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独身(どくしん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:56:12  点击:  切换到繁體中文


 戸川は話し続けた。「どうも富田君はまぜっ返すから困る。かくそれから下女が下女でなくなった。宮沢は直ぐに後悔した。職務が職務なのだから、発覚しては一大事だと思ったということは、僕にも察せられる。ところが、下女は今までつつましくしていたのが、次第にお化粧をする、派手な着物を着る。なんとなく人の目に立つ。宮沢は気が気でない。とうとう下女の親もとへ出掛けて行って、いずれ妻にするからと云って、一旦いったん引き取らせて手当を遣っていた。そのうちにどうかしようと思ったが、親許が真面目まじめなので、どうすることも出来ない。宮沢は随分窮してはいたのだが、ひと算段をしてでも金で手を切ろうとした。しかし親許では極まった手当のほかのものはどうしても取らない。それがしんから欲しくないのだから、手が附けられない。とうとうその下女を妻にして、今でもそのままになっている。今は東京で立派にしているのだが、なんにしろ教育の無い女の事だから、宮沢は何かに附けて困っているよ。」
 富田は意地きたなげに、酒をちびちび飲みながら冷かした。「もうおしまいか。竜頭蛇尾だね。そんな話なら、誉めなけりゃあ好かった。」

       四

 この時戸口で、足踏をして足駄の歯に附いた雪を落すような音がする。主人の飼っている Jeanジャン という大犬が吠えそうにしてして、鼻をくんくんと鳴らす。竹が障子を開けて何か言う声がする。
 間もなく香染こうぞめの衣を着た坊さんが、ひげの二分程延びた顔をして這入はいって来た。皆の顔を見て会釈して、「遅くなりましてはなはだ」と云いながら、畳んだ坐具を右のわきに置いて、戸川と富田との間の処に据わった。
 寧国寺ねいこくじさんという曹洞宗そうとうしゅうの坊さんなのである。金田町の鉄道線路に近い処に、長い間廃寺のようになっていた寧国寺という寺がある。檀家だんかであった元小倉藩の士族が大方豊津とよつかえってしまったので、廃寺のようになったのであった。辻堂を大きくしたようなこの寺の本堂の壁に、新聞反古ほごを張って、この坊さんが近頃住まっているのである。
 主人は嬉しそうな顔をして、下女を呼んで言い附けた。
「饂飩がまだあるなら、一杯熱くして寧国寺さんに上げないか。お寒いだろうから。」
 戸川は自分の手を翳していた火鉢を、寧国寺さんの前へ押し遣った。
 寧国寺さんはほとんど無間断むげんだんに微笑をたたえている、せた顔を主人の方に向けて、こんな話をし出した。
「実は今朝托鉢たくはつに出ますと、たて町の小さい古本屋に、大智度論たいちどろんの立派な本が一山積み畳ねてあるのが、目に留まったのですな。どうもこんな本が端本はほんになっているのは不思議だと思いながら、こちらの方へ歩いて参って、にしき町の通を旦過橋たんかばしの方へ行く途中で、また古本屋の店を見ると、同じ大智度論が一山ここにも積み畳ねてある。その外法苑珠林ほうおんじゅりんだの何だのと、色々あるのです。大智度論も二軒のを合せると全部になりそうなのですな。」
 主人は口を挟んだ。「それじゃあわざと端本にして分けて売ったのでしょう。」
「お察しの通りです。どこから出たということも大概分かっています。どうかすると調べたくなる事もある本ではあるし、端本にして置けば、反古にしてしまわれるのはまっていますから、いかにも惜しゅうございますので、東禅寺の和尚に話して買うて置いて貰うことにして来ました。跡に残っている本のうちには、何か御覧になるようなものもあろうかと思いましたので一寸ちょっとお知らせに参りました。」
「それは難有ありがとう。明日あした役所から帰る時にでも廻って見ましょう。さあ。饂飩が冷えます。」
 寧国寺さんは饂飩を食べるのである。暫くすると、竹が「お代りは」と云って出て来た。そしてお代りを持って来るのを待って、主人は竹を呼び留めた。
「少しこのへんを片附けて、お茶を入れて、馬関の羊羹ようかんのあったのを切って来い。おい。富田君の処の徳利は片附けてはいけない。」
「いや。これを持って行かれては大変。」富田はえびのようになった手で徳利を押えた。そして主人にこう云った。
「一体御主人の博聞強記はいが、科学を遣っているくせに仏法の本なんかを読むのは分からないて。仏法の本は坊様が読めば好いではないか。」
 寧国寺さんは饂飩をゆっくり食べながら、顔には相変らず微笑を湛えている。
 主人がこう云った。「君がそう思うのも無理はない。医書なんぞは、医者でないものが読むと、役には立たないで害になることもある。しかし仏法の本は違うよ。」
「どうか知らん。独身でいるのさえ変なのに、おまけに三宝に帰依きえしていると来るから、溜まらない。」
「また独身攻撃を遣り出すね。僕なんぞの考では、そう云う君だってやっぱり三宝に帰依しているよ。」
「こう見えても、僕なんかは三宝とは何と何だか知らないのだ。」
「知らないでも帰依している。」
「そんな堅白異同けんぱくいどうの弁を試みたっていけない。」
 主人は笑談じょうだんのような、真面目まじめのような、不得要領な顔をしてこんな事を言った。
「そうでないよ。君は科学科学と云っているだろう。あれも法なのだ。君達の仲間で崇拝している大先生があるだろう。Authoritaetenアウトリテエテン だね。あれは皆仏なのだ。そして君達は皆僧なのだ。それからどうかすると先生を退治しようとするねえ。Authoritaetenアウトリテエテン-Stuermereiスチュルメライ というのだね。あれは仏をし祖をののしるのだね。」
 寧国寺さんは羊羹を食べて茶をみながら、相変わらず微笑している。

       五

 富田は目を据えて主人を見た。
「またお講釈だ。ちょいと話をしている間にでも、おや、また教えられたなと思う。あれが苦痛だね。」一寸ちょっと顔をしかめて話し続けた。
「なるほど酒は御馳走ごちそうになる。しかしおさかなが饂飩と来ては閉口する。お負にお講釈まで聞せられては溜まらない。」
 主人はにやにや笑っている。「一体仏法なぞを攻撃しはじめたのはたれだろう。」
「いや。説法さえして貰われれば、僕も謗法ぼうほうはしない。だがね、君、独身生活を攻撃することは廃さないよ。箕村みのむらの処なんぞへ行くと、お肴が違う。お梅さんが床の間の前に据わって、富田に馳走をせいと儼然げんぜんとして御託宣があるのだ。そうすると山海の美味が前に並ぶのだ。」
「分からないね。箕村というのは誰だい。それにお梅さんという人はどうしてそんなに息張いばっているのだい。」
「そりゃ息張っていますとも。床の間の前へ行って据わると、それ、御託宣だと云うので、箕村は遥か下がって平伏するのだ。」
「箕村というのは誰だい。」
「箕村ですか。あの長浜へ出る処に小児科病院を開いている男です。前の細君が病気で亡くなって忌中でいると、ある日大きなたいを持って来て置いて行ったものがあったそうだ。箕村がひどく驚いて、近所を聞き廻ったり何かして騒ぐと、その時はまだ女中でいたお梅さんが平気で、これはお稲荷いなりさまの下さった鯛だと云って、直ぐに料理をして、否唯いやおうなしに箕村に食わせたそうだ。それが不思議の始で、おりおり稲荷の託宣がある。梅と婚礼をせいと云う託宣なんぞも、やっぱりお梅さんが言い渡して置いて、箕村が婚礼の支度をすると、お梅さんは驚いた顔をして、およめさんはどちらからおいでなさいますと云ったそうだ。僕は神慮にかなっていると見えて、富田に馳走をせいと云う託宣があるのだ。」
「怪しい女だね」と戸川がくちばしれた。
「なに。御馳走になるから云うのではないが、なかなかい細君だよ。入院している子供は皆なついている。好く世話をしてるそうだ。ただおりおり御託宣があるのだ。」
 寧国寺さんは、主人と顔を見合せて、不断の微笑を浮べて聞いていたが、「お休なさい」と云って、ついと起った。見送りに立ついとまもない。
 この坊さんはいつでも飄然ひょうぜんとして来て飄然として去るのである。

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