薫子の書は田中不二麿若くは丹羽淳太郎、後の名賢の手より出で、前海相八代氏の実兄尾藩磅
隊士松山義根を経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏はわたくしを介してこれを津下氏に贈与した。倉知氏はその薫子の自筆なることを信じてゐる。一説に薫子の書の正本は丹波国船井郡新荘村船枝の船枝神社の神職西田次郎と云ふ人が蔵してゐると云ふ。是は三宅武彦さんの語る所である。
薫子の書は既に印行せられたことがある。それは「開成学校御構内辻(新次)後藤(謙吉)両氏蔵版遠近新聞第五号、明治二年四月十日発兌」の冊中にある。新聞は尾佐竹氏が蔵してゐる。上に載する所は倉知本を底本とし、遠近新聞の謄本を以て対校した。二本には多少の出入がある。倉知本の自筆なることは稍疑はしい。
御牧基賢さんの云ふを聞くに、薫子は容貌が醜くかつたが、女丈夫であつた。昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講した事がある。又自分も薫子の講書を聴いた事がある。国事を言つたために謹慎を命ぜられ、伏見宮家職田中氏にあづけられた。後に失行があつたために士林の歯せざる所となり、須磨明石辺に屏居して歿したらしいと云ふことである。
薫子の詩歌は往々世間に伝はつてゐる。三宅武彦さんは短冊を蔵してゐる。大正四年六月明治記念博覧会が名古屋の万松寺に開かれた。其出品中に薫子の詩幅があつた。「幽居日日易凄涼。兀坐愁吟送夕陽。午枕清風知暑退。暁窓残雨覚更長。人間褒貶事千古。身世浮沈夢一場。設使幾回遭挫折。依然不変旧疎狂。早秋囚居。薫子。」印一顆があつて、文に「菅氏」と曰つてあつた。若江氏は菅原姓であつたと見える。是は倉知氏の写して寄せたものである。又薫子が「神州男子幾千万、歎慨有誰与我同」の句を書したのを看たと云ふ人がある。
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若江修理大夫の女薫子の事は、既に一たび上に補説したが、わたくしは其後本多辰次郎さんに由つて、修理大夫の名を量長と云ひ、曾て諸陵頭たりしことを聞いた。それゆゑ芝葛盛さんに乞うて此等の事を記してもらつた。下の文が即此である。
女子薫子の父若江量長は伏見宮家職の筆頭で、殿上人の家格のあつた人である。この若江氏はもと菅原氏で、その先は式部権大輔菅原公輔の男在公から出てゐる。初め壬生坊城と号し、後に中御門といひ、更に改めて若江と称した。在公より十代目に当る長近の時、初めて伏見宮に候することになつた。長近は寛文四年三月廿九日に生れ、享保五年七月九日五十七歳で卒した人である。量長は長近より五代目に当る公義の子で、文化九年十二月十三日誕生、文政八年三月廿八日十四歳を以て元服、越後権介に任じ、同日院昇殿を聴され、その後弾正少弼を経て修理大夫に至り、位は天保十三年十二月廿二日従四位上に叙せられたことまでは、地下家伝によつて知ることが出来る。更に又野宮定功の日記によるに、元治元年二月二十四日に諸陵寮再興の事が仰出されたがその時諸陵頭に任ぜられたものはこの量長であつた。併し量長は山陵の事に就て格別知識があつた訳ではないらしい。山陵の事に関しては専らその下僚たる大和介谷森種松と筑前守鈴鹿勝芸との両人に打ち委したやうである。さてその娘薫子については面白い事がある。薫子が女丈夫であつて、学和漢に亘り、とりわけ漢学を能くした所から、昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講したといふ事は御牧基賢さんの話にも見えて居るが、戸田忠至履歴といふものに次の如き記事がある。「皇后陛下御入輿の儀に付ては、維新前年より二条殿、中山殿等特の外心配致され、両卿より忠至に心懸御依頼に付奔走の折柄、兼て山陵の事に付懇意たりし若江修理大夫娘薫儀、一条殿姫君御姉妹へ和歌其外の御教授申上居事を心付き、同人へ皇后宮の御事相談に及び候処、一条殿御次女の方は特別の御方に渡らせられ候由薫申聞候に付、右の段二条、中山両卿へ内申に及び候処忠至参殿の上篤と御様子見上げ参るべき様にとの御内沙汰を蒙り、右薫と申談じ、同人同道一条殿へ参殿の上御姉妹へ拝謁、御次女の御方御様子復命に及びたり。此場合に二条殿には御嫌疑の為め御役御免に相成、御婚姻御用係を命ぜらる、万事御用向担当滞り無く御婚儀相済せられたり云々。」此によつて見れば、昭憲皇太后の御入内には、薫子の口入が与つて力があつたらしく見える。慶応三年六月昭憲皇太后の入内治定の事が発表せられ、次で御召抱上
、中
等の人選があつたが、その際この薫子にも改めて御稽古の為参殿の事を申付けられた。橋本実麗卿記是年八月九日の条に、「又若江修理大夫妹年来学問有志、於今天晴宏才之聞有之候間、女御為御稽古参上可然哉否、於左大将殿可宜御沙汰に付被談由、於予可然存候間其旨申答了」と見えて居るが、一条家の書類御入用御用記を見ると、九月三日の条に、「伏見宮御使則賢出会之処、過日御相談被進候若江修理大夫女お文女御様御素読御頼に被召候而も御差支無之旨御返答也」とあつて、その十日には、「女御御方、此御方御同居中御本御講釈之儀、お文殿に御依頼被成度候事」と見えて、十五日には御稽古の為局口御玄関より参殿、孝経を御教授申上げたことが見えて居る。是は蓋し女御御治定に付き改めてこの御沙汰があつたもので、この時初めて御稽古申上げたものではあるまい。但し実麗卿記に修理大夫の妹とせるは如何なる訳であらうか。又その名のお文といへるは薫子の前名であつたのであらうか。昭憲皇太后御入内後薫子の宮中に出入した事に就ては、その徴証を見出さない。恐くは国事に奔走した事などの為め、御召出しの運に行かなかつたものであらう。後失行があつて終をよくしなかつたのも惜しむべきである。上田景二君の昭憲皇太后史には、「皇太后御入内後も薫子は特別の御優遇を賜つたが、明治十四年に讃岐の丸亀において安らかに歿し、その遺蹟は今も尚残つてゐる」と書かれて居るが、その拠る処を明にしがたい。
私(芝氏)は量長が一時諸陵頭であつた関係から、其の寮官であつた故谷森種松(後に善臣)翁の次男建男さんに就いて何か見聞して居ることはないかを聞かうと試みた。(善臣翁は私の外祖父、建男さんは叔父に当るのである。)その言はるゝ所はかうである。京都の出水辺に若江の天神といふ小祠があつて、その側に若江氏は住んで居た。十歳位の時でもあつたか、或日父につれられて若江氏の宅を訪うた事があつた。その時量長の娘であるといふ二人の女子にも会つた。妹の方は普通の婦女で、髪もすべらかしにして公卿の娘らしい風をしてゐたが、姉の方は変つた女で、色も黒く、御化粧もせず、髪も無造作に一束につかねて居つた。男まさりの女で、頻に父に向つて論議を挑んで居つたことを記憶する。父もかういふ女には辟易すると云つてゐた。これが即ち薫子であつただらう。後に不行跡のあつた事も聞いてゐるが、何分家の生計も豊かでなかつたから、誘惑を受けたについては、むしろ同情に値するものがあつたであらう。讃岐辺で死んだ事も事実であらうが、普通の死ではなかつたかと思ふ。自分はこの婦人が量長の妹であつたとは思はない。娘として引きあはされたやうに記憶するといふことであつた。
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