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右の細木香以伝は匆卒に稿を起したので、多少の誤謬を免れなかった。わたくしは此にこれを訂正して置きたい。
香以伝の末にわたくしは芥川龍之介さんが、香以の族人だと云うことを附記した。幸に芥川氏はわたくしに書を寄せ、またわたくしを来訪してくれた。これは本初対面の客ではない。打絶えていただけの事である。
芥川氏のいわく。香以には姉があった。その婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年をこの夫婦の家に送った。
伊三郎の女を儔と云った。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著した小説集「羅生門」中に「孤独地獄」の一篇がある。その材料は龍之介さんが母に聞いたものだそうである。この事は龍之介さんがわたくしを訪うに先だって小島政二郎さんがわたくしに報じてくれた。
わたくしはまた香以伝に願行寺の香以の墓に詣る老女のあることを書いた。そしてその老女が新原元三郎という人の妻だと云った。芥川氏に聞けば、老女は名をえいと云う。香以の嫡子が慶三郎で、慶三郎の女がこのえいである。えいの夫の名は誤っていなかった。
わたくしはえいが墓参の事を言うついでに附記したい。それは願行寺の樒売の翁媼の事である。えいの事をわたくしの問うたこの翁媼は今や亡き人である。先日わたくしは第一高等学校の北裏を歩いて、ふと樒屋の店の鎖されているのに気が付いたので、近隣の古本屋をおとずれて、翁媼の消息を聞いた。翁は四月頃に先ず死し、まだ百箇日の過ぎぬ間に、媼も踵いで死したそうである。わたくしは多少心を動さざることを得なかった。これを記している処へ、丁度宮崎虎之助さんの葉書が来た。「合掌礼拝。森君よ。ずっと向うに見えて居るのは何でしょう。あれは死ですね。最も賢き人は死を確と認めて居ますね。十二月七日。祈祷。」
次にわたくしは芥川氏に聞いた二三の雑事をしるして置く。香以の氏細木は、正しくは「さいき」と訓むのだそうである。しかし「ほそき」と呼ぶ人も多いので、細木氏自らも「ほそき」と称したことがあるそうである。
芥川氏は香以の辞世の句をわたくしに告げた。わたくしは魯文の記する所に従って、「絶筆、おのれにもあきての上か破芭蕉」の句を挙げて置いた。しかし真の辞世の句は「梅が香やちよつと出直す垣隣」だそうである。梅が香の句は灑脱の趣があって、この方が好い。
芥川氏の所蔵に香以の父竜池が鎌倉、江の島、神奈川を歴遊した紀行一巻がある。上木し得るまでに浄写した美麗な巻で、一勇斎国芳の門人国友の挿画数十枚が入っている。
この游は安政二年乙卯四月六日に家を発し、五日間の旅をして帰ったものである。巻首に「きのとの卯といへるとし、同じ月始の六日」と云ってある。また巻末に添えられた六山寅の七古の狂詩に、「四海安政乙卯年」「袷衣四月毎日楽」「往来五日道中穏」等の句がある。乙卯は冬大地震のあった年である。
巻中に名を烈している一行は洒落翁、国朝、仙鶴、宗理、仙廬(晴閑斎)、経栄、小三次(鳥羽)、国友、鳶常、仙窩、料虎、按幸(按摩幸助)、以上十二人である。洒落翁は竜池であろう。この中に伊三郎がいたそうであるが、その号を詳にしない。香以は「親爺の供をしては幅が利かぬから御免だ」と云って往かなかったそうである。
一行が帰るとき迎えに出た人々は、香以、雁伍(石川甫淳)、余瓶、以白、集雨(玄々真人)以上五人である。
「巣へもどる親まつ鳰のもろ音哉。香以。」
跋文は香以が自ら草している。その他数人の歌俳及古今体狂詩が添えてある。
按ずるに乙卯は竜池の歿する前年で、香以は三十四歳になっていた。わたくしの芥川氏に聞いた事はほぼ此に尽きている。
わたくしに香以の事を語った人は、独り芥川氏のみではない。一知人はこう云う事を言った。「明治の初年に今戸橋の傍に湊屋という芸者屋があった。主人は河野と云って背の低い胖大漢であった。その妻は吉原の引手茶屋湊屋の女みなというもので、常にみいちゃんと呼ばれていた。芸者屋の湊屋と号するも、吉原の湊屋の号より取ったものであった。明治四年二月の頃、この家の抱えは貫六、万吉、留八の三人であった。この河野は香以の息だと聞いた。」この話は正確を保し難い。かつ未だ芥川氏にも尋ねて見ない。しかし河野が果して香以の息であったならば、即慶三郎のなれの果ではなかろうか。
香以の交遊諸人に関しても、わたくしは二三の報を得た。尾道の古怪庵加藤氏は云う。「香以伝に香以の友晋永機を出し、その没年を明治三十七年としたのは誤であろう。今の機一君の父も永機、祖父も永機であった。香以の友は祖父の方であろう。そして明治三十七年に没したと云うは父の方であろう。」わたくしは其角堂の世系を詳にせぬから、あるいは此の如き誤をなしたかも知れない。そこで浅草の文淵堂主人に問い合せた。文淵堂の答書はこうである。「香以の友であった永機はまた九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎とも交が深かった。団十郎の筆蹟は永機そっくりであった。この永機は明治初年の頃に向島の三囲社内の其角堂に住み、後芝円山辺に家を移して没した。没した日は明治三十七年一月十日で、行年八十二歳であった。寺は其角と同じく二本榎上行寺である。」文淵堂の言に従えば、わたくしの記事には誤がなかったらしい。猶考うべきである。
香以のその他の友に関して、近隣の梅本高節さんは語った。「香以の友阿心庵是仏が谷中三河屋の主人なることは伝に見えていた。是仏の俗称は斎藤権右衛門であった」と云うのである。わたくしはこれを聞いて始て是仏の狩谷矩之の生父なることを知った。斎藤権右衛門には三子があった。長を権之助という。是が四世清元延寿太夫である。諸書にこの人の俗称を源之助と書してあるが、あるいは後に改めたものか。仲は狩谷三平懐之(
斎望之の実子)の養子三右衛門矩之である。季が父の称を襲いで権右衛門と云い、質店の主人となったと云う。
梅本氏はまた香以の今一人の友小倉是阿弥の事を語った。「是阿弥は高木氏で、小倉はその屋号であった。その団子坂上の質商であったことは伝に云うが如くである。是阿弥の妻をぎんと云って、その子を佐平と云った。また佐平に息真太郎、女啓があった。然るに佐平もその子女も先ず死して、未亡人ぎんが残った。これが崖上の家の女主人であった。」わたくしは此に由って、父が今の家を是阿弥の未亡人の手から買い取ったと云うことを知った。
香以の他の友人二人の事は文淵堂主人が語った。石橋真国と柴田是真との事である。「石橋真国は語学に関する著述未刊のもの数百巻を遺した。今松井簡治さんの蔵儲に帰している。所謂やわらかものには『隠里の記』というのがある。これは岡場所の沿革を考証したものである。真国は唐様の手を見事に書いた。職業は奉行所の腰掛茶屋の主人であった。柴田是真は気
のある人であった。香以とは極めて親しく、香以の摺物にはこの人の画のあるものが多い。是真の逸事にこう云う事がある。ある時是真は息と多勢の門人とを連れて吉原に往き、俄を見せた。席上には酒肴を取り寄せ、門人等に馳走した。然るに門人中坐容を崩すものがあったのを見て、大喝して叱した。遊所に足を容るることをば嫌わず、物に拘らぬ人で、その中に謹厳な処があった。」
(大正六年九月―十月)
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