私は豊前の小倉に足掛四年いた。その初の年の十月であった。六月の霖雨の最中に来て借りた鍛冶町の家で、私は寂しく夏を越したが、まだその夏のなごりがどこやらに残っていて、暖い日が続いた。毎日通う役所から四時過ぎに帰って、十畳ばかりの間にすわっていると、家主の飼う蜜蜂が折々軒のあたりを飛んで行く。二台の人力車がらくに行き違うだけの道を隔てて、向いの家で糸を縒る車の音が、ぶうんぶうんと聞える。糸を縒っているのは、片目の老処女で、私の所で女中が宿に下がった日には、それが手伝に来てくれるのであった。
或る日役所から帰って、机の上に読みさして置いてあった Wundt の心理学を開いて、半ペエジばかり読んだが、気乗がせぬので止めた。そしていつもの車の音を聞いてぼんやりしていた。
そこへ女中が知らぬ人の名刺を持って来た。どんな人かと問えば、洋服を著た若い人だと云う。とにかく通せと云うと、すぐにその人が這入って来た。
二十を僅に越した位の男で、快活な、人に遠慮をせぬ性らしく見えた。この人が私にそう云う印象を与えたのは、多く外国人に交って、識らず知らずの間に、遠慮深い東洋風を棄てたのだと云うことが、後に私にわかった。
初対面の挨拶が済んで私は来意を尋ねた。この人の事を私はF君と書く。F君の言う所は頗る尋常に異なるものであった。君は私とは同じ石見人であるが、私は津和野に生れたから亀井家領内の人、君は所謂天領の人である。早くからドイツ語を専修しようと思い立って、東京へ出た。所々の学校に籍を置き、種々の教師に贄を執って見たが、今の立場から言えば、どの学校も、どの教師も、自分に満足を与えることが出来ない。ドイツ人にも汎く交際を求めて見たが、丁度日本人に日本の国語を系統的に知った人が少いと同じ事で、ドイツ人もドイツ語に精通してはいない。それから日本人の書いたドイツ文や、日本人のドイツ語から訳した国文を渉猟して見たが、どれもどれも誤謬だらけである。その中でF君は私が最も自由にドイツ文を書き、最も正確にドイツ文を訳すると云うことを発見した。しかし東京にいた時の私の生活はいかにも繁劇らしいので、接近しようとせずにいた。その私が小倉へ来た。そこで君はわざわざ東京から私の跡を追って来た。これから小倉にいて、私にドイツ語を学びたいと云うのである。
これを聞いて私はF君の自信の大きいのに驚き、又私の買い被られていることの甚しいのに驚いて、暫く君の顔を見て黙っていた。後に思えば気の毒であるが、この時は私の心中に、若し狂人ではあるまいかと云う疑さえ萌していた。
それから私は取敢ずこんな返事をした。君は私を買い被っている。私はそんなにえらくはない。しかし私の事は姑く措くとして、君は果して東京で師事すべき人を求めることの出来ぬ程、ドイツ語に通じているか。失敬ながら私はそれを疑う。こう云いつつ、私は机の上にあった Wundt を取って、F君の前に出して云った。これは少し専門に偏った本で、単にドイツ語を試験するには適していぬが、若しそれでも好いなら、そこで一ペエジ程読んで、その意味を私に話して聞かせて貰いたい。若し他の本が好いなら、小説もあり雑誌もあるから、その方にしようと云った。
F君は私の手から本を受取って、題号を見た。そして「心理学ですね」と云った。
「そうだ。君それが読めるか。」
「読めないことはありますまい。この本の事は聞いていただけで、まだ見たことはなかったのです。しかし私が Paedagogik を研究した時、どうしても心理学から這入らなくては駄目だと思って、少し心理学の本を覗いて見たことがあります。どこを読みましょう。」こう云って本を飜しているうちに、巻末に近い Die seele と云う一章が出た。「そこを少し読んで聞かせ給え」と、私は云った。
F君は少し間の悪そうに、低い声で五六行読んだ。声は低いが発音は好い。すらすらと読むのを私は聞いていて、意味をはっきり聞き取ることが出来た。
「もう好いから、君その意味を言って聞かせ給え」と、私は云った。
F君は殆ど術語のみから組み立ててある原文の意味を、苦もなく説き明かした。
私は再び驚いた。F君は狂人どころでは無い。君の自信の大きいのは当然のことである。私は云った。
「それだけ読めれば、君と僕との間に、何の軒輊すべき所も無いね。」
「なに。そんな事はありません。追々質問します」と、F君は云った。
これでF君が漫りに大言荘語したのでないと云う事だけはわかった。しかしそれ以外の事は、私のためには総て疑問である。私はこの疑問を徐々に解決しようと思った。只その中に急に知らなくてはならぬ事が一つある。それはF君の生活状態である。身の上である。
私はこう云った。「それは君のドイツ語を研究する相談相手になれと云うことなら、僕はならないことはない。ところで君はどうして小倉で暮して行く積りだ。」こう云ったが、F君は黙っている。私はすぐに畳み掛けて露骨に云った。「君金があるのか。」
F君は黙ってはいられなくなった。「金は東京から来る汽車賃に皆使ってしまったのです。国から取れば、多少取れないこともありませんが、目前の用には立ちません。当分あなたの所に置いて下さるわけには行きますまいか。」
この詞は私の評価に少からず影響した。F君のドイツ語の造詣は、初め狂人かとまで思った疑を打ち消して、大いに君を重くしたのに、この詞は又頗る君を軽くした。固より人間は貧乏だからと云って、その材能の評価を減ずることはない。しかしF君が現に一銭の貯もなくて、私をたよって来たとすると、前に私を讃めたのが、買被りでなくて、世辞ではあるまいか、阿諛ではあるまいかと疑われる。修行しようと云う望に、寄食しようと云う望が附帯しているとすると、F君の私を目ざして来た動機がだいぶ不純になってしまう。人間の行為に全く純粋な動機は殆ど無いとしても、F君の行為を催起した動機は、その不純の程度が稍甚しくはあるまいかと疑われる。
これまで私に従学したいと云って名告り出た人に、F君のような造詣のあったことは曾て無い。この側から見れば、F君は奇蹟である。しかしこれまで私の家に寄食したいと云って来た人に、一文の貯もなかったことは幾らでも有る。この側から見ればF君は平凡な徼幸者である。そう云う徼幸者を遇する道は、私のためには熟路である。私はこの熟路を行くに、奇蹟たる他の一面を顧慮して、多少の手加減をすれば好いのである。
私は決して徼幸者に現金をわたさない。これが徼幸者に対する一つの原則である。そこで私はF君にこんな事を言った。君はドイツ語が好く出来る。私の君を知っているのは只それだけである。それだけでは、君と同居しようとまでは、私には思われない。そこで私は君を、私の心安い宿屋に紹介する。宿屋では私に対する信用で、君を泊まらせて食わせて置く。その間に私は君のために位置を求める。それも、君だけの材能があって見れば、多少の心当がないでもない。若し旨く行ったら、君は自ら贏ち得た報酬で宿屋の勘定をするが好い。それが旨く行かず、又故郷からも金が来なかったら、宿屋の勘定だけを私が引き受ける。私にはそれ以上の約束は出来ない。それで好いかと、私は云った。
F君は私の詞を聞いて、少し勝手が違うように、予期に反したように感じたらしかったが、とにかく同意した。多分君は私が許諾するか、拒絶するかと思っていただろう。それに私の答は許諾でもなければ、拒絶でもなかったから、君のためには意外であったかと思われる。とにかく君は、格別難有がる様子もなく、私に同意した。
私は使を遣って下役の人を呼んで、それに用事を言い含めた。そしてF君を連れて、立見と云う宿屋へ往かせた。立見と云うのは小倉停車場に近い宿屋で、私がこの土地に著いた時泊った家である。主人は四十を越した寡婦で、狆を可哀がっている。怜悧で、何の話でも好くわかる。私はF君をこの女の手に托したのである。
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私がF君に多少の心当があると云ったのは、丁度その頃小倉に青年の団体があって、ドイツ語の教師を捜していたからである。そこで早速その団体の世話人に話して、君を聘することにさせた。立見の勘定は私が払わなくても好いことになった。
F君は殆毎日のように私の所へ遊びに来た。話はドイツ語の事を離れぬが、別に私に難問をするでもない。新に得た地位に安んじて、熱心に初学者にドイツ語を教える方法を研究して、それを私に相談する。そう云う話を聞くうちに、私は次第に君と私とのドイツ語の知識に大分相違のあることを知った。それは互に得失があるのである。君は語格文法に精しい。文章を分析して細かい事を云う。私はそんな時に始て聞く術語に出くわして驚くことがある。しかし君の書いたドイツ文には漢学者の謂う和習がある。ドイツ人ならばそうは云わぬと、私が指する。君が服せぬと、私は旅中にも持っている Reclam 版の Goethe などを出して証拠立てる。こんな応対がなかなか面白いので、私も君の来るのを待つようになった。
天気の好い土曜、日曜などには、私はF君を連れて散歩をした。狭い小倉の町は、端から端まで歩いても歩き足らぬので、海岸を大里まで往ったり、汽車に乗って香椎の方へ往ったりした。格別読む暇もないのに、君はいつも隠しにドイツの本を入れて歩く。Goeschen 版の認識論や民類学などである。なぜかと問うと、暇があったら読もうと思うのが楽しみだと、君は答える。ひどく知識欲の強い人である。
二三週間立ってから、或る日私はF君がどんな生活をしているかと思って、役所からの帰掛に立見をおとずれた。丁度お上さんが門口から一匹の小犬を逐い出しているところであった。「どうも内の狆が牝だもんですから、いろんな犬が来て困ります」と云って置いて、「畜生々々」と顧み勝に出て行く犬を叱っている。狆は帳場から、よそよそしい様子をして見ている。
「F君はどうしていますか」と、私は問うた。
「あなたがお世話なさるだけあって、変った方でございますね」と、お上さんは笑顔をして云った。
「わたくしが世話をするだけあって変っているのですって。それは困るなあ。一体どう変っています。」こう云いつつ、私は帳場の前に腰を掛けた。
「いいえ、大そう好い方でございますが、もうこんなに朝晩寒くなりましたのに、まだ単物一枚でいらっしゃいます。寒い時は、上からケットを被って本を読んでいらっしゃるのでございます。」お上さんは私に座布団を出して、こう云った。
「はてな。工面が悪いのかしら。」独言のように私は云った。
「そうじゃございません。お泊になってから少し立ちますと、今なら金があるからと仰ゃって、今月末までの勘定を済ませておしまいになった位でございます。」もう十一月に入っているから、F君は先月青年団から貰った金で前払をしたのである。
とにかく逢って見ようと思って、私は二階へ上がった。立見の家では、奥の離座敷に上等の客を留めることにしている。次は母屋の中庭に向いた二階である。表通に向いた二階の小部屋は、細かい格子の窓があって、そこには客を泊らせない。F君は一番安い所で好いと云って、そこに落ち著いた。
「F君、いるかね」と云って声を掛けると、君は内から障子を開けた。なる程フランネルのシャツの上に湯帷子を著ている。細かい格子に日を遮られた、薄暗い窓の下に、手習机の古いのが据えてあって、そこが君の席になっている。私は炭団の活けてある小火鉢を挟んで、君と対座した。
この時すぐに目を射たのは、机の向側に夷麦酒の空箱が竪に据えて本箱にしてあることであった。しかもその箱の半以上を、茶褐色の背革の大きい本三冊が占めていて、跡は小さい本と雑記帳とで填まっている。三冊の大きい本は極新しい。薄暗い箱から、背革に記してある金字が光を放っている。私は首を屈めて金字を読もうとした。
「Meyer の小ですよ」と、F君が云った。
「そうか。ひどく立派な本になったね。それに僕の持っているのは二冊物だが。」
「それは古いのです。これは南江堂に来たのを見て置いたから、郵便為換を遣って取り寄せました。」
「しかしこんなに膨脹しては、名は小でも、邪魔になるね。なぜわざわざ取り寄せたのだ。」
「なに、教師をしていると、人名や地名の説明を求められますから、この位な本がないと、心細いのです。」
F君と私とは会話辞書の話をした。Meyer と Brockhaus との得失を論ずる。こう云うドイツの本が Larousse や Britannica と違う所以を論ずる。俗書が段々科学的の書に接近して来る風潮を論ずる。とうとう私はランプの附くまでいて帰った。
私は借家に帰ると、古袷を一枚女中に持たせて、F君の所へ遣った。五十日分の宿料を払って、会話辞書を買っては、君の貰った月給は皆無くなって、煙草もやたらには呑まれぬわけだと思ったからである。
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私はF君の徼幸者の一面があると思っていたので、最初から君と交わるに、多少の距離を保留して置くようにした。しかし相識になってから時が立つに従って、この距離が段々縮まって来た。
それには衣食に事を闕いても書物を買うと云う君の学問好を認めた為めもあるが、決してそればかりではない。ドイツ語に於ける君の造詣の深いことは、初対面の日にもう知れていた。そうして見れば、君が学問好だと云うことは、問わずして明かなわけである。
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