かうした間柄の忠之と利章とが、なぜ生死の爭ひをするやうになつたか。これは利章が變つたのではなくて、忠之が變つたのである。
忠之は壯年の身を以て、忽ち五十二萬二千四百十六石の大名になつた。生得聰明な人だけに、老臣等に掣肘せられずに、獨力で國政を取り捌いて見たかつた。それには手足のやうに自由に使はれる侍が欲しい。丁度先年中津川で召し抱へられた足輕頭倉八長四郎の子に、十太夫と云ふ怜悧な若者がゐた。忠之はそれを近習に取り立てゝ、次第に任用して、短い月日の間に、秩祿を加へられる度數の多いので、心あるものは主家のため、領國のために憂へ、怯懦のものは其人を畏れ憚り、陋しいもの、邪なものは其人にたよつて私を濟さうとするやうになつた。
然るに先代長政が臨終に、利章と小河とが聞き取つた遺言には、國政萬端利章、一成、内藏允の三家老で相談し、重大な事は一應之房、利安の兩隱居に告げて取り極める筈になつてゐる。そこで長政の亡くなつた翌年、寛永元年四月に三家老は一枚の起請文を書いて忠之に呈した。第一に三人は忠之に對して逆意を懷かぬ事、第二に何人を問はず、忠之に背き、又は國家の害をなすと認めた時は、三人が忠之に告げて其人の處置を請ふ事、第三に三人を離間するものがあるときは、必ず互に打ち明けて是非を正す事、第四に三人は兄弟同樣に心得る事、第五に三人の中で讒誣に逢ふものがあつたときは、三人同意して忠之に告げる事、以上五箇條である。今異數の拔擢を蒙つてゐる十太夫は、心底の知れぬものなので、若し右の第二に當るものではなからうかと、三人は朝夕目を附けてゐた。
併し十太夫の勤振にはこれと云ふ廉立つた瑕瑾が無い。只利章等が最初に心附いたのは、これまで自分等の手を經て行はれた事が、段々自分等の知らぬ内に極まるやうになると云ふだけである。そう云ふ風に忠之と下役のものとが、直に取り計らふ件々は、最初どうでも好いやうな、瑣細な事ばかりであつたが、それがいつの間にか稍大きい事に及んで來た。利章等が跡からそれを役々のものに問ふと、別に仔細はない、只心附かなかつたと云ふ。かう云ふ問答が度重なる。利章等は始終事件の跡を追つて行くやうな傾になつた。
利章等は安からぬ事に思つた。そこで折々忠之に事務の手續が違つたのを訴へると、忠之も別に仔細はない、只心附かなかつたと云ふ。下に向いて糺しても、上に向いて訴へても、何の效果も見えなかつた。
利章等はいつか、どうにかして此惡弊を改めたいと思った。此惡弊が暫時も君側を離れぬ新參十太夫の勤振と連係してゐることは、言ふまでもなかった。併し獨り十太夫に廉立った瑕瑾がないばかりでなく、政事向にも廉立った過失がない。利章等は只殆ど本能的に形勢の變じて行くのを感ずるだけである。
利章等は眼を鋭くして見た。そして次第にその變じて行く形勢を見分けることが出來た。
先づ認められるのは政事向一般に弛みが出た事である。忠之の表へ出座する時刻が遲れ勝になり、奥へ引籠む時刻が早目になった。随て役人等も遲く出て早く引くやうになつた。忠之は參府の間も此習慣の儘に振舞って、登城に遲れ、又早目に退出するのである。領國から江戸への使者、豐後にをる徳川家の目附への使者なども、前々よりは日取りが繰り下げられるやうになつた。
次に認められるのは、兎角物事が輕々しく成り立って慌ただしく改められる事である。最甚しい一例は、江戸への使者を、初に森正左衞門に命じ、次いで月瀬右馬允に改め、又元の森に改め、終に坪田正右衞門に改めたのである。人を任用する上にも、きのふまで目を懸けて使はれたものが、俄に勘氣を蒙ることがある。
次に遊戯又はそれに近い事が、眞面目な事のゆるかせにせられる中で、活氣を帶びて行はれ、それに關係した嚴重な、微細な掟が立てられるのが認められる。申樂の者が度々急使を以て召され、又放鷹の場では旅人までが往來を禁ぜられる類である。忠之が江戸からの歸に兵庫の宿で、世上の聞えをも憚らずに、傀儡女を呼んだこともある。
次に驕奢の跡が認められる。調度や衣服が次第に立派になつて、日々の饌も獻立がむづかしくなつた。
次に葬祭弔問のやうな禮がなほざりになるのが認められる。寛永三年九月十五日に大御臺所と稱さられてゐた前將軍秀忠の母、織田氏達子の亡くなつた時、忠之は精進をせぬみか、放鷹に出た。家康の命日、孝高の命日にも精進をせず、江戸から歸つても、孝高、長政の靈屋に詣でぬやうになつた。
差當りこれ位の事が目に留まつてゐるが、どれも重大と云ふ事ではない。尤も此形勢で押して行くうちに、物に觸れて重大な事が生ずるやも知れない。何か機會を得たら、しつかり主君に言ふ事にしようと、利章等三人は思つてゐた。
そのうち罪なくして罰せられたものが一人と、罪あつて免されたものが一人と、引き續いて出來て、どちらも十太夫に連係した事件であつた。一つは博多の町人が浮世又兵衞の屏風を持つてゐるのを、十太夫が所望してもくれぬので、家來を遣つて強奪させ、それを取り戻さうとする町人を入牢させたのである。今一つは志摩郡の百姓に盗をして召し取られたものがあつて、それが十太夫の妾の兄と知れて放されたのである。
利章はとう/\決心して、一成、内藏允に相談し、自ら筆をとつて諫書を作つた。部類を分けて、經史を引いて論じたのが、通計二十五箇條になつた。決心の近因になつた不正裁判は、賞罰明ならずと云ふ部類に入れて、十太夫を弾劾することに重きを置かず、專ら忠之の反省を求めることにした。さて淨書して之房の道柏、利安の卜庵に被見を請うたのが、寛永三年十一月十二日である。道柏、卜庵はすぐに奥書をして、小林内匠、衣笠卜齋、岡善左衛門の三人に披露を頼んだ。
忠之は諫書を讀んで怒つた。十太夫に對する妬だと感じ、又穴搜しだと感じたのである。文章に經史が引いてあるので、利章が書いたと云ふことはすぐにわかつて、怒は利章一人の上に被さつた。忠之は利章を呼んで叱りたかつたが、利章は默つて叱られてをる男でないので、けぶたい思をして、面倒な話を聞くよりは、打ち棄てて置かうと思ひ返した。
利章等は固より、道柏、卜庵の二人も、忠之がなんとか沙汰をするだらうと思つて待つてゐたが、一向そんな摸樣がない。政事の機關は舊に依つて動いてゐる。十太夫は舊に依つて小賢げに立ち振舞つてゐる。前日と變つた事は、只忠之が利章に逢ふ度に顏を背けるだけである。諫書にはこれだけの效果しかなかつた。
忠之が強情に此冷遇を持續すれば、利章も亦強情に隱忍してこれに報いた。そのうち寛永四年に亡くなつた孝高夫人櫛橋氏の喪も濟んだ。
翌五年に忠之は、參府の度毎に大阪と領國との間を航行するためだと云つて、寶玉丸と云ふ大船を造らせた。又十太夫の組下に附けると云つて、江戸へ屆けずに足輕三百人を募つた。諫書に擧げてあつた驕奢が、衣食調度の範圍内に止まらないで、大船の造營となり、夫卒の増員となつたのである。利章は最早坐視するに忍びないので、一成や内藏允に留められたにも拘らず、病氣を申し立てゝ家老の職を辭した。忠之は即座にこれを許した。利章は默つて城下の邸を引き拂つて、左右良の別邸に引き籠つた。
忠之はうるさい物を除いた積でゐると、六年早々將軍家から土井大炊頭利勝を以て勸告があつた。黒田家の家來栗山父子は若年の主君を輔導すべきであるのに、齡八十に垂とする備後は兎も角も、大膳が引き籠り居るは不都合である。出勤させるやうに取り計はれたが宜しからうと云ふのである。忠之は據なく利章に出勤を命じた。
利章は久し振に出勤したが、忠之は相變らず面を背けてゐる。辭職する前の状態と少しも異なる所がない。將軍家のお聲懸りの利章を、忠之はどうすることも出來ぬが、豫て懷いてゐた惡感情は消えぬのみか、却つて募るばかりである。
雙方のために不快な、緊張した間柄が持續せられてゐるうちに、寛永八年八月十四日に、利章の父卜庵が左右良の別邸で眠るやうに亡くなつた。享年八十一歳である。其頃十太夫はとう/\家老の列に加へられて、九千石を貰つた。實收三萬石の采地である。利章は勿論、一成も内藏允も井上内記も、十太夫がいかに御用に立つとは云へ、節目のないものを家老にせられるのは好くあるまいと云つたが、忠之は聽かなかつた。
暫くして忠之は、家老の家には什寶がなくてはならぬと云つて、家康が關が原の役に父長政に與へた具足を十太夫に遺つた。利章はこれを聞いて、自分で、倉八の邸へ出向いて、其具足を取り上げたが、これだけの事をするのに、忠之には一言もことわらなかつたのである。忠之は怒つたが、これも利章にはなんにも云はずにしまつた。
彼此するうちに寛永九年になつて、前將軍秀忠が亡くなり、忠之は江戸で葬儀に列して領國へ歸つた。利章が出勤するとか、せぬとか云ふ爭がかうじて、忠之が自分で利章の邸へ出向かうとしたのは此時の事である。原來利章も我慢強いが、忠之も我慢強い。其忠之が此時に限つて、分別のなくなる程苛立つたには別に原因がある。秀忠の亡くなつたのは正月二十四日で、二十六日の夜増上寺への野邊送があり、二月二十二日に勅使が立ち二十六日に遺物分があり、三月十一日に忠之は暇を賜はつて江戸を立つた。忠之が領國に著いた四月は、隣國肥後に大事件の起つた月である。
四月十日に江戸永田町の室賀源七郎正俊が邸へ匿名の書を持つて來たものがある。肥後國熊本の城主加藤肥後守忠廣逆心云々の文面である。正俊の舅井上新左衞門は土井利勝に懇意にしてゐるので、それを利勝に告げた。利勝は正俊に命じて匿名の書を持つて來た男を搜索させた。十四日に麹町土橋で其男を捕へて見ると、忠廣の嫡子豐後守光正が家來前田五郎八と云ふものであつた。將軍家光は日光へ參詣して、下野國宇都宮に泊つてゐるので、利勝は正俊を宇都宮へ遣つて訴へさせた。そこで稻葉丹後守正勝が熊本へ上使に立つて、忠廣は江戸へ召し寄せられることになつた。正勝は熊本へ行くのに、筑前國遠賀郡山鹿を過ぎるので、丁度下國したばかりの忠之は、福岡から迎接の使者を出した。正使は十太夫で、副使は黒田市兵衞である。十太夫の同勢は新規の足輕二百人に徒歩衆、働筒衆を併せて三百五十人、市兵衞の一行は僅に上下三十八人である。山鹿へ著いて正勝の旅館に伺候すると、正勝はかう云つた。倉八十太夫とは聞きも及ばぬ姓名である、黒田市兵衞は筋目のものと聞き及ぶ、黒田を通せと云つた。十太夫は正使でありながら、上使に謁見することが出來ずに引き取つた。福岡博多の町人共は兼て十太夫の專横を憎んでゐたので、寄ると障ると山鹿の噂話をする。それを聞いて忠之は、利章等の諫書を讀んだ時よりも烈しく怒つて、山鹿の事を評判するものは見附次第討ち取れと命じた。間もなく町人が所所で斬られた。博多網場町で立話をしてゐた二人は、杉原平助が一人斬つて、一人取り逃がした。福岡呉服町で三鼎になつて話してゐた三人は、坂田加左衞門が一人斬つて二人取り逃がした。同唐人町で話してゐた二人も、濱田太左衞門が一人斬つて一人取り逃がした。町人共は震え上がつた。加藤家の事件は光正が父を讒誣したものとは知れたが、父忠廣には徳川家へ屆けずに生れた二歳の庶子某を領國へ連れて歸つた廉があるので、六月朔日に改易を仰せ附けられて落著した。
忠之が出勤せぬ利章の邸へ、自分で押し掛けようとした怒には、嬖臣十太夫の受けた辱に報いるために、福岡博多の町人を屠つた興奮が加はつてゐたのであつた。
――――――――――――
寛永九年八月二十五日に、忠之の許へ徳川家の使者が來て參府の命を傳へた。忠之は始て夢の醒めたやうな心持になつて、一成、内藏允を連れて福岡を立つた。江戸近くなつて聞けば、品川口には旗本、鐵砲頭以下數十人が待ち受けてゐて、忠之を品川東海寺に入れやうとしてゐる。忠之は縱ひ身の破滅は兔れぬにしても、なるべく本邸で果てたいと云ふので、内藏允が思案して、忠之の駕籠を小人數で取り卷き、素槍一本持たせて、夜子の刻に神奈川を立たせた。此一行は夜中に品川を驅け拔けて、櫻田の上邸に入つた。さて夜が明けてから、一成、内藏允が黒田家の行列を立てゝ品川口に掛かると、番所から使者が來て、阿部對馬守の申付である、黒田殿には御用があるによつて一先東海寺へ立ち寄られたいと云つた。内藏允は答へて、主人右衞門佐は火急の御召によつて、既に小勢を以て夜中に入府いたされたと云つた。
間もなく老中の使者が櫻田邸へ來た。忠之を澁谷長谷寺に入れようと云ふのである。忠之はいかなる御不審かは知らぬが、邸内に於いて兎も角も相成りたいと答へた。使者は其儘引き取つた。續いて尾張家附成瀬隼人正正虎、紀伊家附安藤帶刀直次並に瀧口豐後守が來て面會を求めた。此三人は平生忠之と懇意な間柄なので、忠之を説き動かして、とう/\長谷寺に遷らせた。
上邸から早打が福岡へ立つた。それが著くと、福岡城では留守の家老、物頭、諸侍が集まつて評議をした。評議が濟むと、組頭はそれ/″\部下に云ひ渡した。諸侍の中で城を渡して退去したいものは勝手に退去するが好い。又城を枕に討死したいものは用意をせいと云ふのである。然るに諸侍は一人も退去しようとは云わぬ。そこで妻子をも城内に入れて、一戰の上一同討死すると云ふことになつた。防戰の持場は赤間口、畝町、金出口、金出宿、宰府口、比惠の原、岩戸口、三瀬越、唐津口、生松原、船手と城内とに分けられた。赤間口には井上内記、黒田兵庫、黒田市兵衞、小河縫殿助、小河織部、久野四兵衞、小河專太夫、畝町には井上監物、吉田壹岐、伊丹藏人、高橋忠左衞門、小河長五郎、金出口には野村右京、加藤圖書、村田出羽、毛利又右衞門、久野外記、喜多村緑之丞、加藤彌三之丞、金出宿には黒田監物、黒田平吉、林掃部、村山角右衞門、野口左助、喜多村勘解由、宰府口には毛利左近、月瀬右馬允、衣笠因幡、大音六左衞門、菅勘兵衞、吉田右馬太夫、長濱九郎右衞門、比惠の原には野村市右衞門、明石四郎兵衞、黒田總兵衞、齋藤甚右衞門、野村初右衞門、岩戸口には佐谷五郎太夫、松本能登、三瀬越には大塚權兵衞、小林内匠、竹中主膳、浦上三郎兵衞、菅彌一右衞門、黒田半右衞門、岡田左衞門、郡右衞門、蒔田源右衞門、大音安太夫、唐津口には郡正太夫、齋藤忠兵衞、吉田久太夫、毛利吉右衞門、生松原には郡金右衞門、松下源助、喜多村太郎兵衞、長瀬新次郎、櫛橋七之丞、西北の船手には松本吉右衞門、松本主殿、松本善兵衞、松本治右衞門、吉田孫右衞門、城内には衣斐伊豫、花房治右衞門、竹森新右衞門、其外隱居、二男、三男等がゐる。大略かう云ふ手筈である。
上一页 [1] [2] [3] 下一页 尾页