家康はこれを聞いて、しばらく考えて言った。「そちが話を聞けば、甚五郎の申し分や所行も一応道理らしく聞こえるが、所詮は間違うておるぞよ。しかしそちも言うとおり、弱年の者じゃから、何かひとかどの奉公をいたしたら、それをしおに助命いたしてつかわそう」
「はっ」と言って源太夫はしばらく畳に顔を押し当てていた。ややあって涙ぐんだ目をあげて家康を見て、「甚五郎めにいたさせまする御奉公は」と問うた。
「甚五郎は怜悧な若者で、武芸にも長けているそうな。手に合うなら、甘利を討たせい」こう言い放ったまま、家康は座を起った。
望月の夜である。甲斐の武田勝頼が甘利四郎三郎を城番に籠めた遠江国榛原郡小山の城で、月見の宴が催されている。大兵肥満の甘利は大盃を続けざまに干して、若侍どもにさまざまの芸をさせている。
「三河の水の勢いも
小山が堰けばつい折れる。
凄じいのは音ばかり」
こんな歌を歌って一座はどよめく。そのうち夜がふけたので、甘利は大勢に暇をやって、あとには新参の若衆一人を留めておいた。
「ああ。騒がしい奴らであったぞ。月のおもしろさはこれからじゃ。また笛でも吹いて聞かせい」こう言って、甘利は若衆の膝を枕にして横になった。
若衆は笛を吹く。いつも不意に所望せられるので、身を放さずに持っている笛である。夜はしだいにふけて行く。燃え下がった蝋燭の長く延びた心が、上の端は白くなり、その下は朱色になって、氷柱のように垂れた蝋が下にはうずたかく盛り上がっている。澄み切った月が、暗く濁った燭の火に打ち勝って、座敷はいちめんに青みがかった光りを浴びている。どこか近くで鳴く蟋蟀の声が、笛の音にまじって聞こえる。甘利は瞼が重くなった。
たちまち笛の音がとぎれた。「申し。お寒うはござりませぬか」笛を置いた若衆の左の手が、仰向けになっている甘利の左の胸を軽く押えた。ちょうど浅葱色の袷に紋の染め抜いてある辺である。
甘利は夢現の境に、くつろいだ襟を直してくれるのだなと思った。それと同時に氷のように冷たい物が、たった今平手がさわったと思うところから、胸の底深く染み込んだ。何とも知れぬ温い物が逆に胸から咽へのぼった。甘利は気が遠くなった。
三河勢の手に余った甘利をたやすく討ち果たして、髻をしるしに切り取った甚五郎は、鼠のように身軽に、小山城を脱けて出て、従兄源太夫が浜松の邸に帰った。家康は約束どおり甚五郎を召し出したが、目見えの時一言も甘利の事を言わなんだ。蜂谷の一族は甚五郎の帰参を快くは思わぬが、大殿の思召しをかれこれ言うことはできなかった。
甘利は死んでも小山の城はまだ落ちずにいた。そのうち世間には種々の事があった。先に武田信玄が死んでから七年目に、上杉謙信が死んだ。三十六歳で右近衛権少将にせられた家康の一門はますます栄えて、嫡子二郎三郎信康が二十一歳になり、二男於義丸(秀康)が五歳になった時、世にいう築山殿事件が起こって、信康はむざんにも信長の嫌疑のために生害した。後に将軍職を承け継いだ三男長丸(秀忠)はちょうどこの年に生まれ、四男福松丸(忠吉)はその翌年に生まれた。それから中一年置いて、家康が多年目の上の瘤のように思った小山の城が落ちたが、それはもう勝頼の滅びる悲壮劇の序幕であった。
武田の滅びた天正十年ほど、徳川家の運命の秤が乱高下した年はあるまい。明智光秀が不意に起って信長を討ち取る。羽柴秀吉が毛利家と和睦して弔合戦に取って返す。旅中の家康は茶屋四郎次郎の金と本多平八郎の鑓との力をかりて、わずかに免れて岡崎へ帰った。さて軍勢を催促して鳴海まで出ると、秀吉の使が来て、光秀の死を告げた。
家康が武田の旧臣を身方に招き寄せている最中に、小田原の北条新九郎氏直が甲斐の一揆をかたらって攻めて来た。家康は古府まで出張って、八千足らずの勢をもって北条の五万の兵と対陣した。この時佐橋甚五郎は若武者仲間の水野藤十郎勝成といっしょに若御子で働いて手を負った。年の暮れに軍功のあった侍に加増があって、甚五郎もその数に漏れなんだが、藤十郎と甚五郎との二人には賞美のことばがなかった。
天正十一年になって、遠からず小田原へ二女督姫君の輿入れがあるために、浜松の館の忙がしい中で、大阪に遷った羽柴家へ祝いの使が行くことになった。近習の甚五郎がお居間の次で聞いていると、石川与七郎数正が御前に出て、大阪への使を承っている。
「誰か心の利いた若い者を連れてまいれ」と家康が言う。
「さようなら佐橋でも」と石川が言う。
やや久しい間家康の声が聞こえない。甚五郎はどうした事かと思っていると、やっと家康の声がする。「あれは手放しては使いとうない。この頃身方についた甲州方の者に聞けば、甘利はあれをわが子のように可哀がっておったげな。それにむごい奴が寝首を掻きおった」
甚五郎はこのことばを聞いて、ふんと鼻から息をもらして軽くうなずいた。そしてつと座を起って退出したが、かねて同居していた源太夫の邸へも立ち寄らずに、それきり行方が知れなくなった。源太夫が家内の者の話に、甚五郎はふだん小判百両を入れた胴巻を肌に着けていたそうである。
天正十一年に浜松を立ち退いた甚五郎が、はたして慶長十二年に朝鮮から喬僉知と名のって来たか。それともそう見えたのは家康の僻目であったか。確かな事は誰にもわからなんだ。佐橋家のものは人に問われても、いっこう知らぬと言い張った。しかし佐橋家で、根が人形のように育った人参の上品を、非常に多く貯えていることが後に知れて、あれはどうして手に入れたものか、といぶかしがるものがあった。
この話は「続武家閑話」に拠ったものである。佐橋家の家譜等では、甚五郎ははやく永禄六年一向宗徒に与して討死している。「甲子夜話」には、慶長十二年の朝鮮の使にまじっていた徳川家の旧臣を、筧又蔵だとしてある。林春斎の「韓使来聘記」等には、家康に謁した上々官を金、朴の二人だけにしてある。もし佐橋甚五郎が事に就いて異説を知っている人があるなら、その出典と事蹟の大要とを書いて著者の許に投寄してもらいたい。大正二年三月記。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「或」の「ノ」の部分が三本 |
|
102-2 |
「日+鉛のつくり」 |
|
102-12 |
上一页 [1] [2] 尾页