「さあ、これで好いから出掛けるよ。」
「そんな風をして町へ出ては困るぢやないか」と、主人が云つた。
「だつて立派ぢやありませんか。」
「なんだ。まるで仮装舞踏に行くやうだ。町のものが呆れるだらう。」
「それは町の人は気違ひだと思ふでせう。好いわ。ヤコツプやあ。さあ、車をお出しよ。ボヂルやあ。お午の時テエブルの上を薔薇で飾つて置くのだよ。好いから薔薇を沢山お切りよ。」お嬢さんは笑ひながらかう云つた。「そんならお父う様、行つて参ります。さやうなら。ヤコツプや。お出しよ。」
技手は柁機を廻した。自動車はゆつくり花壇の
石段の上には主人とボヂル婆あさんとが残つて、見送つてゐる。
「まあ、なんといふ
「馬鹿な奴だ」と、主人は云つた。
「どれ、お午のテエブルに載せる薔薇を切つて参りませう。」
「どうも甘やかして育てたもんだから困る。」
「さやうでございますね。旦那様は随分お可哀がり遊ばします。」
「いゝや。お前が甘やかすのだ。」
「さあ。それはさうでございますが、旦那様、あなたが
「うん。」主人はくるりと背中を向けて内へ這入つた。
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中庭の花壇では足りないので、花園の花壇のをも切つた。主人が幾ら厭な顔をしても
ボヂルといふのは、この別荘に附物の婆あさんである。御本宅で、お嬢さんがまだ生れない内から勤めてゐた。十年前に奥様が亡くなつてからは、この婆あさんが内ぢゆうの事を、誰が言ひ附けたともなく、引き受けてしてゐるのである。
食堂には、食卓の準備がしてある。そこへ婆あさんは籠に一ぱい薔薇を持つて来て、飾り始めた。食卓に載せる、小さい花瓶が六つあるのに、二輪づつ花を插して、二つづつ並べて、卓の中通りに置いた。実に美しい。それから盤に花を盛つたのを卓の四隅に置く。それから枝を卓の上一ぱいにばら蒔く。主人とお嬢さんとの膝に掛ける
主人は食堂へ出て来た。燕尾服に白襟を附けて、
主人は卓の前に立ち留まつて、卓と婆あさんとを見較べてゐる。
婆あさんは主人の顔をぢつと見てゐる。
「どうもこんな風では」と、主人がつぶやいた。
「それでも旦那様もお召をお改め遊ばしたではございませんか」と、婆あさんが云ふ。
暫く二人は睨み合つて黙つてゐた。
「あの、シヤンパンのコツプを出しました」と、婆あさんが口を切つた。
「うん。出してあるな。」
「最初に
「ふん。そんなに甘やかしてどうするのだ。」
「でもあなたが廃せと仰やれば致しません。」
主人は時計を出して見た。もう時刻迄に二三分しかない。お嬢さんが今にも帰つて来る筈である。
「お前降りて行つてシヤンパンを出して来ないか。」
婆あさんは主人の顔を意味ありげに見た。どういふ考で言ひ附けるかと疑ふ様子である。
「旦那様はいつも御自分でお出し遊ばすではございませんか。」
主人は輪に通した鍵を婆あさんに渡した。
「これで出して来い。一番上の棚の右の方だ。」婆あさんは鍵を受取つた。敢て反抗はしない。併し主人の魂胆を見抜いたのである。なんでも主人は婆あさんを出し抜いて、一人で階段の上に迎へに出て、燕尾服を着たところを、娘に見せる積りらしい。
「それからな、シヤンパンは氷で冷さなくてはな。」
「それはさうでございますとも。」
婆あさんは不平なので、戸を荒々しく締めて出て行つた。
主人は微笑みながら婆あさんを見送つて、揉手をしてゐる。今度こそはあの婆あさんを旨く出し抜いて遣つたと思ふのである。
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ボヂル婆あさんは穴倉の梯子の中程に、左の手にシヤンパンの瓶を持つて、右の手で欄干を掴まへて立つてゐる。
この時恐ろしい叫声が二声聞えた。気の違つたやうな、荒々しい叫声である。別荘の部屋々々に響き渡つて、それを聞くものは胆を冷して、体が
その跡はひつそりした。暫くしてから人の叫んだり、泣いたり、走り廻つたりする音が聞えて来た。そして婆あさんが梯子を登つて、玄関まで来た時には、お嬢さんの死骸が
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お嬢さんと家来のヰクトルと二人で、自動車に乗つて帰つたのである。技手は一時間も立つてから、歩いて帰つて来た。
技手の云ふには、どうも自動車の機関が狂つてゐたとしか思はれない。なぜといふにヰクトルは自分と同じ位自動車を使ふ事を知つてゐるから、止められなくなる筈がないと云ふのである。
併しなぜ二人が、技手を出し抜いて先へ帰つたかといふ事は、技手も説明することが出来なかつた。
仲働きのカレンが見てゐた時、二人は前の馭者台に並んで乗つてゐて、その車が恐ろしい速度で中庭の芝生を通つて、薔薇の花壇を蹂躪して走つて来たさうだ。そのとたんにお嬢さんが、荒々しい叫声を出したのであつた。最後の一瞬間に、ヰクトルは今まで握つてゐた手を柁機から離した。そしてお嬢さんをしつかり抱いた。そのとたんに自動車は別荘の石壁に衝突して、二人は死んだのである。
この出来事は無論世間の
気の毒な父親も頗る世間の人の同情を惹いた。
葬の日には柩の上を薔薇の花輪が三層に覆つた。真つ赤い薔薇の花の輪飾が。
お嬢さんはこれ程に可哀がられてゐたのである。平生この家と交際してゐる二三軒では、丁度葬の日に芝居の入場券が買つてあつたのに、遠慮して行かなかつた位である。