塔は七角に出来てゐる。大時計も矢張七角になつてゐる。どの面にも針があつて、どこからでも時が見られるやうにしてある。太い、黒い針が広い白い板の面の上にある。市の評議員達は塔の番人を一人雇つて、大時計の番をさせてゐる。番人はその外にはなんの用事もない。だから市には色々の名誉職があるが、大時計の番人程結構な役人はゐない。用事は時計の番をする丈で、しかもその時計は丸で手が掛からない。市の記録に残つてゐる程の時代をどこまで溯つて見ても、大時計が時間を誤つたことはない。それが若しや時間を誤ることがあらうかなんぞと云ふことは、只それを思つたばかりでも
大時計と同じ事で、市中にある丈の置時計や懐中時計も決して時間を誤ることはない。世界中どこを尋ねても、このスピイスブルク程誰でも時間を好く知つてゐる所はない。大時計が、「正午だ」と云ふと、市民一同口を開けて、
一体名誉職を持つてゐる人は、誰だつて尊敬せられるに極まつてゐる。だから一番結構な名誉職を持つてゐる大時計の番人が尊敬せられることは論を待たない。番人は市の大役人である。菜園に飼つてある豚でさへ、此人を見るには目を
こゝまで己はスピイスブルク市の幸福な状態を話した。こんな結構な、泰平無事な都会に非常な災難が出来ようとは、実に誰も予期してゐなかつたのである。
余程前から市民中の有識者達が、諺のやうにかう云ふ事を言つてゐた。「岡の外からはろくな物は
丁度
正午前三分間だと云ふ時、丘陵の上に見えてゐた妙な物が、小男で、多分
好く見れば、此男は笑つてはゐるが、どうもその面附きが根性の悪い乱暴者らしく見える。それに市の方へ向いて駆けて来る足に穿いてゐる変な沓が、誰の目にも第一に怪しく見えるのである。それにあの黒服の隠しから出掛かつてゐる白いハンケチの
そのうち正午前三十秒程になつた。市民等が目を大きく開いて見ようとする
こんな怪しからん事をせられて、スピイスブルクの市民等が復讐をせずに見てゐる筈はないが、兎に角正午までにもう半秒時間しかないと云ふ重大な事件があるから、その外の事は考へられない。今に大時計が打たなくてはならない。それが打つ以上は、スピイスブルクの市民の為めには、てんでに懐中時計を出して時間を合せるより大切な事はない。驚いた事には、その職でもないのに、外道奴、丁度此時大時計をいぢくり始めた。併しもう大時計が打ち出すので、市民はその方に気を取られて外道奴が何をするやら、見てゐることが出来なかつた。
「一つ」と大時計が云つた。
「一つ」とスピイスブルク市民たる小さい、太つた爺いさん達が、
「二つ」と大時計が云つた。「二つ」と皆が繰り返した。
「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と大時計が云つた。
「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と皆が答へた。
「十一」と大時計が云つた。
「十一」と皆が合槌を打つた。
「十二」と大時計が云つた。
「十二」と皆が答へて、大満足の体で声の尻を下げた。
「十二時だ」と爺いさん達が云つて、てんでに懐中時計を隠しに入れた。
然るに大時計はまだこれでは
「やあ」と爺いさん達はうめくやうに云つて、鯉が水面に浮いて風を呑むやうな口附きをして、顔の色が蒼くなつて、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑つた。
「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
これから後に起つたスピイスブルク市の恐ろしい出来事を筆で書かうと思つても、それは不可能である。兎に角市を挙げて大騒乱の渦中に陥つたと云ふより外はない。
子供は異口同音に云つた。「おいらの時計はどうしたと云ふのだらう。おいらは一時間も前からお午が食べたくてならない。」
お神さん達は云つた。「まあ、わたしの鍋はどうしたと云ふのだらう。もう一時間も前から豚もキヤベツも煮えくり返つてゐる。」
爺いさん達は云つた。「己の煙管はどうしたと云ふのだらう。もう一時間も前に吸殻になつてゐなくちやならんのだ。」かう云つて爺いさん達は腹立たしげに煙管を詰め更へて、腕附の椅子に倚り掛かつて、忙がしげに煙を吹き出した。スピイスブルク市は忽ち煙草の煙に包まれて何も見えなくなつてしまつた。
その時市の菜園に作つてあるキヤベツの頭が、皆腹を立てたやうに真つ赤になつた。それから矢張外道奴の所作と見えて、家々の道具に為込んである時計や置時計が魔法で踊らせるやうに踊り出した。炉の上の棚にある時計も腹が立つて溜まらないと云ふ様子で、十三時を繰り返し繰り返し打ちながら、
それに塔の上にゐるいたづら者奴は却つてわざと此騒乱を大きくしようとしてゐるらしい。折々煙草の煙の隙間から仰向いて見ると、いたづら者は番人を仰向けに寝させて、その上に乗つて、大時計の上に吊つてある吊鐘の綱を口に銜へて、頭を右左に振りながら鐘を鳴らしてゐる。あの時の事を思ひ出すと、己は今でも耳が鳴る。いたづら者奴、鐘が鳴るばかりでは足りないと見えて、膝の上に大きなヰオリンを置いて、間拍子に構はず、「ねえ、テレザさん、降りてお出で」と云ふ歌の譜を弾いてゐる。
己はこんな怪しからん事を黙つて見てゐるに忍びないので、早速スピイスブルク市を逃げ出した。そこで天下の麦酒樽漬のキヤベツの好な人達に檄を飛ばして