テルモンド市の
傍を流れるエスコオ河に、幾つも繋いである舟の中に、ヘンドリツク・シツペの持舟で、グルデンフイツシユと云ふのがある。舳に
金色に光つてゐる
魚の
標識が附いてゐるからの名である。シツペの持舟にこれ程の舟が無いばかりでは無い、テルモンド市のあらゆる舟の中でも、これ程立派で丈夫な舟は無い。この大きい、茶色の腹に、穀物や材木や藁や食料を一ぱい積んで、漆塗の黒い煙突から渦巻いた煙を帽の上の鳥毛のやうに立たせて走るのを見ると、誰でも目を悦ばせずにはゐられない。
今宵は外の舟と同じやうに、グルデンフイツシユも休んでゐる。太い綱で繋がれてゐる。午後七時には、もう舟の中が暗くなつたが、横腹に開いてゐる円い窓からは、魚の目のやうに光る
燈がさす。これはブリツジの下の小部屋で、これから聖ニコラウスを祭らうとしてゐるからである。壁に取り附けてある真鍮の燭台には、二本の
魚蝋が燃えてゐる。鉄の炉は河水が堰を衝いて出る時のやうな音を立ててゐる。
ネルラ婆あさんが戸を開けて這入つて来た。其跡から亭主のトビアス・イエツフエルスが這入つた。これが持主シツペから舟を預けられてゐる爺いさんである。
部屋の中から若々しい女の声がした。「おつ母さん。わたしあの黒い
川面に舟の窓の明りが一つ一つ殖えるのを見てゐますの。」
「さうかい。だがね、お前、窓に明りが附くのを、そんなにして長い間見てゐるのではないだらう。ドルフが帰るのを待つてゐるのだらう。」
「おつ母さん好く
中りますことね。」かう云つて若い女は窓の下から炉の傍へ歩み寄つて、腰を卸しながら、持つてゐた小さい鍼を帽子に插した。
「それは、お前、おつ母さんでなくつて、誰が御亭主の事を思つてゐる若いお上さんの胸が分かるものかね。」
かう云ひながら、婆あさんは炉の蓋を開けて、鍋を掛けた。炉はそれが嬉しいと見えて、ゆうべ市長さんの
代替の祝に打つた大砲のやうな音をさせてゐる。それから婆あさんは指を
唾で濡らして、蝋燭の心を切つた。
部屋は小さい。
穹窿の形になつた天井と、桶の胴のやうに木を並べて拵へた壁とを見れば、部屋は半分に割つた桶のやうだと云つても好い。壁はどこも
児に包まれて、殊に炉に近い処は黒檀のやうに光つてゐる。卓が一つ、椅子が二つある。
寝台の代りになる長持のやうな行李がある。板を二枚
中為切にした白木の箱がある。箱に入れてあるのは男女の衣類で、どれも魚の臭がする。片隅には天井から網が
弔つてある。其の傍には
児に児を塗つた雨外套、
為事着、長靴、水を透さない鞣革の帽子、羊皮の大手袋などが弔つてある。マドンナの
画額の上の輪飾になつてゐるのは玉葱である。懸時計の下に掛けてあるのは、
腮を
貫き通した二十匹ばかりの
鯡で、腹が
銅色に光つてゐる。
この一切の
景物は皆黄いろい蝋燭の火で照し出されてゐる。大きい影を天井に
印してゐる蝋燭の火である。併しこんな物よりは若いよめのリイケの方が余程目を悦ばせる。広い肩、円い
項、丈夫な手、ふつくりして日に焼けた頬、
天鵝絨のやうに柔い目、きつと結んだ、薄くない唇、それに
背後で六遍巻いてある、濃い、黒い髪。どこを見ても目を悦ばせるには十分である。併し此女の表情は亭主のドルフが傍にゐる時と、ゐない時とで違ふ。ゐない時は、やさしく、はにかんでゐるかと思ふと、なぜと云ふこともなく度々陰気な物案じに陥いる。ドルフが出てさへ来れば、
情のある口の両脇に二本の
※[#「ころもへん+辟」、144-上-2]が出来て、上唇を上へ弔り上げる。そして水を離れて日に照された櫂のやうに光る白歯が見える。哀しい追憶を隠す、重い
帷が開くやうに、眉の間の皺が
展びる。水から引き上げた網の
所々に白魚が光つてゐるやうに、肌の隅々から、喜が赫き出す。そんな時には、リイケはドルフの目をぢつと見て、手を拍つて笑ふのである。
今の処では此女の両方の頬が、炉の隙間を漏る火の光で、干鮭の切身のやうに染まつてゐる。そして
手為事を見詰めてゐる、黒い目が灰の間から赫く炭火のやうに光つてゐる。併し光つてゐるのはそればかりでは無い。耳輪の金と約束の指輪の銀とも光るのである。
姑は折々気を附ける。「お前らくにしてお出かい。足が冷えはしないかい。」穿いてゐるのは、藁を内側に附けた
木沓である。
「おつ母さん。難有うよ。わたくしこれでお
妃様のやうな心持でゐますの。」
「なんだつて。あのお妃様のやうだつて。まあ、お待よ。今にわたしが林檎を入れたお菓子を焼いて食べさせて上げるからね。その時どんなにおいしいか、どんなに好い心持がするか、その時さう云つてお聞せ。おや。ドルフが桟橋を渡つて来るやうだよ。粉と、玉子と、牛乳とを買つて来てくれる筈なのだよ。」
がつしりした体の男が、此部屋の赤み掛かつた薄暗がりの中へ這入つて来た。物を打ち明けたやうな、
笑ましげな顔をしてゐる。頭は殆ど天井に届きさうである。「おつ母さん、唯今。」
男は帽子を部屋の隅に投げ遣つて、所々の隠しの中から、細心に注意して種々の物を取り出して、それを卓の上に並べてゐる。
やつと並べてしまふと、母が云つた。「ドルフや。牛乳を忘れやしないかと思つたが、矢つ張り忘れたね。」
ドルフは首を肩の間へ引つ込ませて、口を
開いて、
上下の歯の間から舌の尖を見せて、さも当惑したらしい様子をした。又桟橋を渡つて買ひに往かなくてはならぬかと云ふ当惑である。併しこれと同時に、ドルフはそつとリイケに目食はせをした。これは笑談だと云ふ知らせの目食はせである。
母はそれには気が附かずに、右の
拳で左の掌を打つて云つた。「ドルフや。牛乳なしではどうにもしようがないね。わたしが町まで往かなくてはなるまいね。ほんに、お前のやうな大男を子に持つてゐて、これでは。」
「まあ、お待なさいよ。今わたしがリイケの椅子の下から、魔法で牛乳を出したらどうでせう。おつ母さん、キスをして下さいますか。さあ、どうです。早く極めて下さい。一つ。二つ。」
母はよめに言つた。「どれ、立つて御覧。でないと、お前の御亭主にキスをして遣つて好いか、どうだか、分からないから。」
ドルフはリイケの椅子の下にしやがんだ。そして長い間何やら捜す真似をしてゐた。それからやつと手柄顔に牛乳の罐を取り出して、左の拳で腰の脇を押さへながら云つた。「さあ。誰がキスをして貰ふのです。えゝ、おつ母さん。」
母は云つた。「ドルフや、矢つ張りわたしよりリイケにキスをするが好いよ。蠅は蜜を好くものだからね。」
ドルフは
摩足をして、左の手で胸を押さへて、リイケに礼をした。これは上流の人の貴婦人にする礼の真似である。そして云つた。「もし。あなたのやうなお美しい方にキスをいたしても宜しうございませうか。」かう云つたかと思ふと、ドルフは女房の返事を待たずに、両腋に手を插し込んで、抱いて椅子から起たせた。そして
項にキスをした。
リイケはそれでは不承知と見えて、振り向いて唇と唇とを合せた。
ドルフは云つた。「ああ、旨かつた。ミルクで煮たお米のやうだつた。」
此時これまで黙つてゐた爺いさんのトビアスが婆あさんに言つた。「おい、己達も若い者の真似をしようぢやないか。己はこいつ等が中の好いのを見るのが嬉しくてならん。」
「えゝ/\、わたし達も丁度あの通りでしたわねえ。」
トビアスは婆あさんの頬にキスをした。婆あさんが返報に爺いさんにキスを二度して遣つた。丸で
真木を割るやうな音がしたのである。
ドルフが云つた。「リイケや。こつちとらもいつまでも中好くしようぜ。」
「わたしあなたと中が悪くなる程なら、死んでしまふわ。」
「さうか。己はお前より二つ年上だ。お前が十になつた時、己は十二だつたが、今思つて見れば、己はもうあの時からお前が好だつた。それは今とは心持は違ふが。」
「あら、それはよして下さいな。わたしとあなたとの識合になつたのは、五月からの事にして下さらなくては厭。それより前の事は、どうぞ言はないで下さいね。どうぞ五月より前の事は言はないとさう云つて頂戴ね。でないと、わたし恥かしくつて、あなたと中好くすることが出来ませんから。」かう云つて、リイケは夫の胸に縋つた。そのとたんにリイケが少し身を反らせたので、
産月になつた女だと云ふことが知れた。
「さあ/\これからお菓子を拵へるのだ。」婆あさんは先に立つて、ドルフの買つて来た物を
蒸鍋に入れて、杓子で掻き交ぜはじめた。袖を高くたくし上げて、茶色の腕を出して、甲斐々々しく交ぜるのである。交ぜてしまふと、蒸鍋を竈の傍に据ゑて、上に切れを掛けて置く。爺いさんは
焼鍋を出して、玉葱でこすつて、一寸火に掛けて温める。ドルフとリイケとは林檎を剥いて、心を
除けて輪切にしてゐる。
此の時婆あさんが今一つの蒸鍋を出して、水に、粉に、チミアンに、ロオレルと其中へ入れてゐたが、最後に何やらこつそり出して、人に隠すやうに入れて、急いで蓋をして、火に掛けた。
ドルフは何を入れたのか見えなかつたので、第二の蒸鍋の蓋が躍つて、茶色の蒸気が立ち出すや否や、鼻を鍋の方へ向けて、
胡桃が這入る程鼻の孔を大きくして嗅いでゐた。併しどうも分からなかつた。そのうち母親が蓋を取つて見さうにするので、ドルフは足を
翹てて
背後へ窺ひ寄つた。屈んだり、伸び上がつたり、わざと
可笑しい風をして近寄つたのである。リイケは横目でそれを見ながら、平手で口を押さへて、笑声を漏さぬやうにしてゐる。ドルフはやう/\母親の背後に来て、「わあつ」と声を出しながら、鍋を覗いた。併しネルラは息子の来るのを知つてゐたので、すぐに蓋をして、振り返つて腰を屈めて礼をした。
ドルフは笑つて云つた。「おつ母さん、駄目々々。わたしはちやあんと見ました。シツペの檀那のとこの古猫を掴まへて、魚蝋の蝋で煮てゐるのでせう。」
「さうだとも。今にあつちの焼鍋の方では、鼠を焼いて食べさせます。もうわたしに構はないで食事を拵へておくれ。」
ドルフはこそ/\部屋に附いてゐる板囲の中へ逃げ込んだ。そして糊の附いた上シヤツを
上衣の上へはおつて、シヤツの裾を振り廻しながら出て来た。母親はふいと振り向いて見て、腰に両手を支へて笑つてゐたが、目からは涙が出て来た。リイケは一しよに笑ひながら手を拍つた。親爺は独り笑はずにゐたが、つと立つて棚から皿を卸して、白シヤツで拭き出した。ネルラ婆あさんはとう/\椅子の上に腰を卸して、苦しくなるまで笑つた。
食事は出来た。水に映つた月のやうに皿が光る。錫のフオオクが本銀のやうに赫く。
婆あさんが最後に蓋を切つて味を見て、それから杓子を
令の杖のやうに
竪てて、「さあ、皆お掛、御馳走が始まるよ」といつた。
ドルフとリイケとは行李を引き寄せて腰を掛ける。爺いさんは自分が一つの椅子に掛けて、今一つのを傍へ引き寄せて、それにネルラを掛けさせる。
婆あさんが卓の上へ、秘密の第二の蒸鍋を運ぶ。白い蒸気がむら/\と立つて、日の当たる雪の消えるやうな音がする。
「シツペさんとこの猫です。わたしにはすぐ分かつた。」ドルフは母親が蓋をあける時かう云つた。
皆が皿を出す。婆あさんが盛る。ドルフは自分の皿を手元へ引いて、丁寧に嗅いで見て、突然
拳で卓を打つた。「や。リイケ、どうだい。すてきだ。臓物だぜ。」秘密は牛の心臓、肝臓、肺臓なんぞを
交煮にしたフランデレン料理であつた。
爺いさんが云つた。「王様は臓物を葡萄酒のソオスで召し上がるさうだが、ネルラが水で煮るとそれよりも旨い。」
食べてしまふと、婆あさんが立つて、焼鍋を竈に掛けて、真木をくべて火を掻き起して、第一の蒸鍋の上の切れを取つた。菓子種はふつくりと
溲起してゐる。すくつて杓子を持ち上げると、長く
縷を引く。それを焼鍋の上に落して、しゆうと云はせて焼くのである。
「早く皿をお出し」と云ふと、ドルフが出す。
金色をして、軟く脆い、出来立の菓子が皿に乗る。「先づお父うさんに」と云つて出すと、トビアスが「いや、リイケ食べろ」と云ふ。とう/\リイケが二つに割つて、ドルフと一切づつ食べた。次にトビアスの皿へは大きいのが乗る。トビアスは云つた。「桟橋から水に映つたお天道様を見るやうに光るぜ。」
菓子種は
小川のやうに焼鍋の上に流れる。バタが歌ふ。火がつぶやく。そして誰の皿の上にも釣り上げられた
魚のやうに、焼立の菓子が落ちて来る。婆あさんは出来損つたのを二つ取つて置いて、それを皿に載せて、爺いさんの傍に腰を卸して食べた。
ドルフが起つて、今日菓子屋が店に出してゐるやうな人形の形をした菓子を焼かうとする。最初に出来たのを、リイケの皿に取つて遣ると、まだ
熟く焼けてゐなかつたので、はじけて形がめちや/\になる。それから何遍も焼いて見るうちに、とう/\手足のある人形らしい物になつたので、林檎を顔にして、やつと満足した。
トビアスはドルフに言ひ附けて、部屋の隅の木屑の底から、オランダ土産の葡萄酒を出させて自分と倅との杯に注ぐ。二
人は
利酒の上手らしく首を掉つて味つて見る。
「リイケや。もう二年立つて此祭が来ると、あそこの烟突の附根の下に小さい木沓があるのだ。」かう云つたのはトビアスである。