ネルラ婆あさんが
背の低い、太つたプツゼル婆あさんは云つた。「皆さん、今晩は。ではもうぢきにグルデンフイツシユで洗礼の御馳走がありますのですね。ねえ、リイケさん、これがはじめてのですね。ネルラさんはコオフイイを一杯煮てさへ下されば好いのですよ。それからわたしに
若い男がリイケに言つた。「わたしは頼まれてプツゼルをばさんを連れて来て上げたのです。ドルフさんを途中で友達が留めて、連れて往つたものですから。なんでもあなたの苦しがつてお出のを、ドルフさんが見るのは好くないから、一杯呑ませて元気を附けて上げると云ふことでした。」
「あゝ。さうですか。皆さん御親切ですわねえ。わたくしもあの人が傍にゐて下さらない方が却つて元気が出ますの。」リイケはかう返事をした。
トビアスは焼酎を一杯注いでルカスの前に出した。「さあ、これを呑んでおくれ。呑んでしまふと、風を
ルカスは杯を二口に乾した。最初の一口を呑む時には、「皆さんの御健康を祝します」と云つた。二口目には黙つてゐたが、心の中でかう思つた。「これはドルフの健康を祝して呑まう。だがそれは命を取られないでゐた上の事だて。」呑んでしまつて、ルカスは「難有う、さやうなら」と云ひ棄てて帰つた。
ルカスが帰つた跡で、炉の上で湯が歌を歌ひ出した。そして部屋一ぱいにコオフイイの好い匂がして来た。ネルラ婆あさんがコオフイイの臼を膝頭の間に挾んで、黒いコオフイイ豆を磨りつぶしてゐるからである。
プツゼル婆あさんは黒い大外套の襟に附いてゐる、真鍮のホオクを
婆あさんはそんな時往つてリイケの頬つぺたを指で敲いて遣つて、こんな事を言ふ。「しつかりしてお出よ。自分の生んだ子が産声を立てるのを聞くと云ふものは、どの位嬉しいものだか、お前さんまだ知らないのだ。天国へ往くと、ワニイユの這入つた、
トビアスはいつも寝台にする、長持のやうな大箱を壁の傍に押し遣つて、自分の敷く海草を詰めた布団を二枚其上に敷いた。海草の香が部屋の内に漲つた。ネルラが其上に粗末な麻布の、雪のやうに白いのをひろげて、襞の少しもないやうに、丁寧に手の平で撫でた。オランダの鳥の毛布団のやうに軟く、敷心地を好くしようと思ふのである。
夜なか近くなつた時、プツゼル婆あさんが編物を片附けて、目金を
そのうちリイケが両手の指を組み合せて、叫び出した。「プツゼルをばさん。どうかして下さい。」
「それはね、をばさんもどうもして上げることは出来ません。我慢してゐなさらなくては。」プツゼル婆あさんはかう云つた。
トビアスが傍で云つた。「もう夜なかだ。料理屋にゐる人達も内へ帰る時だ。」
リイケは繰り返して云つた。「あゝ。ドルフさん。なぜまだ帰つて下さらないのだらう。」
ネルラがリイケを慰める積で云つた。「
併しドルフは容易に帰らない。
夜なかを二時過ぎた時、リイケはひどく苦しくなつたので横になつた。プツゼル婆あさんは椅子を寝台になつてゐる大箱の傍へずらせた。ネルラは祈祷をしようと思つて、珠数を取り出した。それから又二時間
「あゝ。ドルフさん。わたし死にさうなのに、どこにお出なさるのでせう。あゝ。」
トビアスは折々舟の梯を登つて、ドルフが帰つて来はせぬかと見張つてゐる。それにドルフは帰らない。もうこのグルデンフイツシユの窓の
その時舟の中で赤子の泣声が聞えた。丁度
「リイケ。リイケ。」遠くからかう呼ぶのが聞えた。桟橋からブリツジへ、ブリツジから小部屋へと駆け込むのは誰だらう。別人ではない。ドルフである。うつら/\してゐたリイケが目をあいて見ると、ドルフは床の前に跪いてゐた。
トビアスは帽子を虚空に投げ上げた。ネルラは赤ん坊の口をくすぐつてゐる。プツゼル婆あさんは膝の上に載せてゐた赤ん坊をよく襁褓にくるんで、そつとドルフの手にわたした。ドルフはこは/″\赤ん坊に二三度接吻した。
ドルフは「リイケ」と呼び掛けた。リイケは両手でドルフの頭を持つて微笑んだ。そして寐入つて、明るくなるまで醒めなかつた。ドルフも跪いた儘、頭をリイケが枕の傍に押し附けて朝までゐた。二人の心臓の鼓動が
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或る朝ドルフが町へ往つた。
葬式の鐘が力一ぱいの響をさせてゐる。其音が丁度難船者の頭の上を鴎が啼いて通るやうに、空気を裂いて聞えわたる。
長い行列が寺の門の中に隠れた。寡婦の目の涙のやうに、黒布で包んだ
寺の石段にしやがんでゐる女乞食にドルフが問うた。「町で誰が死んだのかね。」
「お立派なお内の息子さんです。お金持の息子さんです。ジヤツク・カルナワツシユと仰やいます。どうぞお冥加に一銭戴かせて下さいまし。」
ドルフは帽を脱いで寺に這入つた。そして円柱を楯にして、銀の釘を打つた柩の黒いキヤタフアルクの下に隠れるのを見送つた。
「主よ。御身の意志の儘なれ。わたくしがあの男に免したやうに、御身もあの男に免し給へ。」
会葬者が手向の行列を作つた。ドルフは一人の歌童の手から、燃えてゐる蝋燭を受け取つて、人々の
「主よ。どうぞわたくしにもお
祈祷してしまつてドルフは寺を出た。そして心のうちに思つた。「もうこれで世の中に、あのリイケの生んだ子を己の子でないと云ふことの出来るものは、一人もなくなつた。」
河岸の方から「おい、ドルフ」と呼ぶ声がした。見ればジヤツクを救ひに河に這入つたのを見てゐた仲間達である。皆気の荒い男ではあるが、ドルフが水に潜つた時は、胸が女の胸のやうに跳つた。そしてドルフが無事で
ドルフは笑つた。「いや。己は又こなひだの晩に生れたリイケの赤ん坊の健康を祝して、お主達と一杯飲まずには、どうしても死ぬることが出来ないのだ。」