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じいさんばあさん(じいさんばあさん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:38:54  点击:  切换到繁體中文

 文化六年の春が暮れて行く頃であった。麻布竜土町あざぶりゅうどちょうの、今歩兵第三聯隊れんたいの兵営になっている地所の南隣で、三河国奥殿みかわのくにおくとのの領主松平左七郎乗羨のりのぶと云う大名のやしきうちに、大工が這入はいって小さい明家あきやを修復している。近所のものが誰の住まいになるのだと云って聞けば、松平の家中のさむらいで、宮重久右衛門みやしげきゅうえもんと云う人が隠居所をこしらえるのだと云うことである。なる程宮重の家の離座敷と云っても好いような明家で、只台所だけが、小さいながらに、別に出来ていたのである。近所のものが、そんなら久右衛門さんが隠居しなさるのだろうかと云って聞けば、そうではないそうである。田舎いなかにいた久右衛門さんの兄きが出て来て這入るのだと云うことである。
 四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云うのに、果して見知らぬいさんが小さい荷物を持って、宮重方にいて、すぐに隠居所に這入った。久右衛門は胡麻塩頭ごましおあたまをしているのに、この爺いさんは髪が真白である。それでも腰などは少しも曲がっていない。結構なこしらえの両刀をした姿がなかなか立派である。どう見ても田舎者らしくはない。
 爺いさんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへあさんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さい丸髷まるまげっていて、爺いさんに負けぬように品格が好い。それまでは久右衛門方の勝手から膳を運んでいたのに、婆あさんが来て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするような工合に拵えることになった。
 この翁媼おうおん二人の中の好いことは無類である。近所のものは、しあれが若い男女であったら、どうも平気で見ていることが出来まいなどと云った。中には、あれは夫婦ではあるまい、兄妹きょうだいだろうと云うものもあった。その理由とする所を聞けば、あの二人は隔てのないうちに礼儀があって、夫婦にしては、少し遠慮をし過ぎているようだと云うのであった。
 二人は富裕とは見えない。しかし不自由はせぬらしく、又久右衛門に累を及ぼすような事もないらしい。ことに婆あさんの方は、跡から大分だいぶ荷物が来て、衣類なんぞは立派な物を持っているようである。荷物が来てから間もなく、誰が言い出したか、あの婆あさんは御殿女中をしたものだと云ううわさが、近所に広まった。
 二人の生活はいかにも隠居らしい、気楽な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉うちこを打ってく。たいめて木刀をる。婆あさんは例のまま事の真似をして、そのすきには爺いさんのそばに来て団扇うちわであおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんがしばらくあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである。
 どうかすると二人で朝早くから出掛けることがある。最初に出て行った跡で、久右衛門の女房が近所のものに話したと云うことばが偶然伝えられた。「あれは菩提所ぼだいしょ松泉寺しょうせんじへ往きなすったのでございます。息子さんが生きていなさると、今年三十九になりなさるのだから、立派な男盛と云うものでございますのに」と云ったと云うのである。松泉寺と云うのは、今の青山御所あおやまごしょ向裏むこううらに当る、赤坂黒鍬谷くろくわだにの寺である。これを聞いて近所のものは、二人が出歩くのは、最初のその日に限らず、過ぎ去った昔の夢のあと辿たどるのであろうと察した。
 とかくするうちに夏が過ぎ秋が過ぎた。もう物珍らしげに爺いさん婆あさんの噂をするものもなくなった。所が、もう年が押し詰まって十二月二十八日となって、きのうの大雪の跡の道を、江戸城へ往反おうへんする、歳暮拝賀の大小名諸役人織るが如き最中に、宮重の隠居所にいる婆あさんが、今お城から下がったばかりの、邸の主人松平左七郎に広間へ呼び出されて、将軍徳川家斉いえなりの命を伝えられた。「永年遠国えんごく罷在候夫まかりありそろおっとため、貞節を尽候趣聞召つくしそろおもむききこしめされ、厚き思召おぼしめしもっ褒美ほうびとして銀十枚下し置かる」と云う口上であった。
 今年の暮には、西丸にいた大納言家慶いえよし有栖川職仁親王ありすがわよしひとしんのう女楽宮じょらくみやとの婚儀などがあったので、頂戴物ちょうだいものをする人数にんずが例年よりも多かったが、宮重の隠居所の婆あさんに銀十枚を下さったのだけは、異数いすうとして世間に評判せられた。
 これがために宮重の隠居所の翁媼二人は、一時江戸に名高くなった。爺いさんは元大番石川阿波守総恒組美濃部伊織いしかわあわのかみふさつねくみみのべいおりと云って、宮重久右衛門の実兄である。婆あさんは伊織の妻るんと云って、外桜田そとさくらだの黒田家の奥に仕えて表使格おもてづかいかくになっていた女中である。るんが褒美を貰った時、夫伊織は七十二歳、るん自身は七十一歳であった。

     ――――――――――――――――

 明和三年に大番頭おおばんがしらになった石川阿波守総恒の組に、美濃部伊織と云うさむらいがあった。剣術は儕輩せいはいを抜いていて、手跡も好く和歌のたしなみもあった。石川の邸は水道橋外で、今白山はくさんから来る電車が、お茶の水を降りて来る電車と行き逢うあたり角屋敷かどやしきになっていた。しかし伊織は番町ばんちょうに住んでいたので、上役とは詰所で落ち合うのみであった。
 石川が大番頭になった年の翌年の春、伊織の叔母婿おばむこで、やはり大番を勤めている山中藤右衛門と云うのが、丁度三十歳になる伊織に妻を世話をした。それは山中の妻の親戚しんせきに、戸田淡路守氏之あわじのかみうじゆきの家来有竹某ありたけぼうと云うものがあって、その有竹のよめの姉を世話したのである。
 なぜ妹が先によめにって、姉が残っていたかと云うと、それは姉が邸奉公をしていたからである。もと二人の女は安房国朝夷郡真門村あわのくにあさいごおりまかどむらで由緒のある内木四郎右衛門うちきしろえもんと云うものの娘で、姉のるんは宝暦ほうれき二年十四歳で、市ヶ谷門外の尾張中納言宗勝おわりちゅうなごんむねかつの奥の軽い召使になった。それから宝暦十一年尾州家びしゅうけでは代替だいがわりがあって、宗睦むねちかの世になったが、るんは続いて奉公していて、とうとう明和三年まで十四年間勤めた。その留守に妹は戸田の家来有竹の息子の妻になって、外桜田の邸へ来たのである。
 尾州家から下がったるんは二十九歳で、二十四歳になる妹の所へ手助てだすけに入り込んで、なるべくお旗本のうちで相応な家へよめに往きたいと云っていた。それを山中が聞いて、伊織に世話をしようと云うと、有竹では喜んで親元になって嫁入をさせることにした。そこで房州ぼうしゅううまれの内木うじのるんは有竹氏をおかして、外桜田の戸田邸から番町の美濃部方へよめに来たのである。
 るんは美人と云うたちの女ではない。し床の間の置物のような物を美人としたら、るんは調法に出来た器具のような物であろう。体格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻へ抜けるように賢く、いつでもぼんやりして手を明けていると云うことがない。顔も觀骨かんこつやや出張っているのがきずであるが、まゆや目の間に才気があふれて見える。伊織は武芸が出来、学問の嗜もあって、色の白い美男である。只この人には肝癪持かんしゃくもちと云う病があるだけである。さて二人が夫婦になったところが、るんはひどく夫を好いて、手に据えるように大切にし、七十八歳になる夫の祖母にも、血を分けたものも及ばぬ程やさしくするので、伊織は好い女房を持ったと思って満足した。それで不断の肝癪は全くあとおさめて、何事をも勘弁するようになっていた。
 翌年は明和五年で伊織の弟宮重はまだ七五郎と云っていたが、主家しゅうけのその時の当主松平石見守乗穏いわみのかみのりやすが大番頭になったので、自分も同時に大番組にった。これで伊織、七五郎の兄弟は同じ勤をすることになったのである。
 この大番と云う役には、京都二条の城と大坂の城とに交代して詰めることがある。伊織が妻をめとってから四年立って、明和八年に松平石見守が二条在番の事になった。そこで宮重七五郎が上京しなくてはならぬのに病気であった。当時は代人差立だいにんさしたてと云うことが出来たので、伊織が七五郎の代人として石見守に附いて上京することになった。伊織は、丁度妊娠にんしんして臨月になっているるんを江戸に残して、明和八年四月に京都へ立った。

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