろしく暮し向万事質素で、門弟の引立方等が深切に行届いている段が藩公の御耳に達し、奇特に思召おぼしめされ、御目録の通り下し賜わり、弥々いよいよ出精せよという有難きお言葉である」という御沙汰であった。且つ、「格別の御詮議を以て御納戸組おなんどぐみ馬廻うままわり格に加入仰付られ候事」というので無上の面目を施して退出した。
 右の御褒美の中に「平日の心掛宜敷よろしく」「暮し向万事質素」「門弟引立方深切」云々という事実は筆者等が翁の晩年に於ても親しく実見したところで、後に掲ぐる翁の逸話を一読されたならば思いなかばに過ぐるであろう。
 もしそれ翁の「芸道の丈夫」云々の一事に至っては、吾々門下の云為うんいすべき事柄でないかも知れないが、しかし、そうした芸風は翁の晩年に於ても吾々が日常に感銘させられ過ぎる位感銘させられていた事実であった。
 翁が頽齢たいれいに及んで起居自由ならず所謂ヨボヨボ状態に陥って居られても、一度舞台に立たれると、豪壮鬼神の如く、軽快鳥の如しとでも形容しようか。その丈夫な事血気の壮者をしのぐどころでない。さながらに地面から生えた大木か、曠野に躍り出た獅子のように、人々を驚嘆渇仰せしめていた事を想起する。
 以上を要するに翁の生涯は「恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし」の御勅語を国粋中の国粋たる能楽道に於て丈夫に一貫したものである事実が、この記録によっても明らかに立証されているであろう。
 文久三年(利春四十七歳)一月元旦、御謡初御囃子の節、藩主長知ながとも公御手ずから御袴を拝領仰付られた。これは能楽師として格外の名誉で、武功者が主君の御乗馬を拝領したのと同格である。
 明治元年(翁五十二歳)、藩主長知公京都へ御上洛の節、同地紫野むらさきの大徳寺内、龍光院に御宿陣が定められた。その節御供した御納戸組九人の中、翁は長知公の御招待客席で、御囃子、仕舞等度々仰付られた。そのほか所々に召連れられて御囃子、仕舞等を仰付られたとあるが、察するところ長知公も翁の至芸が余程の御自慢であったらしい。
 明治元年といえば鳥羽伏見のいくさを初め、江戸城の明渡、会津征伐等、猫の眼の如く変転する世相、物情騒然たる時節であったが、その中に、かほどの名誉ある優遊を藩公と共にしていた翁の感懐はどんなものであったろうか。
 晩年の翁が栄達名聞を棄て、一意旧藩主の知遇に奉酬する態度を示した心境はあるいはこの間に培われたものではあるまいか。

 明治二年四月四日、長知公は新都東京へ上られた。翁も例によって御供をして荒戸の埠頭から新造の黒田藩軍艦環瀛かんえい丸に乗り、十三日東京着。隔日の御番(当番)出仕で、夜半二時迄の不寝番をつとめた。毎月お扶持方として金十五円二歩を賜わった。
 この時翁の師匠、喜多能静氏(喜多流十三世家元。現家元六平太氏は十四世)は根岸に住んでいたが、その寓居を訪うた翁は「到って静かで師を尋ねて来る人もなかった」と手記している。
 しかしこれは矢張り翁独特のつつしまやかな形容に過ぎなかったらしく察しられる。
 その能静氏の根岸の寓居は現在もソックリそのままの姿で石川子爵が住んで居られる。まことに堂々たる構えであるが、しかもこの明治二年前後は、能楽師が極度の窮迫に沈淪していた時代であった。現家元六平太氏が家元として引継がれた品物は僅かに張扇はりおうぎ一対というのが事実であったから、能静氏も表面は立派な邸宅に住みながら、内実は余程微禄した佗しい生活に陥って居られたものであろう。
 そうして、他の能楽師のように別の商売に転向する芸もなく、権門に媚びる才もなく、売れない能楽を守って空しく月日を送って居られたものであろう。
「到って静かで、師を訪うて来る人もない」
 という只圓翁の簡素な手記の中には、その時に翁の胸を打った或るものが籠められていたことがわかる。歌道をたしなみ礼儀にあつい翁が、一切をつくした名文ではなかったろうかと思われる。
 こうした純芸術家肌の能静氏の処へ今を時めく宰相公のお納戸組馬廻りの格式を持った翁がうやうやしく訪問した情景は正に劇的……小説的なものであったろう。能静氏の喜び、翁の感激は、どんなであったろうか。
 能静氏の芸風は、極めてガッチリした、不器用な、そうして大きな感じのするものであったという。現家元六平太氏が常に先代先代といって例に引くのはこの人の事である。
 翁は非番の日には必ず能静氏を訪うて稽古を受けた。遠からず滅亡の運命に瀕しつつある能楽喜多流の命脈を僅かに残る一人の老師から受け継ぐべく精進した。
 又藩公へお客様の時には、翁は囃子、仕舞、一調いっちょう等を毎々つとめた。他家へお供して勤めた事もあったが、同時に師匠の能静師の事が藩公へ聞こえたのであろう。師匠と共に藩公の御前へ召出されて共々に勤めた事が度々であった。
 翁が能静氏から「道成寺」「卒都婆そとば小町」を相伝したのはこの時であった。それから後、翁の出精しゅっせいがよかったのであろうか。それとも能静氏が、自分の死期の近い事を予覚したものであろうか。最も重き習物「望月」「石橋しゃっきょう」までも相伝したのであったが、ここに困った事が一つ出来た。
 これ程に師匠から見込まれて、大層な奥儀まで譲られたのに対しては、弟子として相当の謝礼をしなければならないものである。勿論能静氏は、そんなつもりで教えたのではなかったであろう。すたれて行く能楽の真髄、別して自分の窮めた喜多流の奥儀を、せめて九州の一角にでも残しておきたいという一念から翁を見込んで相伝したものに違いなかったであろうが、それでも徳義に篤い只圓翁としては、そのままに過ごす事が出来なかったのであろう。しかも僅か十五円五十銭ぐらいの薄給では到底師恩相当の礼をつくす事が出来ないので非常に苦悩したらしい。
 しかし、さりとて他所から借金して融通するような器用な真似の出来る翁ではないので、とうとう思案に詰まった上、黒田家奥頭取おくとうどりの処へ翁自身に出頭して実情をありのままに申述べ、金子きんす借用方をお願いしたところ、何をいうにもお気に入りの翁が、一生に一度の切なる御願いというので殿様も、その篤実な志に御感心なすったのであろう。御内々で金十円也を謝礼用として賜わり、ほかに別段の思召として金子その他を頂戴したので翁は感泣して退出した。大喜びで本懐の礼を尽したという。翁が如何に師匠能静氏から見込まれていたか。同時に又藩公から如何に知遇されておったかがこの事によっても十分窺われる。
 然るに同年五月二十四日、かねてから不快であった能静氏が、重態となったので、態々わざわざ翁を呼寄せて書置を与えたという。
 その書置の内容が何であったかは知る由もないが、「師恩の広大なることを忘却仕間敷」と翁の手記に在る。尚引続いた翁の手記に、
「明治四年辛未十月下拙げせつ(翁)退隠。栄家督。其後栄病死す。只圓のみ相続す」
 と在る。この前後数年の間に翁は二つの大きな悲痛事に遭遇したわけである。
 明治十一年春(翁六十二歳)、長知公御下県になり、福岡市内薬院、林毛りんもう、黒田一美殿下屋敷(今の原町林毛橋附近南側)というのに滞在された。御滞在中幾度となく翁を召されて囃子、半能等を仰付られた。
 その後、長知公が市内浜町別邸(現在)に住まわれるようになってからも、御装束能、御囃子等度々の御催しがあり御反物、金子等を頂戴した。
 明治十三年三月三十日、翁六十四歳の時に又も上京したが、この時翁は在福の門下から鈴木六郎、河原田平助両人を同行した。多分藩公、御機嫌伺いのためと師匠の墓参りのためであったろう。
 この時の在京中藩公の御前は勿論、喜多流の能楽堪能(皆伝)と聞こえた藤堂伯邸へも度々召出されて御能、お囃子等を仰付られた。
 その時長知公の御所望で「石橋」をつとめた事があるという。舞台は判然しないが、その「石橋」で翁の相手をした人々は宝生新朔、清水然知、清水半次郎、長知公、一噌要三郎と記録されている。いずれもが、その時の脇師、囃子方中の名誉の人々であったことは説明する迄もない。
 かくて無上の面目を施した翁は四月六日東京出立、同二十七日無事帰県したが、この時の上京を前後として翁の芸風が漸く円熟期に入ったものではないかと思われる理由がある。勿論翁の斯道に対する研鑽けんさんと、不退転の猛練習とは晩年に到ってもおこたる事がなかった筈であるが、しかしこの以後の修養は所謂いわゆる悟り後の聖胎長養時代で、この前の六十余年は翁の修業時代と思うのが適当のようである。
 すなわち翁はこの前後に重き習物の能を陸続りくぞくと披露している。
 ▼明治六年(五十七歳)望月
 ▼同 七年(五十八歳)正尊、景清
 ▼同十一年(六十二歳)卒都婆小町
 ▼同十三年(六十四歳)石橋(前記)
 ▼同十四年(六十五歳)赤頭道成寺、定家
 この明治十四年の「定家」披露後は明治二十五年まで(翁六十五歳より七十六歳に到る)格別の事もなかったらしい。何等の記録も残っていないが、しかもこの十年ばかりの間こそ、翁が芸道保存のために最惨澹たる苦楚くそめた時代で、同時に翁の真面目が最もよく発揮された時代であった。
 明治十四年から同二十五年の間といえば、維新後滔天とうてんの勢を以て日本に流れ込んで来た西洋文化の洪水が急転直下の急潮を渦巻かせている時代であった。人間の魂までも舶来でなければ通用しなくなっていた時代であった。
 人々は吾国わがくに固有の美風である神仏の崇拝、父母師友の恩義を忘れて個人主義、唯物主義的な権利義務の思想に走ること行燈あんどんとラムプを取換えるが如く、琴、三味線、長唄、浄瑠璃を蹴飛ばしてピアノ、バイオリン、風琴、オルガンを珍重すること傘を洋傘に見換える如くであった。朝野の顕官は鹿鳴館に集まって屈辱ダンスの稽古に夢中になり、洋行帰りの尊敬される事神様の如く、怪しげな洋服、ステッキ、金時計が紳士の資格として紋付袴以上の尊敬と信用を払われた事は無論であった。
 こうした浅ましい時代の勢いを真実に回顧し得る人々は、国粋中の国粋芸術たる能楽がその当時如何に衰微の極に達していたかを容易に首肯されるであろう。その当時の能楽は全く長押なげしやり長刀なぎなた以上に無用化してしまって、誰一人として顧みる者がなかったと云っても決して誇張ではないであろう。
 事実、維新直後から能楽各流の家元は衰微の極に達し、こんなものは将来廃絶されるにきまっているというので、古物商は一寸四方何両という装束を焼いて灰にして、その灰の中から水銀法によって金分を採る。能面は刀のつばと一緒に捨値で西洋人に買われて、西洋の応接室の壁の装飾に塗込まれるという言語道断さで、能楽はこの時に一度滅亡したと云っても過言でなかった。
 能評家の第一人者坂元雪鳥氏の記録するところを見ても思いなかばに過ぐるものがある。
 専門の技芸の外には、世間に役立つ程の学才智能があるのではなし、銭勘定さえ知らない程に世事にうとかった能役者は幕府の禄こそ多くなかったが、諸大名からの夥しい扶持を得て前記の如き贅沢な安逸に耽っているのであるから、すべての禄に離れて、自活を余儀なくされた能役者の困惑は言語に絶するものであった。中には蓄財のあった家もあるが、静にそれを守り遂げる事が出来ないで、馴れない商売で損亡を招く者が多く、又蓄える事を知らなかった人々は、急転直下して極端な貧窮状態に陥る外なかったのである。
 その頃の事を目の当り見聞した人も漸く少くなったが、その窮状を語る話は数々あった。何とも転向の出来ない者は手内職をするとか、小商売を開くというのであったが、内職といっても団扇うちわを貼るとか楊枝ようじを削るとかいう程度で、それで一家を支えるなどは思いも寄らない事であった。商売といっても家財を店先に並べて古道具屋を出す位で、それも一般家庭に役立つ物は少く、むを得ず二束三文に売り飛ばすと、あとは商品を仕入れる余裕がないから、屑屋同様になって店を仕舞うという有様であった。明治時代の大家と呼ばれた人の中に夜廻りをやって見たり、植木屋の手伝いをして見たりした人もある。芝居役者と共同の興行をやって見て、遂にその方へ這入った人もある。

 という実に今から考えても夢のような惨澹たる時代であった。
 こうした傾向の中心たる東京の真只中で窮乏に安んじながら能楽を捨てなかった翁の恩師能静氏の如きは実に鶏群中の一鶴と称すべきであったろう。
 もとより生一本の能楽気質の翁が、こうした能静氏の風格をけ継いだ事は云う迄もない。
 翁は九州に帰って後、そうした惨澹たる世相の中に毅然として能楽の研鑽と子弟の薫育を廃しなかった。野中到氏(翁の愛娘千代子さんの夫君で、後に富士山頂に測候所を建て有名になった人)と、翁の縁家荒巻家からの扶助によって衣食していたとはいえ全く米塩をかえりみず。謝礼の多寡たかを問わず献身的に斯道の宣揚のために精進した。

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