おばさんは意味ありげな微笑をした。そして云うには、ことしの五月一
日に、エルリングは町に手紙をよこして、もう別荘の面白い季節が過ぎてしまって、そろそろお前さんや、避暑客の
群が来られるだろうと思うと、ぞっとすると云ったと云うのである。
「して見ると、あなたの
御贔屓のエルリングは、余りお世辞はないと見えますね。」
「それはそうでございます。お世辞なんぞはございません。」こう云っておばさんは笑った。
己にはこの男が段々面白くなって来た。
その晩十時過ぎに、もう内中のものが
寐てしまってから、己は物案じをしながら、薄暗い庭を歩いて、
凪いだ海の鈍い波の音を、ぼんやりして聞いていた。その時己の目に明りが見えた。それはエルリングの家から
射していたのである。
己は直ぐにその明りを
辿って、家の戸口に行って、少し
動悸をさせながら、戸を叩いた。
内からは「どうぞ」と、落ち着いた声で答えた。
己は戸を開けたが、意外の感に打たれて、閾の上に足を
留めた。
ランプの
点けてある
古卓に、エルリングはいつもの
為事衣を着て、
凭り掛かっている。ただ前掛だけはしていない。何か書き物をしているのである。書いている紙は大判である。その側には厚い書物が開けてある。
卓の上のインク
壺の背後には、例の大きい黒猫が蹲って眠っている。エルリングが肩の上には、例の烏が止まって今己が出し抜けに来た
詫を云うのを、真面目な
顔附で聞いていたが、エルリングが座を
起ったので、鳥は部屋の隅へ飛んで行った。
エルリングは
椅子を出して己を掛けさせた。己はちょいと横目で、書棚にある書物の背皮を見た。グルンドヴィグ、キルケガアルド、ヤアコップ・ビョオメ、アンゲルス・シレジウス、それからギョオテのファウストなどがある。
後に言った三つの書物は、背革の文字で見ると、ドイツの原書である。エルリングはドイツを読むと見える。書物の選択から推して見ると、この男は宗教哲学のようなものを研究しているらしい。
大きな望遠鏡が、高い台に据えて、海の方へ向けてある。
後に聞けば、その凸面鏡は、エルリングが自分で
磨ったのである。書棚の上には、地球儀が一つ置いてある。
卓の上には分析に使う
硝子瓶がある。
六分儀がある。古い顕微鏡がある。自然学の趣味もあるという事が分かる。家具は、部屋の隅に
煖炉が一つ据えてあって、その側に
寝台があるばかりである。
「心持の好さそうな住まいだね。」
「ええ。」
「冬になってからは、誰が
煮炊をするのだね。」
「わたしが自分で
遣ります。」こう云って、エルリングは左の方を指さした。そこは
龕のように
出張っていて、その中に
竈や
鍋釜が置いてあった。
「この土地の冬が好きだと云ったっけね。」
「大好きです。」
「冬の間に誰か尋ねて来るかね。」
「あの男だけです。」エルリングが指さしをする方を見ると、祭服を着けた司祭の肖像が
卓の上に懸かっている。それより外には
額のようなものは一つも懸けてないらしかった。「あれが友達です。ホオルンベエクと云う隣村の牧師です。やはりわたしと同じように無妻で暮しています。それから余り附合をしないことも同様です。年越の晩には、
極まって来ますが、その外の晩にも、冬になるとちょいちょい来て一しょにトッジイを飲んで話して行きます。」
「冬になったら、この
辺は早く暗くなるだろうね。」
「三時半位です。」
「早く寝るかね。」
「いいえ。随分長く起きています。」こんな問答をしているうちに、エルリングは時計を見上げた。「御免なさい。丁度夜なかです。わたしはこれから海水浴を遣るのです。」
己は主人と一しょに立ち上がった。そして出口の方へ
行こうとして、ふと壁を見ると、今まで気が附かなかったが、あっさりした額縁に
嵌めたものが今一つ懸けてあった。それに
荊の
輪飾がしてある。薄暗いので、念を入れて額縁の中を覗くと、肖像や
画ではなくて、手紙か何かのような、書いた物である。己は足を
留めて、少し立ち入ったようで悪いかとも思ったが、決心して聞いて見た。
「あれはなんだね。」
「判決文です。」エルリングはこう云って、目を大きく
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って、落ち着いた
気色で己を見た。
「誰の。」
「わたくしのです。」
「どう云う文句かね。」
「殺人犯で、懲役五箇年です。」緩やかな、力の這入った詞で、真面目な、憂愁を帯びた目を、
怯れ
気もなく、大きく
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って、己を見ながら、こう云った。
「その刑期を済ましたのかね。」
「ええ。わたくしの約束した女房を附け
廻していた船乗でした。」
「そのお
上さんになるはずの女はどうなったかね。」
エルリングは異様な手附きをして窓を指さした。その
背後は海である。「行ってしまったのです。移住したのです。行方不明です。」
「それはよほど前の事かね。」
「さよう。もう三十年程になります。」
エルリングは
昂然として戸口を出て
行くので、己も附いて出た。戸の外で己は握手して覚えず丁寧に礼をした。
暫くしてから海面の薄明りの中で己はエルリングの頭が浮び出てまた沈んだのを見た。海水は鈍い銀色の光を放っている。
己は帰って寝たが、夜どおしエルリングが事を思っていた。その犯罪、その生涯の事を思ったのである。
丁度
浮木が波に
弄ばれて漂い寄るように、あの男はいつかこの
僻遠の
境に来て、漁師をしたか、農夫をしたか知らぬが、ある事に出会って、それから沈思する、
冥想する、思想の上で何物をか求めて、一人でいると云うことを覚えたものと見える。その苦痛が、そう云う運命にあの男を
陥いれたのであろう。そこでこうして、この別荘の冬の王になっている。しかし毎年春が来て、あの男の頭上の
冠を奪うと、あの男は浅葱の前掛をして、人の靴を磨くのである。夏の生活は短い。明るい色の
衣裳や、
麦藁帽子や、笑声や、
噂話は
忽の
間に
閃き去って、夢の
如くに消え
失せる。秋の風が立つと、
燕や、
蝶や、散った花や、落ちた葉と一しょに、そんな生活は吹きまくられてしまう。そして別荘の窓を、外から冬の
夜の
闇が覗く。人に
見棄てられた家と、葉の落ち尽した
木立のある、広い庭とへ、沈黙が抜足をして尋ねて来る。その時エルリングはまた昂然として頭を挙げて、あの
小家の中の
卓に
靠っているのであろう。その肩の上には
鴉が止まっている。この
北国神話の中の神のような人物は、宇宙の問題に思を潜めている。それでも
稀には、あの荊の輪飾の下の
扁額に目を注ぐことがあるだろう。そしてあの
世棄人も、遠い、微かな夢のように、
人世とか、喜怒哀楽とか、得喪利害とか云うものを思い浮べるだろう。しかしそれはあの男のためには、
疾くに一切
折伏し去った物に過ぎぬ。
暴風が起って、海が荒れて、
波濤があの
小家を撃ち、庭の木々が
軋めく時、沖を過ぎる舟の中の、心細い舟人は、エルリングが家の窓から
洩れる、小さい
燈の光を慕わしく思って見て通ることであろう。