一
エミリウス・フロルスは同じ
赤光のする向側の石垣まで行くと、きつと
踵を
旋らして、蒼くなつてゐる顔を
劇しくこちらへ振り向ける。そしていつもの
軽らかな足取と違つた地響のする歩き振をして返つて来る。年の寄つた奴隷と物を言はぬ
童とが土の上にすわつてゐて主人の足音のする度に身を
竦める。そして主人の劇しく身を
翻して引き返す時、その着てゐる青い着物の裾で払はれて驚いて目を挙げる。
往つたり返つたりしたのに
草臥れたらしく、主人は老人に暇を取らせた。家政の報告などは聞きたくないと云ふことを知らせるには、只目を
瞑つて頭を
掉つたのである。主人が座に就くと童は這ひ寄つて、膝に接吻して主人と一目、目を見合せようとした。フロルスは口笛を吹いて大きい毛のもぢや/\した狗を呼んだ。主人と童と狗とが又
園に出た。そして二人と狗とが前後に続いて往つたり来たりし始めた。先頭には主人が立つて、黙つて大股に歩く。すぐその跡を無言の童がちよこ/\した足取で行く。
殿は狗で、大きい頭をゆさぶりながら附いて行く。主人は二度目の散歩で気が落ち着いたと見えて、部屋に帰つて、書き掛けた手紙を書いた。
「僕が今君に告げようとする事件は、君には児戯に類するやうに感ぜられるだらう。併し此
瑣事が僕の心の安寧と均衡とを奪ふのである。
苟くも威厳を保つて行かうとする人間の棄て難い安寧と均衡とが奪はれるのである。
頃日僕は一人の卑しい男に
邂逅した。其人はそれ迄に一度も見たことのない人である。然るにどうも相識の人らしい容貌をしてゐる。若し僕が婆羅門教の
輪廻説を信じてゐるなら、僕は其人に前世で逢つたと思ふだらう。一層不思議なのは、此遭遇の記念が僕の頭の中で勢を
逞うして来て、一夜水に漬けて置いた豆のやうにふやけて、僕の安寧を奪ふと云ふ一事である。そこで僕は自分で其人を捜しに出掛けようと思つてゐる。それは自分の弱点を暴露するのが恥かしくて、他人に捜索を頼まうと云ふ決心が附かぬからである。或は此一切の事件は僕が健康を損じてゐる所から生じたのかも知れない。僕は頃日頻に
眩暈がする。夜眠ることが出来ない。精神が阻喪して、故なく恐怖に襲はれる。要するに健康が宜しいとは云はれぬからである。僕の邂逅した男は非常に光る灰色の目をしてゐる。膚は日に焼けてゐて髪は黒い。体格や身の丈は僕と同じである。どうぞカルプルニアさんに宜しく言つてくれ給へ。そして子供達に接吻して遣つてくれ給へ。あの
水瓶はもう
疾つくに君の本宅の方へ届けて置いた。そんならこれで擱筆する。」
二
医師は暫く黙つてゐて、そして問うた。
「一体あなたの、その体の工合はどんな場合に似てゐるのですか。」
「わたしは牢屋に入れられた人の体の工合は知りません。併しどうもわたしの体の工合はさう云ふ人に一番似てゐるらしいのです。こなひだ中からは自由行動が妨げられてゐるやうで、猶自由意志までも制せられてゐるやうです。歩きたいのに歩かれない。息がしたいのに窒息しさうになる。詰まり一種の隠微な不安、不定な苦悶があるのです。」
フロルスは疲れたらしい様子で口を
噤んだ。暫くして顔の色を蒼くして語を継いだ。
「事によるとわたしの
写象には、此病の起る前に見た夢が影響してゐるかも知れません。」
「はあ。夢を見ましたか。」
「えゝ、手に取るやうな、はつきりした夢を見たのです。そして不思議にもその夢がいまだに続いてゐるやうなのです。若しわたしがさうしようと思つたら、わたしは疑も無くその夢を今でも見続けてゐて、
例之ば話をしてゐるあなたなんぞを、却つて幻だと思ふでせう。」
「その夢をお話になるには、ひどく興奮なさる
虞があるでせうか。」
「なに、なに」と、主人は忙しげに反復して云つて、額に出た玉の汗を拭つた。そして努力して、忘れた事を想ひ出す人のやうに、きれ/″\に話し始めた。話の間に声が叫ぶやうに高くなるかと思へば、又
囁いて聞かせるやうに細くなつた。
「あなたに丈は今話しますが、誰にも言はないやうにして下さい。どうぞ
誓言をして下さい。事によつたら却つてそれが本当だかも知れません。わたしは知らないのですが、わたしは人を殺したのです。誤解してはいけませんよ。それはあそこでしたのです。夢の
中です。わたしは逃げ出しました。久しい間方々を迷ひ歩いてゐて木の実を食つてゐました。想つて見れば、山に生えてゐる桜の実でしたよ。それからパンや牛乳を盗みました。牛乳は
牧にゐる牛の乳房からすぐに盗んで飲んだのです。いや。ひどい炎天で、むつとするやうな蒸気が沼から立つてゐました。丁度港の関門を通らうとする時小刀を盗んだと云ふ嫌疑で掴まりました。背の高い、赤毛の商人がわたしを掴まへたのです。人がその男の事をチツスさんと呼んでゐましたよ。わたしは力が脱けたやうで、途方にくれてゐました。赤毛の女が一人ゐて、大声で笑ふ。茶色の毛をした狗が一疋わたしの足元で悲しげに啼いてゐる。そこの往来の石だゝみの上には石竹の花が棄てゝある。武装した兵卒が大勢その前を通り過ぎる。わたしはそこで皆に打たれてゐました。ひどい炎天でしたよ。それから真つ暗な、息の詰まるやうな冷たい処にゐました。あゝ。田畑や、清い泉や、山風の涼しさはどこへ往つたでせう。」
これまで話して、フロルスは口を閉ぢた。そして力の脱けたやうに
項垂れた。
医師は「お休なさい」と云つて部屋を出て、差配人に主人の容態を話した。無言の童は目を

つて口を
開いて、熱心にそれを聞いてゐた。
夕方にフロルスは年の寄つた乳母を呼んだ。乳母はフロルスの前にしやがんで、お伽話や、小さい時の話をしてゐたが、それが種切になつてからは、自分の
翳んだ目で見、遠くなつた耳で聞いた事をなんの連絡もなしに話し出した。外套を体にぴつたり巻き附けて、乳母は歯の無い口からしゆつ/\と云ふやうな声を出して、こんな事を言つた。
「坊つちやん。二三日前の事でございますがね。港の関門の所で人殺しを見ましたよ。ですけれど、こはい顔はしてゐませんでした。ほんに光つた目をしてゐました。髪は黒うございました。丸で小僧つ子のやうな男でございました。わたしの亭主の兄弟で、商売をしてゐますチツスさんが掴まへたのでございます。」
フロルスは一声叫んで、婆あさんの臂を攫んだ。
「こら。廃せ。すぐに帰つてくれ。チツスだと。お前チツスと云つたな。魔女奴が。」
叫声に驚かされて無言の童が駈け附けた。
三
数日間煩悶が続いた。病人は度々「もう我慢が出来ない、己の力に余る」と、繰り返して云つた。陰密に心髄に食ひ込んでゐる苦痛のために、今までも蒼かつた顔は土色になつた。目の縁には黒い
暈が出来た。声は干からびた喉から出るやうに聞える。一夜も穏に眠らない。その絶間の無い恐怖は、
徒に無言の童を悩ますのである。
病人は或朝日の出る前に起きた。そしてどこかへ往く気と見えて、帽と外套とを出させた。老人の奴隷が用心して何も問はずにゐると、主人は奴隷の目を見て、無言の問に答へた。
「お前附いて来るのだ。」
主人はいつもの楽な、軽らかな足取で歩く。窪んだ頬の上に薔薇色の
紅が
潮してゐる。多くの町や広場を通り過ぎて、主従は大ぶ家を遠ざかつた。併し老人には主人がどこへ往くのだか分からない。そのうち主人が目的地に達したやうに足を
止めたので、老人が決心して問うた。