自分は此結論を見て頭を掉つたが、錯迷打破には強く引き附けられた。Disillusion にはひどく同情した。そしてハルトマン自身が錯迷の三期を書いたのは、Max Stirner を読んで考へた上の事であると自白してゐるのを見て、スチルネルを読んだ。それから無意識哲学全体の淵源だといふので、遡つて Schopenhauer を読んだ。
スチルネルを読んで見ると、ハルトマンが紳士の態度で言つてゐる事を、無頼漢の態度で言つてゐるやうに感ずる。そしてあらゆる錯迷を破つた跡に自我を残してゐる。世界に恃むに足るものは自我の外には無い。それを先きから先きへと考へると、無政府主義に帰着しなくては已まない。
自分はぞつとした。
ショオペンハウエルを読んで見れば、ハルトマン・ミヌス・進化論であつた。世界は有るよりは無い方が好いばかりではない。出来る丈悪く造られてゐる。世界の出来たのは失錯である。無の安さが誤まつて攪乱せられたに過ざない。世界は認識によつて無の安さに帰るより外はない。一人一人の人は一箇一箇の失錯で、有るよりは無いが好いのである。個人の不滅を欲するのは失錯を無窮にしようとするのである。個人は滅びて人間といふ種類が残る。この滅びないで残るものを、滅びる写象の反対に、広義に、意志と名付ける。意志が有るから、無は絶待の無でなくて、相待の無である。意志が Kant の物その物である。個人が無に帰るには、自殺をすれば好いかといふに、自殺をしたつて種類が残る。物その物が残る。そこで死ぬるまで生きてゐなくてはならないといふのである。ハルトマンの無意識といふものは、この意志が一変して出来たのであつた。
自分はいよいよ頭を掉つた。
* * *
兎角する内に留学三年の期間が過ぎた。自分はまだ均勢を得ない物体の動揺を心の内に感じてゐながら、何の師匠を求めるにも便りの好い、文化の国を去らなくてはならないことになつた。生きた師匠ばかりではない。相談相手になる書物も、遠く足を運ばずに大学の図書館に行けば大抵間に合ふ。又買つて見るにも注文してから何箇月目に来るなどといふ面倒は無い。さういふ便利な国を去らなくてはならないことになつた。
故郷は恋しい。美しい、懐かしい夢の国として故郷は恋しい。併し自分の研究しなくてはならないことになつてゐる学術を真に研究するには、その学術の新しい田地を開墾して行くには、まだ種々の要約の闕けてゐる国に帰るのは残惜しい。敢て「まだ」と云ふ。日本に長くゐて日本を底から知り抜いたと云はれてゐる独逸人某は、此要約は今闕けてゐるばかりでなくて、永遠に東洋の天地には生じて来ないと宜告した。東洋には自然科学を育てて行く雰囲気は無いのだと宣告した。果してさうなら、帝国大学も、伝染病研究所も、永遠に欧羅巴の学術の結論丈を取り続ぐ場所たるに過ぎない筈である。かう云ふ判断は、ロシアとの戦争の後に、欧羅巴の当り狂言になつてゐた Taifun なんぞに現れてゐる。併し自分は日本人を、さう絶望しなくてはならない程、無能な種族だとも思はないから、敢て「まだ」と云ふ。自分は日本で結んだ学術の果実を欧羅巴へ輸出する時もいつかは来るだらうと、其時から思つてゐたのである。
自分はこの自然科学を育てる雰囲気のある、便利な国を跡に見て、夢の故郷へ旅立つた。それは勿論立たなくてはならなかつたのではあるが、立たなくてはならないといふ義務の為めに立つたのでは無い。自分の願望の秤も、一方の皿に便利な国を載せて、一方の皿に夢の故郷を載せたとき、便利の皿を弔つた緒をそつと引く、白い、優しい手があつたにも拘らず、慥かに夢の方へ傾いたのである。
シベリア鉄道はまだ全通してゐなかつたので、印度洋を経て帰るのであつた。一日行程の道を往復しても、往きは長く、復りは短く思はれるものであるが、四五十日の旅行をしても、さういふ感じがある。未知の世界へ希望を懐いて旅立つた昔に比べて寂しく又早く思はれた航海中、籐の寝椅子に身を横へながら、自分は行李にどんなお土産を持つて帰るかといふことを考へた。
自然科学の分科の上では、自分は結論丈を持つて帰るのではない。将来発展すべき萌芽をも持つてゐる積りである。併し帰つて行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少くも「まだ」無い。その萌芽も徒らに枯れてしまひはすまいかと気遣はれる。そして自分は fatalistisch な、鈍い、陰気な感じに襲はれた。
そしてこの陰気な闇を照破する光明のある哲学は、我行李の中には無かつた。その中に有るのは、ショオペンハウエル、ハルトマン系の厭世哲学である。現象世界を有るよりは無い方が好いとしてゐる哲学である。進化を認めないではない。併しそれは無に醒覚せんが為めの進化である。
自分は錫蘭で、赤い格子縞の布を、頭と腰とに巻き附けた男に、美しい、青い翼の鳥を買はせられた。籠を提げて舟に帰ると、フランス舟の乗組貝が妙な手附きをして、「Il ne vivra pas !」と云つた。美しい、青い鳥は、果して舟の横浜に着くまでに死んでしまつた。それも果敢ない土産であつた。
* * *
自分は失望を以て故郷の人に迎へられた。それは無埋もない。自分のやうな洋行帰りはこれまで例の無い事であつたからである。これまでの洋行帰りは、希望に輝く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧に入れることになつてゐた。自分は丁度その反対の事をしたのである。
東京では都会改造の議論が盛んになつてゐて、アメリカのAとかBとかの何号町かにある、独逸人の謂ふ Wolkenkratzer のやうな家を建てたいと、ハイカラア連が云つてゐた。その時自分は「都会といふものは、狭い地面に多く人が住むだけ人死が多い、殊に子供が多く死ぬる、今まで横に並んでゐた家を、竪に積み畳ねるよりは、上水や下水でも改良するが好からう」と云つた。又建築に制裁を加へようとする委員が出来てゐて、東京の家の軒の高さを一定して、整然たる外観の美を成さうと云つてゐた。その時自分は「そんな兵隊の並んだやうな町は美しくは無い、強ひて西洋風にしたいなら、寧ろ反対に軒の高さどころか、あらゆる建築の様式を一軒づつ別にさせて、ヱネチアの町のやうに参差錯落たる美観を造るやうにでも心掛けたら好からう」と云つた。
食物改良の議論もあつた。米を食ふことを廃めて、沢山牛肉を食はせたいと云ふのであつた。その時自分は「米も魚もひどく消化の好いものだから、日本人の食物は昔の儘が好からう、尤も牧畜を盛んにして、牛肉も食べるやうにするのは勝手だ」と云つた。
仮名遣改良の議論もあつて、コイスチヨーワガナワといふやうな事を書かせようとしてゐると、「いやいや、Orthographie はどこの国にもある、矢張コヒステフワガナハの方が宜しからう」と云つた。
そんな風に、人の改良しようとしてゐる、あらゆる方面に向つて、自分は本の杢阿弥説を唱へた。そして保守党の仲間に逐ひ込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行し出したが、元祖は自分であつたかも知れない。
そこで学んで来た自然科学はどうしたか。帰つた当座一年か二年は Laboratorium に這人つてゐて、ごつごつと馬鹿正直に働いて、本の杢阿弥説に根拠を与へてゐた。正直に試験して見れば、何千年といふ間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしてゐよう筈はない。初から知れ切つた事である。
さてそれから一歩進んで、新しい地盤の上に新しい Forschung を企てようといふ段になると、地位と境遇とが自分を為事場から撥ね出した。自然科学よ、さらばである。
勿論自然科学の方面では、自分なんぞより有力な友達が大勢あつて、跡に残つて奮闘してゐてくれるから、自分の撥ね出されたのは、国家の為めにも、人類の為めにもなんの損失にもならない。
只奮闘してゐる友達には気の毒である。依然として雰囲気の無い処で、高圧の下に働く潜水夫のやうに喘ぎ苦んでゐる。雰囲気の無い証拠には、まだ Forschung といふ日本語も出来てゐない。そんな概念を明確に言ひ現す必要をば、社会が感じてゐないのである。自慢でもなんでもないが、「業績」とか「学問の推挽」とか云ふやうな造語を、自分が自然科学界に置土産にして来たが、まだ Forschung といふ意味の簡短で明確な日本語は無い。研究なんといふぼんやりした語は、実際役に立たない。載籍調べも研究ではないか。
* * *
かう云ふ閲歴をして来ても、未来の幻影を逐うて、現在の事実を蔑にする自分の心は、まだ元の儘である。人の生涯はもう下り坂になつて行くのに、逐うてゐるのはなんの影やら。
「奈何にして人は己を知ることを得べきか。省察を以てしては決して能はざらん。されど行為を以てしては或は能くせむ。汝の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。」これは Goethe の詞である。
日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑にする反対である。自分はどうしてさう云ふ境地に身を置くことが出来ないだらう。
日の要求に応じて能事畢るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のゐない筈の所に自分がゐるやうである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷つてゐるのである。夢を見てゐるのである。夢を見てゐて、青い鳥を夢の中に尋ねてゐるのである。なぜだと問うたところで、それに答へることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。
自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。
併しその死はこはくはない。人の説に、老年になるに従つて増長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。
若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に横はつてゐる謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに横はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。
この頃自分は Philipp Mainlaender が事を聞いて、その男の書いた救抜の哲学を読んで見た。
此男は Hartmann の迷の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の廻りに大きい圏を画いて、震慄しながら歩いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。
さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬」も無い。
死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。
上一页 [1] [2] [3] 下一页 尾页