十三
本郷の追分を第一高等学校の木柵に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐の花の咲く寄宿舎の横手を見つつ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲である。この外囲が本は疎な生垣で、大小高低さまざまの墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀となった。ただ空に聳えて鬱蒼たる古木の両三株がその上を蔽うているだけが、昔の姿を存しているのである。
わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺飛白の浴衣を著た壮漢が鉄唖鈴を振っていて、人の来たのを顧みだにしない。本堂の東側から北裏へ掛けて並び立っている墓石を一つ一つ見て歩いた。日はもう傾きかかって来るに、尋ぬる墓表は見附からなかった。
忽ち穉子の笑う声がしたので、わたくしは振り向いて見た。顔容の美くしい女が子を抱いてたたずんで、わたくしの墓表の文字を読んで歩くのを見ていた。
わたくしは捜索を中止して、「あなたはお寺の方ですか」と問うた。
「はい。どなたのお墓をお尋なさいますのです。」女の声音は顔色と共にはればれとしていて、陰鬱なる周囲の光景には調和していなかった。
「摂津国屋と云うものです。苗字はさいきでしょうか。」魯文の記事には「さいき」とも「ほそき」とも傍訓がしてあるが、わたくしは「さいき」が正しい訓であるのを、たまたま植字者が「ほそき」と誤ったものかと思っていたのである。
「では細いと云う字を書くのでしょう。」この女は文字を識っていた。
「そうです。御存じでしょうか。」
「ええ、存じています。あの衝当にあるのが摂津国屋の墓でございます。」抱かれている穉子はわたくしを見て、頻に笑って跳り上がった。
わたくしは女に謝して墓に詣った。わたくしはなんだか新教の牧師の妻とでも語ったような感じがした。
本堂の東側の中程に、真直に石塀に向って通じている小径があって、その衝当に塀を背にし西に面して立っているのが、香以が一家の墓である。
向って左側には石燈籠が立ててあって、それに「津国屋」と刻してある。
墓は正方形に近く、やや横の広い面の石に、上下二段に許多の戒名が彫り附けてあって、下には各命日が註してある。
十四
摂津国屋の墓石には、遠く祖先に溯って戒名が列記してあるので、香以の祖父から香以自身までの法諡は下列の左の隅に並んでいる。
詣で畢って帰る時、わたくしはまた子を抱いた女の側を通らなくてはならなかった。わたくしは女に問うた。
「親類の人が参詣しますか。」
「ええ。余所へおよめに往った方が一人残っていなすって、忌日には来られます。芝の炭屋さんだそうで、たしか新原元三郎と云う人のお上さんだと存じます。住職は好く存じていますが、只今留守でございます。なんなら西教寺とこちらとの間に花屋が住っていますから、聞いて御覧なさいまし。」
わたくしは再び女に謝して寺を出た。そして往来に立ち止って花屋を物色した。
西教寺と願行寺との間の町家は皆新築の小さい店になっている。その間に挟まれて、ほとんど家とは云い難い程の小家の古びたのが一軒あって、葭簀が立て廻してある。わたくしはそれを見て、かつてその前に樒のあるのを見たことを想起した。
わたくしは葭簀の中に這入った。家の内はもうほとんど真暗である。瞳を定めて見れば、老いさらぼうた翁媼が蹲っている。家も人も偶然開化の舌に舐め残されたかと感ぜられる。またお伽話の空気が闇の裡に浮動しているかとも感ぜられる。
「もしもし」と云うと、翁が立って出迎えた。媼は蹲ったままでいた。
「願行寺にある摂津国屋の墓を知っているでしょうね」と、わたくしは問うた。しかし翁も媼も耳が遠いので、わたくしは次第に声を大くして二三度繰り返さなくてはならなかった。
奥にいる媼が先にわたくしの詞を聞き分けて、「あのほそきさんですか」と云った。わたくしは此に依って一度香以の苗字を「ほそき」と訓むこととして、この稿を排印に付した。しかし彼香以と親しかった竺仙が「さいき」と書するを見て、猶「さいき」と正しかるべきを思った。
わたくしは香以の裔の芝にいる女の名を問いその夫の名をもたしかめようと思ったが、二人共何一つ知らなかった。
ただ媼がこんな事を言った。「大そうお金持だったそうでございますね。あの時本の少しばかりで好いから、お金が残して置いて貰われたらと、いつもそう仰ゃいます。」
わたくしは翁の手に小銀貨をわたして、樒を香以が墓に供することを頼んだ。
「承知いたしました。もう暮れましたから明朝の事にいたしましょう」と、翁は答えた。
わたくしはその後願行寺の住職を訪おうともせずにいて、遂に香以の裔の事を詳にせぬままに、この稿を終ってしまった。頃日高橋邦太郎さんに聞けば、文士芥川龍之介さんは香以の親戚だそうである。もし芥川氏の手に藉ってこの稿の謬を匡すことを得ば幸であろう。
十五
疇昔の日わたくしは鹿嶋屋清兵衛さんの逸事に本づいて、「百物語」を著した。文中わたくしの鹿嶋屋を斥す詞に、やや論讃に類するものがあった時、一の批評家がわたくしの「僭越」を責めた。その詳なることは今わたくしの記憶に存せぬが、彼批評家には必ずや文集があるべく、これを繙いたら、百物語評を検出することもまた容易であろう。
鹿嶋屋は「大尽」である。寒生のわたくしがその境界を窺い知ることを得ぬのは、乞丐が帝王の襟度を忖度することを得ぬと同じである。是においてや僭越の誚が生ずる。
人生の評価は千殊万別である。父が北千住に居った時、家に一婢があった。肥白にして愛想好く、挙止もまた都雅であった。然るにこの婢の言う所は、一々わたくし共兄弟姉妹の耳を驚かした。
婢は幼くして吉原の大籬に事え、忠実を以て称せられていた。その千住の親里に帰ったのは、年二十を踰えた後である。
婢は「おいらん」を以て人間の最尊貴なるものとしている。公侯伯子男の華族さんも、大臣次官の官員さんも婢がためには皆野暮なお客である。貸座敷の高楼大厦とその中にある奴婢臧獲とは、おいらんを奉承し装飾する所以の具で、貸座敷の主人はいかに色を壮にし威を振うとも此等の雑輩に長たるものに過ぎない。
婢の思量感懐は悉くおいらんを中心として発動している。婢の目を以て視れば、吉原は文、吉原以外は野、吉原は華、吉原以外は夷である。それは吉原がおいらんのいますレジダンスだからである。
「よしや、何かお話をしておくれ」と弟が云う。よしは婢の名であった。
「さあ、いらっしゃい。お話をいたしましょう。」よしは台所の板の間におとなしくすわって、弟を円く堆い膝の上に招き寄せる。声は清く朗である。「昔おいらんがございました。そのおいらんは目っかちでございました。そこへお客がまいりました。そのお客はあばたでございました。朝お客が帰る時、おいらんが送って出て、柚子来なますえと申しました。そら、あばたの顔は柚子見たいでございましょう。するとお客が、目っかち四っかち時分には来ようよと申しましたとさ。」よしのお伽話にはおいらんとお客とのみが人物として出るのである。
人生の評価は千殊万別である。仏も王とすべく、魔も王とすべきである。大尽王香以、清兵衛を立つるときは、微塵数のパルヴニュウは皆守銭奴となって懺悔し、おいらん王を立つるときは、貞婦烈女も賢妻良母も皆わけしらずのおぼことなって首を俛るるであろう。
名僧智識の宗教家王たるべきが如く、小説家王たるべきものもあろう。碩学大儒の哲学者王たるべきが如く、批評家王たるべきものもあろう。出版業者王たるべきものもあろう。新聞経営者王たるべきものもあろう。人生の評価は千殊万別である。
わたくしは伊沢蘭軒、渋江抽斎を伝した後、たまたま来ってこの細木香以を伝した。※才[#「車+全」、583-6]わたくしの如きものが敢て文を作れば、その選ぶ所の対象の何たるを問わず、また努て論評に渉ることを避くるに拘らず、僭越は免れざる所である。
(大正六年九・十月)
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页