「檀那様。ここへお這入なさいますか。」
「さうだ。」
主人の声は苦労の無ささうな声である。二人は監獄の門に入つた。
財産があり、身分のあるフロルスであるから、獄吏は別に面倒な事も言はずに、客の要求を容れた。勿論心附けは辞退せずに受けた。フロルスは
フロルスは隅々まで気を配つて、しかも足早に監獄を見て廻つて、最後の地下室をも
「囚徒は皆内にゐるのですね。今見たのより外にはゐないのですね。」
「はい。あの外にはゐません。きのふ一名逃亡しました。」
「逃亡者がありますか。名前は。」
「マルヒユスと云ふ奴です。」
「マルヒユスですか。目の光る、日に焼けた、髪の黒い男ぢやありませんか。」名を聞いて耳を
「はい。仰やる通の男です。」獄吏は頷いて答へた。
監獄の門を出た時、フロルスはこれまでになく晴々した気色をしてゐた。子供のやうに
「どうだい。ムンムス

四
別荘の居心の好い家を、フロルスは朝嬉しげに出て、街道や小径を遠方まで散歩する。老人の世話をしてくれたゴルゴオは物静な、詞少なな、従順な、澹泊な、小牛の様な娘である。日に焼けた肌をなんの面倒もなく、さつぱりと任せる。留守居をする時は、古い小唄を歌つてゐる。
無言のルカスは呼ばれぬに主人の跡を慕つて来て、主人の往く所へどこへでも附いて行く。疲れたやうな、
主人はいつも山の

主人は髭の伸びた、まだ
一日一日と過ぎて行く。譬へば飾の糸に
或暮方の事である。フロルスは暢気に遊び戯れてゐた最中、突然沈鬱な気色になつた。俄に敵に襲はれたやうな態度である。急に
「どうしたのだらう。どうしてこんなに暗くなつたのだ。牢屋ぢやないか。」
フロルスは低い
そこへゴルゴオがそつと這入つて来て抱き附いたが、フロルスは顧みずに、押し退けるやうにして云つた。
「お前誰だ。知らない女だ。今は行けない。気を附けろ。錠前の音がすると、番人が目を醒ますぜ。」
ゴルゴオは黙つて
無言のルカスが狗のやうに這ひ寄つて、寝台の縁から垂れてゐる主人の手に接吻した。
五
主人の寝部屋の外で
忽ち空気を切り裂くやうな、叫声が響いた。人の声らしく無い。此世のものでないものが、反響のするやうに「死」と叫んだかと思はれた。
家来共は躊躇しつゝ戸を敲いた。無言の童が内から戸を開けて入れた。童の顔は、いつもの子とは見えぬ程、恐怖のために変つてゐる。そして童は、つひに物を言つたことの無い口で、あらあらしく「死だ、死だ」と繰り返して云ふ。

フロルスは寝台の上に、
恐怖の使は医師と差配人との許に走らせられた。

フロルスは項を反らせて、真つ黒になつた顔をして動かずにゐる。手が一本だらりと寝台の縁から垂れてゐる。
医師が来てフロルスの体を検査した。フロルスは慥に死んでゐた。医師は驚きながら差配人に死骸の頸の痕を指さして見せた。くるりと帯のやうに、黒ずんで腫れ上がつて、皮の下には血が出てゐる。なんとも説明のしやうの無い痕である。
フロルスの死目に逢つた只一人のルカスは、恐怖のお蔭で物が言はれるやうになつて、吃りながらかう云つた。
「死だ、死だ。又縛られなすつたのだ。そして歩いて歩いて、とう/\がつかりなすつて、床の上にお倒なさる。わたしにはなんにも仰やらない。わたしは飛び附いた。すると咽をぜい/\云はせながら、目を
死骸の始末などのために、人々はルカスの事を忘れてゐた。
翌朝やつと明るくなる頃、
老人は

「内の檀那の亡くなつたのを、お前知らずに来たのかい。」
「いゝえ。知りません。だがそれはどうでも好いのです。わたしは只言ひ附けられた用を済ませさへすりやあ好いのです。」
「誰が言ひ附けたのだ。」
「マルヒユスさんです。」
「それは誰だい。」
「今は此世の人ではありません。」
「亡くなつたのかい。」
「きのふの朝おしおきになりました。」
「内の檀那を知つてゐた人かい。」
「いゝえ。知らないのですが、宜しく言つて、そして死んだことを知らせてくれと云ひました。それからこちらでは

「うん。己はもう物を言つてゐる。」これはルカスが駆け寄つて、老人の手に接吻しながら言つたのである。
「お前檀那の死顔が見たいのかい」と、差配人が問うた。
「なに。それには及びません。ひどくお変になりましたか。」
「うん。ひどくお変になつた。」
「マルヒユスさんも
「まだ何か言ふことがあるかい。」
「いゝえ。もう往きます。」
「わたしは一しよに往くよ。」これはルカスが優しい声で云つたのである。
もう日が
此訳稿の