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護持院原の敵討(ごじいんがはらのかたきうち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:28:31  点击:  切换到繁體中文


 文吉がこの話をした翌日の朝であった。相宿あいやどのものがそれぞれかせぎに出た跡で、宇平は九郎右衛門の前にひざを進めて、何か言い出しそうにして又黙ってしまった。
「どうしたのだい」と叔父が云った。
「実は少し考えた事があるのです」
「なんでも好いから、そう云え」
「おじさん。あなたはいつ敵に逢えると思っていますか」
「それはお前にも分かるまいが、おれにも分からんのう」
「そうでしょう。蜘蛛くもを張って虫の掛かるのを待っています。あれはどの虫でも好いのだから、平気で待っているのです。若し一匹のまった虫を取ろうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはこうして僥倖ぎょうこうを当にしていつまでも待つのがいやになりました」
「随分己もお前も方々歩いて見たじゃないか」
「ええ。それは歩くには歩きましたが」と云い掛けて、宇平は黙った。
「はてな。歩くには歩いたが、何が悪かったと云うのか。構わんから言え」
 宇平はやはり黙って、叔父の顔をじっと見ていたが、暫くして云った。「おじさん。わたし共は随分歩くには歩きました。しかし歩いたってこれは見附からないのが当前あたりまえかも知れません。じっとして網を張っていたって、来て掛かりっこはありませんが、歩いていたって、からないかも知れません。それを先へ先へと考えてみますと、どうも妙です。わたしは変な心持がしてなりません」宇平は又膝を進めた。「おじさん。あなたはどうしてそんな平気な様子をしていられるのです」
 宇平のこの詞を、叔父は非常な注意の集中をもって聞いていた。「そうか。そう思うのか。よくけよ。それは武運がつたなくて、神にも仏にも見放されたら、お前の云う通だろう。人間はそうしたものではない。腰がてば歩いて捜す。病気になれば寝ていて待つ。神仏しんぶつの加護があれば敵にはいつか逢われる。歩いて行き合うかも知れぬが、寝ている所へ来るかも知れぬ」
 宇平の口角にはかすかな、あざけるような微笑がひらめいた。「おじさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思っていますか」
 九郎右衛門は物に動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の気味悪さを感じた。「うん。それは分からん。分からんのが神仏かみほとけだ」
 宇平の態度は不思議に恬然てんぜんとしていて、いつもの興奮の状態とは違っている。「そうでしょう。神仏かみほとけは分からぬものです。実はわたしはもう今までしたような事をめて、わたしの勝手にしようかと思っています」
 九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血がのぼって、こぶしが固く握られた。
「ふん。そんなら敵討はやめにするのか」
 宇平は軽く微笑ほほえんだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃありません。亀蔵は憎い奴ですから、若し出合ったら、ひどい目に逢わせて遣ります。だが捜すのも待つのも駄目ですから、出合うまではあいつの事なんか考えずにいます。わたしは晴がましい敵討をしようとは思いませんから、助太刀もいりません。敵が知れれば知れる時知れるのですから、見識人みしりにんもいりません。文吉はこれからあなたの家来にしてお使下さいまし。わたしは近い内にお暇をいたす積です」
 九郎右衛門が怒は発するや否やたちまち解けて、宇平のこのことばを聞いている間に、いつものやさしいおじさんになっていた。只何事をもいて笑談じょうだんに取りなす癖のおじが、珍らしく生真面目きまじめになっていただけである。
 宇平が席を起って、木賃宿の縁側を降りる時、叔父は「おい、待て」と声を掛けたが、宇平の姿はもう見えなかった。しかし宇平がこれきりいなくなろうとは、叔父は思わなかった。

 夕方に文吉が帰ったので、九郎右衛門は近所へ往って宇平を尋ねて来いと云った。宇平は折々町の若い者の象棋しょうぎをさしている所などへ往った。最初は敵の手掛りを聞き出そうとして、雑談に耳を傾けていたのだが、後には只何となしにそこで話していたのである。文吉はそう云う家を尋ねた。しかしどこにもいなかった。その晩には遅くなるまで九郎右衛門が起きていて、宇平の帰るのを待ったが、とうとう帰らなかった。
 文吉は宇平を尋ねて歩いたついでに、ふと玉造豊空稲荷たまつくりほうくういなり霊験れいげんの話を聞いた。どこのたれの親の病気が直ったとか、どこの誰は迷子の居所を知らせて貰ったとか、若い者共が評判し合っていたのである。文吉は九郎右衛門にことわって、翌日行水して身をきよめて、玉造をさして出て行った。敵のありかと宇平の行方とを伺って見ようと思ったのである。
 稲荷いなりやしろの前に来て見れば、大勢の人が出入でいりしている。数えられぬ程多く立ててある、赤い鳥居が重なり合っていて、群集はその赤いほらの中でうごめいているのである。外廻りには茶店が出来ている。汁粉屋がある。甘酒屋がある。赤い洞の両側には見せ物小屋やらおもちゃみせやらが出来ている。洞をくぐって社に這入ると、神主がお初穂と云って金を受け取って、番号札をわたす。伺を立てる人をその番号順に呼び入れるのである。
 文吉は持っていただけの銭を皆お初穂に上げた。しかし順番がなかなか来ぬので、とうとう日の暮れるまで待った。何も食わずに、腹がったとも思わずにいたのである。暮六くれむつが鳴ると、神主が出て「残りの番号の方は明朝おいでなさい」と云った。
 次の日には未明に文吉が社へ往った。番号順は文吉より前なのに、まだ来ておらぬ人があったので、文吉は思ったより早く呼び出された。文吉がすなに額をうずめて拝みながら待っていると、これも思ったより早く、神主が出て御託宣を取り次いだ。「初の尋人たずねにんは春頃から東国の繁華な土地にいる。後の尋人の事は御託宣が無い」と云った。
 文吉は玉造から急いで帰って、御託宣を九郎右衛門に話した。
 九郎右衛門はそれを聞いて云った。「そうか。東国の繁華な土地と云えば江戸だが、いかに亀蔵が横着でも、うかと江戸には戻っていまい。成程我々が敵討に余所よそへ出たと云うことは、噂に聞いたかも知れぬが、それにしても外の親戚も気を附けているのだから、どうも江戸に戻っていそうにない。お前は神主に一杯食わされたのじゃないか。後の尋人が知れぬと云うのも、お初穂がもう一度貰いたいのかも知れん」
 文吉はひどく勿体もったいながって、九郎右衛門の詞をさえぎるようにして、どうぞそう云わずに御託宣を信ずる気になって貰いたいと頼んだ。
 九郎右衛門は云った。「いや。己は稲荷様を疑いはせぬ。只どうも江戸ではなさそうに思うのだ」
 こう云っている所へ、木賃宿の亭主が来た。今家主いえぬしの所へ呼ばれて江戸から来た手紙を貰ったら、山本様へのお手紙であったと云って、一封の書状を出した。九郎右衛門が手に受け取って、「山本宇平殿、おなじく九郎右衛門殿、桜井須磨右衛門、平安」と読んだ時、木賃宿でも主従の礼儀を守る文吉ではあるが、兼て聞き知っていた後室こうしつの里からの手紙は、なんの用事かと気がいて、九郎右衛門がひらく手紙の上に、乗り出すようにせずにはいられなかった。

 敵討の一行が立った跡で、故人三右衛門の未亡人は、里方桜井須磨右衛門の家で持病の直るのを待った。暫くすると難儀にってから時が立ったのと、四方あたりが静になったのとのために、頭痛が余程軽くなった。実弟須磨右衛門は親切にはしてくれるが、世話にばかりなってもいにくいので、未亡人は余りせわしくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町俎橋際まないたばしぎわ高家衆こうけしゅう大沢右京大夫基昭うきょうたいふもとあきが奥に使われることになった。
 宇平の姉りよは叔母婿原田方に引き取られてから、墓参の時などには、しきみを売るうばの世間話にも耳を傾けて、敵のありかを聞き出そうとしていたが、いつかいみも明けた。そこで所々しょしょに一二箇月ずつ奉公していたら、自然手掛りを得るたつきにもなろうと思い立って、最初は本所の或る家に住み込んだ。これは遠い親戚に当るので、奉公人やら客分やら分からぬ待遇を受けて、万事の手伝をしたのである。次に赤坂の堀と云う家の奥に、大小母おおおばが勤めていたので、そこへ手伝に往った。次に麻布あざぶの或る家に奉公した。次に本郷弓町の寄合衆よりあいしゅう本多帯刀たてわきの家来に、遠い親戚があるので、そこへ手伝に往った。こんな風に奉公先を取り替えて、天保六年の春からは御茶の水の寄合衆酒井亀之進かめのしんの奥に勤めていた。この酒井の妻は浅草の酒井石見守忠方ただみちの娘である。
 未亡人もりよも敵のありかを聞き出そうと思っていて、中にもりよは昼夜それに心を砕いていたが、どうしても手掛りがない。九郎右衛門や宇平からは便たより絶々たえだえになるのに、江戸でも何一つしでかした事がない。女子おなご達の心細さは言おう様がなかった。
 月日が立って、天保六年の五月の初になった。或る日未亡人の里方の桜井須磨右衛門が浅草の観音に参詣して、茶店に腰を掛けていると、今までんでいた雨が又一しきり降って来た。その時茶店の軒へ駆け込んで雨を避ける二人づれ遊人体あそびにんていの男がある。それが小降になるのを待ちながら、軒に立ってこんな話をした。
 一人が云った。「お前に話そうと思って忘れていたが、ゆうべの事だった。丁度今のように神田で雨に降り出されて、酒問屋さかどいやの戸の締っている外でしゃがんでいると、そこへ駆け込んだやつがある。見れば、あの酒井様にいた亀じゃあねえか。己はびっくりしたよ。好くずうずうしく帰って来やがったと思いながら、おい、亀と声を掛けたのだ。すると、えと云って振り向いたが、人違ひとちがえをしなさんな、おいらあとらと云うもんだと云っといて、まだ雨がどしどし降っているのに、駆け出して行ってしまやがった」
 今一人が云った。「じゃあ又帰っていやがるのだ。ふてえ奴だなあ」
 須磨右衛門は二人に声を掛けて、その亀と云う男は何者だと問うた。二人は侍にただされるのをひどく当惑がる様子であったが、おとどしの暮に大手の酒井様のお邸で悪い事をして逃げた仲間ちゅうげんの亀蔵の事だと云った。そして最後に「なに、ちょいと見たのですから、全く人違で、本当に虎と云うものだったかも知れません」と詞を濁した。只見掛けたと云うだけのこの二人を取り押さえても、別に役に立ちそうではなく、又荒立てて亀蔵に江戸を逃げられてはならぬと思って、須磨右衛門は穏便に二人を立ち去らせた。
 大阪で九郎右衛門が受け取ったのは、桜井から亀蔵の江戸にいることを知らせてった手紙である。
 文吉はすぐに玉造へお礼まいりに往った。九郎右衛門は文吉の帰るのを待って、手分をして大阪の出口々々を廻って見た。宇平の行方を街道の駕籠かご立場たてば、港の船問屋ふなどいやいて尋ねたのである。しかしそれは皆徒労であった。
 九郎右衛門は是非なくおいの事を思い棄てて、江戸へ立つ支度をした。路銀は使い果しても、用心金ようじんきんと衣類腰の物とには手は着けない。九郎右衛門は花色木綿の単物ひとえものに茶小倉の帯を締め、紺麻絣こんあさがすりの野羽織を着て、両刀を手挟たばさんだ。持物は鳶色とびいろごろふくの懐中物、鼠木綿ねずみもめんの鼻紙袋、十手早縄はやなわである。文吉も取って置いた花色の単物に御納戸おなんど小倉の帯を締めて、十手早縄を懐中した。
 木賃宿の主人には礼金を遣り、摂津国屋へは挨拶あいさつに立ち寄って、九郎右衛門主従は六月二十八日の夜船で、伏見から津へ渡った。三十日に大暴風おおあらしで阪の下に半日留められた外は、道中なんのさわりもなく、二人は七月十一日の夜品川に着いた。
 十二日とらの刻に、二人は品川の宿を出て、浅草の遍立寺へんりゅうじに往って、草鞋わらじのままで三右衛門の墓に参った。それから住持に面会して、一夜ひとよ旅の疲を休めた。
 翌十三日は盂蘭盆会うらぼんえで、親戚のものが墓参に来る日である。九郎右衛門は住持に、自分達の来たのを知らせてくれるなと口止をして、自分と文吉とは庫裡くりに隠れていた。住持はなぜかと問うたが、九郎右衛門は只「はかりごとは密なるをとうとぶと申しますからな」と云ったきり、外の話にまぎらした。墓参に来たのは原田、桜井の女房達で、きびしい武家奉公をしている未亡人やりよは来なかった。
 いぬの下刻になった時、九郎右衛門は文吉に言った。「さあ、これから捜しに出るのだ。見附けるまでは足を摺粉木すりこぎにして歩くぞ」

 遍立寺を旅支度のままで出た二人は、先ず浅草の観音をさして往った。雷門近くなった時、九郎右衛門が文吉に言った。「どうも坊主にはなっておらぬらしいが、どんな風体ふうていでいても見逃がすなよ。だがどうせ立派ななりはしていないのだ」
 境内けいだいを廻って、観音を拝んで、見識人みしりにんを桜井に逢わせて貰った礼を言った。それから蔵前くらまえを両国へ出た。きょうは蒸暑いのに、花火があるので、涼旁すずみかたがた見物に出た人が押し合っている。提灯ちょうちんに火を附ける頃、二人は茶店で暫く休んで、汗が少し乾くと、又歩き出した。
 川も見えず、船も見えない。玉やかぎやと叫ぶ時、群集がうなじらして、群集の上の花火を見る。

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