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趙は修法の時に規律を以て束縛するばかりで、楼観の出入などを厳にすることはなかった。玄機の所へは、詩名が次第に高くなったために、書を索めに来る人が多かった。そう云う人は玄機に金を遣ることもある。物を遣ることもある。中には玄機の美しいことを聞いて、名を索書に藉りて訪うものもある。ある士人は酒を携えて来て玄機に飲ませようとすると、玄機は僮僕を呼んで、その人を門外に逐い出させたそうである。
然るに采蘋が失踪した後、玄機の態度は一変して、やや文字を識る士人が来て詩を乞い書を求めると、それを留めて茶を供し、笑語を移すことがある。一たび待せられたものは、友を誘って再び来る。玄機が客を好むと云う風聞は、幾もなくして長安人士の間に伝わった。もう酒を載せて尋ねても、逐われる虞はなくなったのである。
これに反して徒に美人の名に誘われて、目に丁字なしと云う輩が来ると、玄機は毫も仮借せずに、これに侮辱を加えて逐い出してしまう。熟客と共に来た無学の貴介子弟などは、幸にして謾罵を免れることが出来ても、坐客があるいは句を聯ねあるいは曲を度する間にあって、自ら視て欠然たる処から、独り窃に席を逃れて帰るのである。
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客と共に謔浪した玄機は、客の散じた後に、怏々として楽まない。夜が更けても眠らずに、目に涙を湛えている。そう云う夜旅中の温に寄せる詩を作ったことがある。
寄飛卿
※砌乱蛩鳴[#「土へん+皆」、205-11]。
庭柯烟露清。
月中隣楽響。
楼上遠山明。
珍簟涼風到。
瑶琴寄恨生。
君懶書札。
底物慰秋情。
玄機は詩筒を発した後、日夜温の書の
来るのを待った。さて日を経て温の書が来ると、玄機は失望したように見えた。これは温の書の罪ではない。玄機は求むる所のものがあって、自らその何物なるかを知らぬのである。
ある夜玄機は例の如く、
燈の
下に眉を
蹙めて沈思していたが、
漸く不安になって席を起ち、あちこち室内を歩いて、机の上の物を取っては、また
直に放下しなどしていた。やや久しゅうして後、玄機は紙を
展べて詩を書いた。それは楽人
陳某に寄せる詩であった。陳某は十日ばかり前に、二三人の貴公子と共にただ一度玄機の所に来たのである。体格が雄偉で、
面貌の柔和な少年で、多く語らずに、始終微笑を帯びて玄機の挙止を凝視していた。年は玄機より
少いのである。
感懐寄人
恨寄朱絃上。
含情意不任。
早知雲雨会。
未起蘭心。
灼々桃兼李。
無妨国士尋。
蒼々松与桂。
仍羨世人欽。
月色庭階浄。
歌声竹院深。
門前紅葉地。
不掃待知音。
陳は翌日詩を得て、
直に咸宜観に来た。玄機は人を
屏けて引見し、僮僕に客を謝することを命じた。玄機の書斎からはただ
微かに低語の声が聞えるのみであった。初夜を過ぎて陳は辞し去った。これからは陳は姓名を通ぜずに玄機の書斎に入ることになり、玄機は陳を迎える度に客を謝することになった。
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陳の玄機を
訪うことが
頻なので、客は多く
卻けられるようになった。書を
索めるものは、ただ金を贈って書を得るだけで、満足しなくてはならぬことになったのである。
一月ばかり後に、玄機は僮僕に
暇を
遣って、
老婢一人を使うことにした。この醜悪な、いつも不機嫌な
媼はほとんど人に物を言うこともないので、観内の状況は世間に知られることが少く、玄機と陳とは余り人に
煩聒せられずにいることが出来た。
陳は時々旅行することがある。玄機はそう云う時にも客を迎えずに、
籠居して多く詩を作り、それを温に送って政を乞うた。温はこの詩を受けて読む毎に、語中に
閨人の
柔情が漸く多く、道家の逸思がほとんど無いのを見て、
訝しげに首を傾けた。玄機が李の
妾になって、
幾もなく李と別れ、咸宜観に入って女道士になった
顛末は、
悉く李の口から温の耳に入っていたのである。
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七年程の月日が無事に立った。その時夢にも想わぬ災害が玄機の身の上に起って来た。
咸通八年の暮に、陳が旅行をした。玄機は跡に残って寂しく時を送った。その
頃温に寄せた詩の中に、「
満庭木葉愁風起、
透幌紗窓惜月沈」と云う、例に無い
悽惨な句がある。
九年の初春に、まだ陳が帰らぬうちに、老婢が死んだ。
親戚の
恃むべきものもない媼は、
兼て棺材まで準備していたので、玄機は送葬の事を計らって遣った。その跡へ
緑翹と云う十八歳の婢が来た。顔は美しくはないが、
聡慧で
媚態があった。
陳が長安に帰って咸宜観に来たのは、艶陽三月の天であった。玄機がこれを迎える情は、渇した人が泉に臨むようであった。暫らくは陳がほとんど虚日のないように来た。その間に玄機は、度々陳が緑翹を
揶揄するのを見た。しかし玄機は初め意に介せなかった。なぜと云うに、玄機の目中には女子としての緑翹はないと云って
好い位であったからである。
玄機は今年二十六歳になっている。
眉目端正な顔が、迫り
視るべからざる程の気高い美しさを具えて、
新に浴を出た時には、
琥珀色の光を放っている。豊かな肌は
瑕のない玉のようである。緑翹は額の低い、
頤の短い
子に似た顔で、手足は粗大である。
領や肘はいつも
垢膩に
汚れている。玄機に緑翹を忌む心のなかったのは無理もない。
そのうち三人の関係が少しく紛糾して来た。これまでは玄機の挙措が意に満たぬ時、陳は寡言になったり、または全く口を
噤んでいたりしたのに、今は陳がそう云う時、多く緑翹と語った。その上そう云う時の陳の
詞は
極て温和である。玄機はそれを聞く度に胸を刺されるように感じた。
ある日玄機は女道士仲間に招かれて、某の楼観に往った。書斎を出る時、緑翹にその観の名を教えて置いたのである。さて夕方になって帰ると、緑翹が
門に出迎えて云った。「お留守に陳さんがお
出なさいました。お出になった先を申しましたら、そうかと云ってお帰なさいました」と云った。
玄機は色を変じた。これまで留守の間に陳の来たことは度々あるが、いつも陳は書斎に入って待っていた。それに今日は程近い所にいるのを知っていて、待たずに帰ったと云う。玄機は陳と緑翹との間に何等かの秘密があるらしく感じたのである。
玄機は黙って書斎に入って、暫く
坐して沈思していた。
猜疑は次第に深くなり、
忿恨は次第に盛んになった。門に迎えた緑翹の顔に、常に無い
侮蔑の色が見えたようにも思われて来る。温言を以て緑翹を
賺す陳の声が歴々として耳に響くようにも思われて来る。
そこへ緑翹が
燈に火を点じて持って来た。何気なく見える女の顔を、玄機は甚だしく陰険なように看取した。玄機は突然起って扉に
鎖を下した。そして
震う声で詰問しはじめた。女はただ「存じません、存じません」と云った。玄機にはそれが甚しく
狡獪なように感ぜられた。玄機は床の上に
跪いている女を押し倒した。女は
懾れて目を
っている。「なぜ白状しないか」と叫んで玄機は女の
吭を
扼した。女はただ手足をもがいている。玄機が手を放して見ると、女は死んでいた。
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玄機の緑翹を殺したことは、やや久しく発覚せずにいた。殺した翌日陳の来た時には、玄機は陳が緑翹の事を問うだろうと予期していた。しかし陳は問わなかった。玄機がとうとう「あの緑翹がゆうべからいなくなりましたが」と云って陳の顔色を
覗うと、陳は「そうかい」と云っただけで、別に意に介せぬらしく見えた。玄機は前夜のうちに観の
背後に土を取った穴のある処へ、緑翹の
屍を抱いて往って、穴の中へ推し
墜して、上から土を掛けて置いたのである。
玄機は「生ける秘密」のために、数年前から客を謝していた。然るに今は「死せる秘密」のために
懼を
懐いて、もし客を謝したら、緑翹の
踪跡を尋ねるものが、観内に目を
著けはすまいかと思った。そこで
切に会見を求めるものがあると、強いて拒まぬことにした。
初夏の頃に、ある日二三人の客があった。その中の一人が涼を求めて観の背後に出ると、土を取った跡らしい穴の底に新しい土が
填まっていて、その上に緑色に光る
蠅が群がり集まっていた。その人はただなんとなく
訝しく思って、深い思慮をも費さずに、これを自己の従者に語った。従者はまたこれを兄に語った。兄は府の
衙卒を勤めているものである。この卒は数年前に、陳が払暁に咸宜観から出るのを認めたことがある。そこで奇貨
措くべしとなして、玄機を
脅して金を
獲ようとしたが、玄機は笑って顧みなかった。卒はそれから玄機を怨んでいた。今弟の
語を聞いて、
小婢の失踪したのと、土穴に
腥羶の気があるのとの間に、何等かの関係があるように思った。そして同班の卒数人と共に、
を持って咸宜観に突入して、穴の底を掘った。緑翹の屍は一尺に足らぬ土の下に埋まっていたのである。
京兆の
尹温璋は衙卒の訴に
本づいて魚玄機を逮捕させた。玄機は
毫も
弁疏することなくして罪に服した。楽人陳某は
鞠問を受けたが、情を知らざるものとして
釈された。
李億を
始として、かつて玄機を識っていた朝野の人士は、皆その才を惜んで救おうとした。ただ温岐一人は方城の吏になって、遠く
京師を離れていたので、玄機がために力を致すことが出来なかった。
京兆の尹は、事が余りにあらわになったので、法を
枉げることが出来なくなった。立秋の頃に至って、
遂に
懿宗に上奏して、玄機を
斬に処した。
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玄機の刑せられたのを哀むものは多かったが、最も深く心を傷めたものは、方城にいる温岐であった。
玄機が刑せられる二年前に、温は流離して
揚州に往っていた。揚州は大中十三年に宰相を
罷めた令狐綯が
刺史になっている地である。温は綯が自己を知っていながら用いなかったのを怨んで名刺をも出さずにいるうちに、ある夜
妓院に酔って
虞候に撃たれ、
面に
創を負い前歯を折られたので、怒ってこれを訴えた。綯が温と虞候とを対決させると、虞候は盛んに温の
行を陳述して、自己は無罪と判決せられた。事は京師に聞えた。温は自ら長安に入って、要路に上書して
分疏した。この時徐商と
楊収とが宰相に列していて、徐は温を庇護したが楊が聴かずに、温を方城に遣って吏務に服せしめたのである。その
制辞は「
孔門以徳行為先、
文章為末、
爾既徳行無取、
文章何以称焉、
徒負不羈之才、
罕有適時之用」と云うのであった。温は後に
隋県に
遷されて死んだ。子の憲も弟の
庭皓も、咸通中に官に
擢でられたが、庭皓は
の乱に、徐州で殺された。玄機が斬られてから三月の後の事である。
[#改ページ] 参照
其一 魚玄機
三水小牘 南部新書
太平広記
北夢瑣言続談助 唐才子伝
唐詩紀事 全唐詩(姓名下小伝)
全唐詩話 唐女郎魚玄機詩
其二 温飛卿
旧唐書
漁隠叢話新唐書 北夢瑣言
全唐詩話
桐薪唐詩紀事 玉泉子
六一詩話 南部新書
滄浪詩話
握蘭集彦周詩話
金筌集三山老人語録 漢南真稿
雪浪斎日記 温飛卿詩集
(大正四年四月)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「さんずい+高」 |
|
195-7 |
「土へん+皆」 |
|
205-11 |
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