長倉のご新造が意外だと思ったように、滄洲翁も意外だと思った。しかし一番意外だと思ったのは壻殿の仲平であった。それは皆怪訝するとともに喜んだ人たちであるが、近所の若い男たちは怪訝するとともに嫉んだ。そして口々に「岡の小町が猿のところへ往く」と噂した。そのうち噂は清武一郷に伝播して、誰一人怪訝せぬものはなかった。これは喜びや嫉みの交じらぬただの怪訝であった。
婚礼は長倉夫婦の媒妁で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれまでただ美しいとばかり言われて、人形同様に思われていたお佐代さんは、繭を破って出た蛾のように、その控え目な、内気な態度を脱却して、多勢の若い書生たちの出入りする家で、天晴れ地歩を占めた夫人になりおおせた。
十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵に親戚故旧が寄り集まったときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がった。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。
翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女須磨子が生まれた。中一年おいた年の七月には、藩の学校が飫肥に遷されることになった。そのつぎの年に、六十五になる滄洲翁は飫肥の振徳堂の総裁にせられて、三十三になる仲平がその下で助教を勤めた。清武の家は隣にいた弓削という人が住まうことになって、安井家は飫肥の加茂に代地をもらった。
仲平は三十五のとき、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年帰った。これがお佐代さんがやや長い留守に空閨を守ったはじめである。
滄洲翁は中風で、六十九のとき亡くなった。仲平が二度目に江戸から帰った翌年である。
仲平は三十八のとき三たび江戸に出て、二十五のお佐代さんが二度目の留守をした。翌年仲平は昌平黌の斎長になった。ついで外桜田の藩邸の方でも、仲平に大番所番頭という役を命じた。そのつぎの年に、仲平は一旦帰国して、まもなく江戸へ移住することになった。今度はいずれ江戸に居所がきまったら、お佐代さんをも呼び迎えるという約束をした。藩の役をやめて、塾を開いて人に教える決心をしていたのである。
このころ仲平の学殖はようやく世間に認められて、親友にも塩谷宕陰のような立派な人が出来た。二人一しょに散歩をすると、男ぶりはどちらも悪くても、とにかく背の高い塩谷が立派なので、「塩谷一丈雲腰に横たわる、安井三尺草頭を埋む」などと冷やかされた。
江戸に出ていても、質素な仲平は極端な簡易生活をしていた。帰り新参で、昌平黌の塾に入る前には、千駄谷にある藩の下邸にいて、その後外桜田の上邸にいたり、増上寺境内の金地院にいたりしたが、いつも自炊である。さていよいよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にいたが、下邸に火事があってから、はじめて五番町の売居を二十九枚で買った。
お佐代さんを呼び迎えたのは、五番町から上二番町の借家に引き越していたときである。いわゆる三計塾で、階下に三畳やら四畳半やらの間が二つ三つあって、階上が斑竹山房の額を掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住するとき、本国田野村字仮屋の虎斑竹を根こじにして来たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子についで、二女美保子、三女登梅子と、女の子ばかり三人出来たが、かりそめの病のために、美保子が早く亡くなったので、お佐代さんは十一になる須磨子と、五つになる登梅子とを連れて、三計塾にやって来た。
仲平夫婦は当時女中一人も使っていない。お佐代さんが飯炊きをして、須磨子が買物に出る。須磨子の日向訛りが商人に通ぜぬので、用が弁ぜずにすごすご帰ることが多い。
お佐代さんは形ふりに構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた昔の俤はどこやらにある。このころ黒木孫右衛門というものが仲平に逢いに来た。もと飫肥外浦の漁師であったが、物産学にくわしいため、わざわざ召し出されて徒士になった男である。お佐代さんが茶を酌んで出しておいて、勝手へ下がったのを見て狡獪なような、滑稽なような顔をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。
「先生。只今のはご新造さまでござりますか」
「さよう。妻で」恬然として仲平は答えた。
「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」
「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」
「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりますな」
「なぜ」
「でもあれほどの美人でおいでになって、先生の夫人におなりなされたところを見ますと」
仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、得意の笊棋の相手をさせて帰した。
お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町に移り、翌年また牛込見附外の家を買った。値段はわずか十両である。八畳の間に床の間と廻り縁とがついていて、ほかに四畳半が一間、二畳が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八畳の間に机を据えて、周囲に書物を山のように積んで読んでいる。このころは霊岸島の鹿島屋清兵衛が蔵書を借り出して来るのである。一体仲平は博渉家でありながら、蔵書癖はない。質素で濫費をせぬから、生計に困るようなことはないが、十分に書物を買うだけの金はない。書物は借りて覧て、書き抜いては返してしまう。大阪で篠崎の塾に通ったのも、篠崎に物を学ぶためではなくて、書物を借るためであった。芝の金地院に下宿したのも、書庫をあさるためであった。この年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生まれた。
そのつぎの年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方という役を命ぜられたが、目が悪いと言ってことわった。薄暗い明りで本ばかり読んでいたので実際目がよくなかったのである。
そのまたつぎの年に、仲平は麻布長坂裏通りに移った。牛込から古家を持って来て建てさせたのである。それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで観風旅行をした。浅葱織色木綿の打裂羽織に裁附袴で、腰に銀拵えの大小を挿し、菅笠をかむり草鞋をはくという支度である。旅から帰ると、三十一になるお佐代さんがはじめて男子を生んだ。のちに「岡の小町」そっくりの美男になって、今文尚書二十九篇で天下を治めようと言った才子の棟蔵である。惜しいことには、二十二になった年の夏、暴瀉で亡くなった。
中一年おいて、仲平夫婦は一時上邸の長屋に入っていて、番町袖振坂に転居した。その冬お佐代さんが三十三で二人目の男子謙助を生んだ。しかし乳が少いので、それを雑司谷の名主方へ里子にやった。謙介は成長してから父に似た異相の男になったが、後日安東益斎と名のって、東金、千葉の二箇所で医業をして、かたわら漢学を教えているうちに、持ち前の肝積のために、千葉で自殺した。年は二十八であった。墓は千葉町大日寺にある。
浦賀へ米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五のときである。大儒息軒先生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとしてわずかに免れていた。
飫肥藩では仲平を相談中という役にした。仲平は海防策を献じた。これは四十九のときである。五十四のとき藤田東湖と交わって、水戸景山公に知られた。五十五のときペルリが浦賀に来たために、攘夷封港論をした。この年藩政が気に入らぬので辞職した。しかし相談中をやめられて、用人格というものになっただけで、勤め向きは前の通りであった。五十七のとき蝦夷開拓論をした。六十三のとき藩主に願って隠居した。井伊閣老が桜田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。
家は五十一のとき隼町に移り、翌年火災に遭って、焼け残りの土蔵や建具を売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善国寺谷に移った。辺務を談ぜないということを書いて二階に張り出したのは、番町にいたときである。
お佐代さんは四十五のときにやや重い病気をして直ったが、五十の歳暮からまた床について、五十一になった年の正月四日に亡くなった。夫仲平が六十四になった年である。あとには男子に、短い運命を持った棟蔵と謙助との二人、女子に、秋元家の用人の倅田中鉄之助に嫁して不縁になり、ついで塩谷の媒介で、肥前国島原産の志士中村貞太郎、仮名北有馬太郎に嫁した須磨子と、病身な四女歌子との二人が残った。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お糸、小太郎の二人の子を連れて安井家に帰った。歌子は母が亡くなってから七箇月目に、二十三歳であとを追って亡くなった。
お佐代さんはどういう女であったか。美しい肌に粗服をまとって、質素な仲平に仕えつつ一生を終った。飫肥吾田村字星倉から二里ばかりの小布瀬に、同宗の安井林平という人があって、その妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと言って、木綿縞の袷を一枚持っている。おそらくはお佐代さんはめったに絹物などは着なかったのだろう。
お佐代さんは夫に仕えて労苦を辞せなかった。そしてその報酬には何物をも要求しなかった。ただに服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅におりたいとも言わず、結構な調度を使いたいとも言わず、うまい物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかった。
お佐代さんが奢侈を解せぬほどおろかであったとは、誰も信ずることが出来ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であったとは、誰も信ずることが出来ない。お佐代さんにはたしかに尋常でない望みがあって、その望みの前には一切の物が塵芥のごとく卑しくなっていたのであろう。
お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと言ってしまうだろう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。しかしもし商人が資本をおろし財利を謀るように、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだと言うなら、わたくしは不敏にしてそれに同意することが出来ない。
お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでいただろう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。
お佐代さんが亡くなってから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。また二箇月目に徳川将軍に謁見して、用人席にせられ、翌年両番上席にせられた。仲平が直参になったので、藩では謙助を召し出した。ついで謙助も昌平黌出役になったので、藩の名跡は安政四年に中村が須磨子に生ませた長女糸に、高橋圭三郎という壻を取って立てた。しかしこの夫婦は早く亡くなった。のちに須磨子の生んだ小太郎が継いだのはこの家である。仲平は六十六で陸奥塙六万三千九百石の代官にせられたが、病気を申し立てて赴任せずに、小普請入りをした。
住いは六十五のとき下谷徒士町に移り、六十七のとき一時藩の上邸に入っていて、麹町一丁目半蔵門外の壕端の家を買って移った。策士雲井龍雄と月見をした海嶽楼は、この家の二階である。
幕府滅亡の余波で、江戸の騒がしかった年に、仲平は七十で表向き隠居した。まもなく海嶽楼は類焼したので、しばらく藩の上邸や下邸に入っていて、市中の騒がしい最中に、王子在領家村の農高橋善兵衛が弟政吉の家にひそんだ。須磨子は三年前に飫肥へ往ったので、仲平の隠家へは天野家から来た謙助の妻淑子と、前年八月に淑子の生んだ千菊とがついて来た。産後体の悪かった淑子は、隠家に来てから六箇月目に、十九で亡くなった。下総にいた夫には逢わずに死んだのである。
仲平は隠家に冬までいて、彦根藩の代々木邸に移った。これは左伝輯釈を彦根藩で出版してくれた縁故からである。翌年七十一で旧藩の桜田邸に移り、七十三のときまた土手三番町に移った。
仲平の亡くなったのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との間に出来た、十歳の孫千菊が家を継いだ。千菊の夭折したあとは小太郎の二男三郎が立てた。
大正三年四月
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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