父四郎左衛門は明治三年十月十日に斬られたと云ふことである。官辺への遠慮があるので、墓は立てずにしまつた。私には香花を手向くべき父の墓と云ふものが無いのである。私は今は記えてゐぬが、父の訃音が聞えた時、私はどうして死んだのかと尋ねたさうである。母が私に斬られて死んだと答へた。私は斬られたなら敵があらう、其敵は私がかうして討つと云つて、庭に飛び降りて、木刀で山梔の枝を敲き折つた。母はそれに驚いて、其後は私の聴く所で父の噂をしなくなつたさうである。
父が亡くなつてから、祖父は力を落して、田畑を預けた小作人の監督をもしなくなつた。収穫は次第に耗つて、家が貧しくなつて、跡には母と私とが殆ど無財産の寡婦孤児として残つた。啻に寡婦孤児だといふのみではない。私共は刑余の人の妻子である。日蔭ものである。
母は私を養育し、又段々と成長する私を学校へ遣るために、身を粉に砕くやうな苦労をした。
私は母のお蔭で、東京大学に籍を置くまでになつたが、種々の障礙のために半途で退学した。私は今其障礙を数へて、めめしい分疏をしたくは無い。しかし只一つ言ひたいのは、私が幼い時から、刑死した父の冤を雪がうと思ふ熱烈な情に駆られて、専念に学問を研究することが出来なかつたといふ事実である。
人は或は云ふかも知れない。学問を勉強して、名を成し家を興すのが、即ち父の冤を雪ぐ所以ではないかといふかも知れない。しかしそれは理窟である。私は亡父のために日夜憂悶して、学問に思を潜めることが出来なかつた。燃えるやうな私の情を押し鎮めるには冷かな理性の力が余りに微弱であつた。
父は人を殺した。それは悪事である。しかし其の殺された人が悪人であつたら、又末代まで悪人と認められる人であつたら、殺したのが当然の事になるだらう。生憎其の殺された人は悪人ではなかつた。今から顧みて、それを悪人だといふ人は無い。そんなら父は善人を殺したのか。否、父は自ら認めて悪人となした人を殺したのである。それは父が一人さう認めたのでは無い。当時の世間が一般に悪人だと認めたのだといつても好い。善悪の標準は時と所とに従つて変化する。当時の父は当時の悪人を殺したのだ。其父がなぜ刑死しなくてはならなかつたか。其父の妻子がなぜ日蔭ものにならなくてはならぬか。かう云ふ取留のない、tautologie に類し、circulus vitiosus に類した思想の連鎖が、蜘蛛の糸のやうに私の精神に絡み附いて、私の読みさした巻を閉ぢさせ、書き掛けた筆を抛たせたのである。
私は学問を廃してから、下級の官公吏の間に伍して、母子の口を糊するだけの俸給を得た。それからは私の執る職務が、器械的の精神上労作に限られたので、私は父の冤を雪ぐと云ふことに、全力を用ゐようとした。しかしそれは譬へやうのない困難な事であつた。
私は先づ父の行状を出来るだけ精しく知らうとした。それは父が善良な人であつたと云ふことを、私は固く信じてゐるので、父の行状が精しく知れれば知れる程、父の名誉を大きくすることになると思つたからである。私は休暇を得る毎に旅行して、父の足跡を印した土地を悉く踏破した。私は父を知つてゐた人、又は父の事を聞いたことのある人があると、遠近を問はず訪問して話を聞いた。しかし父が亡くなつてから、もう五十年立つてゐる。山河は依然として在つても、旧道が絶え、新道が開け、田畑が変じて邸宅市街になつてゐる。人も亦さうである。父を知つてゐた人は勿論、父の事を聞いたことのある人は絶無僅有で、其の僅に存してゐる人も、記憶のおぼろげになり、耳の遠くなつたのをかこつばかりである。
私の前に話したのは、此の如くにして集めた片々たる事実を、任意に湊合したものである。伝へ誤りもあらう、聞き誤りもあらう。又識らず知らずの間に、私の想像力が威を逞うして、無中に有を生じた処も無いには限らない。しかし大体の上から、私はかう云ふことが出来ると信ずる。私の予想は私を欺かなかつた。私の予想は成心ではなかつた。私の父は善人である。気節を重んじた人である。勤王家である。愛国者である。生命財産より貴きものを有してゐた入である。理想家である。
私はかう信ずると共に、聊自ら慰めた。然しながら其反面に於いて、私は父が時勢を洞察することの出来ぬ昧者であつた、愚であつたと云ふことをも認めずにはゐられない。父の天分の不足を惜み、父を啓発してくれる人のなかつたのを歎かずにはゐられない。これが私の断案である。父の伝記に添へる論讃である。
私は父の上を私に語つてくれた人々に、ここに感謝する。主な一人は未亡人海間の刀自である。婦人の持前として、繊小な神経が微細な刺戟に感応して、人の記憶してゐぬことを記憶してゐてくれたので、私は未亡人に、父の経歴中の幾多の details を提供して貰つた。今一人は父を流離瑣尾の間に認識して、久しく家に蔵匿せしめて置いた三宅氏の後たる武彦君である。私は次に父を弁護してくれた二人の名を挙げる。丹羽寛夫君と鈴木無隠君とである。丹羽君は備前の重臣で、三千石取つてゐた人である。それがかう云つた。四郎左衛門を昧者だと云つて責めるのは酷である。当時の日本は鎖国で、備前は又鎖国中の鎖国であつた。岡山の人は足を藩の領域の外に踏み出すことが出来なかつた。青年共は女が恋しくなると、岡山の西一里ばかりの宮内へ往つた。しかし人に無礼をせられても咎めることが出来なかつた。咎めると、自分が備中界に入つたことが露顕するからである。其青年共に世界の大勢に通じてゐなかつたのを責めるのは無理である。己も京都にゐた時、或る人を刺さうとしたことがある。しかし事に阻げられて果さずに岡山に帰つた。そのうち比較的に身分が好いので、少属に採用せられた。それから当路者と交際して、やう/\外国の事情を聞いた。己は智者を以て自ら居るわけではないが、己と四郎左衛門との間には軒輊する所は無い筈だと云つた。鈴木君は内外典に通じた学者で、荒尾精君等と国事を謀つてゐた人である。それが私にかう云ふ伝言をした。己は四郎左衛門を知つて居た。四郎左衛門は昧者ではなかつた。横井を刺したには相応の理由があると云ふのであつた。しかし私の面会せぬうちに、鈴木君は亡くなつた。どんな説を持つてゐたか知らぬが、残惜しいやうな気がする。
私は父の事蹟を探つただけで満足したのではない。顔に塗られた泥を洗ふやうに、積極的に父の冤を雪ぎたいと云ふのが、私の幼い時からの欲望である。幼い時にはかう思つた。父は天子様のために働いた。それを人が殺した。私は其の殺した人を殺さなくてはならぬと思つた。稍成長してから、私は父を殺したのは人ではない、法律だと云ふことを知つた。其時私はねらつてゐた的を失つたやうに思つた。自分の生活が無意味になつたやうに思つた。私は此発見が長い月日の間私を苦めたことを記憶してゐる。
私は此内面の争闘を閲した後に、暫くは惘然としてゐたが、思量の均衡がやうやう恢復せられると共に、従来回抱してゐた雪冤の積極手段が、全く面目を改めて意識に上つて来た。私はどうにかして亡き父を朝廷の恩典に浴させたいと思ひ立つた。父は王政復古の時に当つて、人に先んじて起つて王事に勤めたのである。其の人を殺したのは、政治上の意見が相容れなかつたためである。殺されたものは政争の犠牲である。さうして見れば、時代が既に推移した今、恩讎両つながら滅した今になつて、枯骨が朝恩に沾つたとて、何の不可なることがあらうぞ。私はかう思つて同郷の先輩に謀り、当路の大官に愬へた。それは私が学問を廃することになつた後の事である。
明治十九年から二十年に掛けて、津下四郎左衛門に贈位する可否と云ふことは、一時其筋の問題になつてゐたさうである。しかし結局、特赦を蒙らずして刑死したものに、贈位を奏請することは出来ぬと云ふことになつた。私は落胆して、再び自分の生活が無意味になつたやうに思つた。尤も此時の苦悶は、昔復讎の対象物を失つた時に比べて、余程軽く又短かつた。私が老成人になつてゐたためかも知れぬが或は私の神経が鈍くなつたためだとも思へば思はれる。
私はもうあきらめた。譲歩に譲歩を重ねて、次第に小さくなつた私の望は、今では只此話を誰かに書いて貰つて、後世に残したいと云ふ位のものである。
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聞書はここに終る。文中に「私」と云つてあるのは、津下四郎左衛門正義の子で、名を鹿太と云つた人である。それだけの事は既に文中に見えてゐる。それのみでは無い。読者は、鹿太がどんな性質の人で、どんな境遇にゐて、どんな閲歴を有してゐると云ふことも、おほよそは窺ふことが出来たであらう。
私は此聞書の
diteur として、多くの事を書き添へる必要を感ぜない。只これが私の手で公にせられることになつた来歴を言つて置きたい。私は既に大学を出て、父の許にゐて、弟篤次郎がまだ大学にゐた時の事である。私は篤次郎に、「どうだ、学生仲間にえらい人があるか」と云つた。弟はすぐに二人の同級生の名を挙げた。一人はKと云つて、豪放な人物、今一人は津下正高といつて、狷介な人物だといふことであつた。弟は後に才子を理想とするやうになつたが、当時はまだ豪傑を理想としてゐたのである。Kも津下君も弟が私に紹介した。Kは力士のやうに肥満した男で、柔術が好であつた。気の毒な事には、酒興に任せて強盗にまぎらはしい事をして、学生の籍を削られた。津下君は即鹿太で、此聞書の auteur である。
津下君は色の蒼白い細面の青年で、いつも眉根に皺を寄せてゐた。私は君の一家の否運が Kain のしるしのやうに、君の相貌の上に見はれてゐたかと思ふ。君は寡言の人で、私も当時余り饒舌らなかつたので、此会見は殆ど睨合を以て終つたらしい。しかしそれから後三十年の今に至るまで、津下君は私に通信することを怠らない。私が不精で返事をせぬのを、君は意に介せない。津下君は私に面会してから、間もなく大学を去つて、所々に流寓した。其手紙は北海道から来たこともある。朝鮮から来たこともある。兎に角私は始終君を視野の外に失はずにゐた。
大正二年十月十三日に、津下君は突然私の家を尋ねて、父四郎左衛門の事を話した。聞書は話の殆其儘である。君は私に書き直させようとしたが、私は君の肺腑から流れ出た語の権威を尊重して、殆其儘これを公にする。只物語の時と所とに就いて、杉孫七郎、青木梅三郎、中岡黙、徳富猪一郎、志水小一郎、山辺丈夫の諸君に質して、二三の補正を加へただけである。津下君は久しく見ぬ間に、体格の巌畳な、顔色の晴々した人になつてゐて、昔の憂愁の影はもう痕だになかつた。私は「書後」の筆を投ずるに臨んで敬んで君の健康を祝する。
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上の中央公論に載せた初稿は媒となつて、わたくしに数多の人を識らしめた。中には当時四郎左衛門と親善であつた人さへある。此等の人々の談話、書牘、その所蔵の文書等に由つて、わたくしは上の一篇の中なる人名等に多少の改刪を加へた。比較的正確だと認めたものを取つたのである。わたくしは猶下の数事を知ることを得た。
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