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普請中(ふしんちゅう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 10:03:25  点击:  切换到繁體中文

 渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。
 雨あがりの道の、ところどころに残っている水たまりを避けて、木挽町こびきちょう河岸かしを、逓信省の方へ行きながら、たしかこの辺の曲がり角に看板のあるのを見たはずだがと思いながら行く。
 人通りはあまりない。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しながら行くのにあった。それから半衿はんえりのかかった着物を着た、お茶屋のねえさんらしいのが、なにか近所へ用たしにでも出たのか、小走りにすれ違った。まだほろをかけたままの人力車が一台あとから駈け抜けて行った。
 果して精養軒ホテルと横に書いた、わりに小さい看板が見つかった。
 河岸通りに向いた方は板囲いになっていて、横町に向いた寂しい側面に、左右から横に登るようにできている階段がある。階段はさきを切った三角形になっていて、そのさきを切ったところに戸口が二つある。渡辺はどれからはいるのかと迷いながら、階段を登ってみると、左の方の戸口に入口と書いてある。
 くつがだいぶ泥になっているので、丁寧に掃除をして、硝子ガラス戸をあけてはいった。中は広い廊下のような板敷で、ここには外にあるのと同じような、棕櫚しゅろくつぬぐいのそばに雑巾ぞうきんがひろげておいてある。渡辺は、おれのようなきたない靴をはいて来る人がほかにもあるとみえると思いながら、また靴を掃除した。
 あたりはひっそりとして人気ひとけがない。ただ少しへだたったところから騒がしい物音がするばかりである。大工がはいっているらしい物音である。外に板囲いのしてあるのを思い合せて、普請ふしん最中だなと思う。
 たれも出迎える者がないので、真直まっすぐに歩いて、つき当って、右へ行こうか左へ行こうかと考えていると、やっとのことで、給仕らしい男のうろついているのに、出合った。
「きのう電話で頼んでおいたのだがね」
「は。お二人さんですか。どうぞお二階へ」
 右の方へ登る梯子はしごを教えてくれた。すぐに二人前の注文をした客とわかったのは普請中ほとんど休業同様にしているからであろう。この辺まで入り込んでみれば、ますますくぎを打つ音や手斧ちょうなをかける音が聞えてくるのである。
 梯子を登るあとから給仕がついて来た。どの室かと迷って、うしろをふりかえりながら、渡辺はこういった。
「だいぶにぎやかな音がするね」
「いえ。五時には職人が帰ってしまいますから、お食事中騒々しいようなことはございません。しばらくこちらで」
 さきへ駈け抜けて、東向きの室の戸をあけた。はいってみると、二人の客を通すには、ちと大きすぎるサロンである。三所に小さい卓がおいてあって、どれをも四つ五つずつ椅子いすが取り巻いている。東の右の窓の下にソファもある。そのそばには、高さ三尺ばかりの葡萄ぶどうに、暖室で大きい実をならせた盆栽がすえてある。
 渡辺があちこち見廻していると、戸口に立ちどまっていた給仕が、「お食事はこちらで」といって、左側の戸をあけた。これはちょうどよい室である。もうちゃんと食卓がこしらえて、アザレエやロドダンドロンを美しく組み合せた盛花もりばなかごを真中にして、クウウェエルが二つ向き合せておいてある。いま二人くらいははいられよう、六人になったら少し窮屈だろうと思われる、ちょうどよい室である。
 渡辺はやや満足してサロンへ帰った。給仕が食事の室からすぐに勝手の方へ行ったので、渡辺ははじめてひとりになったのである。
 金槌かなづちや手斧の音がぱったりやんだ。時計を出して見れば、なるほど五時になっている。約束の時刻までには、まだ三十分あると思いながら、小さい卓の上に封を切って出してある箱の葉巻を一本取って、さきを切って火をつけた。
 不思議なことには、渡辺は人を待っているという心持が少しもしない。その待っている人が誰であろうと、ほとんどかまわないくらいである。あの花籠の向うにどんな顔が現れて来ようとも、ほとんどかまわないくらいである。渡辺はなぜこんな冷澹れいたんな心持になっていられるかと、みずから疑うのである。
 渡辺は葉巻の煙をゆるく吹きながら、ソファの角のところの窓をあけて、外を眺めた。窓のすぐ下には材木がたくさん立てならべてある。ここが表口になるらしい。動くとも見えない水をたたえたカナルをへだてて、向う側の人家が見える。多分待合かなにかであろう。往来はほとんど絶えていて、その家の門に子を負うた女が一人ぼんやりたたずんでいる。右のはずれの方には幅広く視野をさえぎって、海軍参考館の赤煉瓦あかれんががいかめしく立ちはだかっている。
 渡辺はソファに腰をかけて、サロンの中を見廻した。壁のところどころには、偶然ここで落ち合ったというような掛け物が幾つもかけてある。梅にうぐいすやら、浦島が子やら、たかやら、どれもどれも小さいたけの短いふくなので、天井の高い壁にかけられたのが、しり端折はしょったように見える。食卓のこしらえてある室の入口を挾んで、れんのような物のかけてあるのを見れば、某大教正の書いた神代文字じんだいもじというものである。日本は芸術の国ではない。
 渡辺はしばらくなにを思うともなく、なにを見聞くともなく、ただ煙草たばこをのんで、体の快感を覚えていた。
 廊下に足音と話し声とがする。戸が開く。渡辺の待っていた人が来たのである。麦藁むぎわらの大きいアンヌマリイ帽に、珠数じゅず飾りをしたのをかぶっている。鼠色ねずみいろの長い着物式の上衣の胸から、刺繍ししゅうをした白いバチストが見えている。ジュポンも同じ鼠色である。手にはウォランのついた、おもちゃのような蝙蝠傘こうもりがさを持っている。渡辺は無意識に微笑をよそおってソファから起きあがって、葉巻を灰皿に投げた。女は、附いて来て戸口に立ちどまっている給仕をちょっと見返って、その目を渡辺に移した。ブリュネットの女の、褐色かっしょくの、大きい目である。この目は昔たびたび見たことのある目である。しかしそのふちにある、指の幅ほどな紫がかった濃いかさは、昔なかったのである。

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