技手は手袋を嵌めた両手を、自動車の
白壁の別荘の中では、がたがたと戸を開けたり締めたりする音がしてゐる。それに交つて、好く響く、面白げな、若い女の声でかう云ふ。
「ボヂルや、ボヂルや。わたしのボアがないよ。ボアはどうしたの。」
「こゝにございます。お嬢様、こゝに。」
「手袋は。」
「あなた隠しにお入れ遊ばしました。」
別荘の窓は皆開けてある。九月の晴れた日が、芝生と、お嬢様のお好な赤い薔薇の花壇とに差してゐる。
入口の、幅の広い石段の一番下の段に家来が立つてゐる。褐色のリフレエが、しなやかな青年の体にぴつたり工合好く附いてゐる。手にはダネボルクの徽章の附いたシルクハツトを持つてゐる。もう十五分位、かうして立つて待つてゐるのである。
主人が急ぎ足に
「エストリイドや。早くしないかい。御馳走のブレツクフアストに後れてしまふよ。」かう云つてじれつたさうに手を揉んでゐる。
「もう直ぐですよ、お父うさん。ボヂルや、手袋をおくれよ。あの色の明るい方だよ。」
「あら、お嬢様、あなたお手に持つて入らつしやるではございませんか。」
「おや。さうだつけね。」お嬢さんは玄関の天井が反響するやうに笑つた。「さあ、もうこれで好いわ。」
家来は電気の掛かつたやうに、姿勢を正して、自動車の戸を開けた。
お嬢さんは晴れ晴れとした、身軽な様子をして、主人と並んで、階段の上に立つた。髪は乱れて
「まあ、なんといふ好いお天気でせう。」
「お天気は好いが、早くおし、早くおし。」
「あら、薔薇が綺麗ですこと。御覧なさいよ。」
「遅くなるよ。」
「なに。みんな待つてゐて下すつてよ。いつもそんなに早くは行かないから。そんなら、お父う様、さやうなら。」お嬢さんは両手で主人の首に抱き附いて、頬に接吻した。
「さあ、行つてお出よ。お午には帰つて来るだらうね。」
「帰りますとも。」今一度接吻した。そして石段を駈け降りて、自動車に乗つた。併し乗つたかと思ふと、突然叫んだ。
「おう。籠々。フランチスカをばさんに上げる果物の籠があつたよ。ボヂルやあ。」
主人は石段の上で足踏をしてゐる。
「いや早。女といふものは始末の悪いものだな。」
それでもお嬢さんは、主人の顔を見上げて笑つて、指で接吻の真似をして見せる。
ボヂル婆あさんが、年寄つた足で駈けられるだけ駈けて、果物の籠を持つて来た。
「さあ、こゝに置きます。」息を切らしながらかう言つて、籠をお嬢さんの脇に据ゑた。
「もう出掛けられるだらうな」と、主人が云つた。
併しお嬢さんはこの時又叫び出した。花壇の薔薇が目に留まつたのである。
「わたしあの薔薇を持つて行つてよ。ヰクトルや。走つて行つて、あれを沢山切つてお出。」
「遅くなるよ。」
「だつてをばさんに薔薇を上げなくては。花も持たないで行つては、をばさんがなんと
家来は両手に握り切れない程薔薇を持つて来た。しなやかな枝が、花の重みで垂れてゐる。
主人は石段の上で足踏をしてゐる。婆あさんは、旦那が本当におこらねば好いがと心配して身を顫はしてゐる。
お嬢さんは突然大声で笑つた。
「お父う様。早く内へ這入つて戸をお締めなさいよう。わたしの今思ひ附いた事は、お父う様が見て入らつしやつては出来ない事なのですから。」
「なんだ。
家来は薔薇をお嬢さんの脇へ、果物の籠と一しよに置いた。その時お嬢さんは家来の耳に口を寄せて、なんだか囁いだ。
家来は心配げに主人の顔を見た。
「早くよう。ヰクトルやあ。両方の耳に、
家来の口の
お嬢さんは大声で笑つた。
「ほんとにねえ。馬はゐなかつたつけねえ。わたしすつかり忘れてゐてよ。そんなら好いから、あの明りを附けるものを取つてしまつて、あそこへ薔薇の枝をお插しよ。」
家来は躊躇した。
「早くおしよ。早く、早く。」
家来は又花壇へ帰つて行つて、薔薇を切つてゐる。
主人は急いで石段を降りて来た。
「何をするのだい。まだ薔薇を持つて来させるのか。」
「好いから、お父う様、あなたはそこに入らつしやいよ。」
「それでもお前はまるで薔薇に埋まつてしまふぢやないか。」
「わたし埋まりたいのだわ。」
家来は自動車の明りを付けるものを
お嬢さんは傍にあつた薔薇の枝を一掴み取つて、婆あさんに渡して、かう云つた。
「これをねえ、わたしの体の周囲へ振り蒔いておくれ。それから幌の上にもね。」
「それではお嬢様、あんまり。」
「それならお父う様、蒔いて下さい。」
「なんだ。そんな馬鹿げた事を、己まで一しよになつてして溜まるものか。」
「そんならわたし自分でするわ。」
お嬢さんは花をむしつて、自分の周囲と幌の上とに蒔き散した。薔薇の中にもぐつて坐つてゐるやうである。
「それからねえ。ヰクトルやあ。お前はこの薔薇を
技手も、家来も
お嬢さんは帽子の帯に一枝插して、胸にも花を一つ插した。