七
ワシリの顔は天幕に帰つてからも矢張不機嫌らしく見えた。そして話を
ワシリは機嫌を直さずに答へた。「なんの話す程の事があるものですか。どんな事を云つて好いか、分からなくなつてしまひました。兎に角随分ひどい目に逢つたのですよ。ああ。併し話し出したものですから話してしまはなくてはなりますまいなあ。」
「それから十二日の間歩きましたが、まだ島の果までは行き付かなかつたのです。一体なら八日で、向岸へ越される筈なのですが、用心をしなくてはならないのと、案内者の好いのがないのとで、無駄をしたのです。海岸を歩けば平地であるのに、岩山に登つたり、
そんな風にしてリマンといふ湾のある所へ出ました。この湾の水は常に
どうしてボオトを手に入れようかと相談したところが、老人はもう疲れ果てゝ、目がどんよりしてゐて、なんの智慧も出ないのです。それでもとうとうかう云ひました。
「どうせボオトは土人の持つてゐるのを手に入れるのだ。」
これだけの事は云ひましたが、その土人をどこへ捜しに行つたら好いか、又土人の手から船を得るには、どういふ手段を取つたら好いかといふ事は、老人が教へてくれません。
そこでヲロヂカとマカロフとわたくしとで、同志の者にかう云ひました。
「おい。皆の者はこゝで待つてゐてくれ。己達はこの岸に沿うて歩いて見る。
かう云つてみんなを残して置いて、わたくし共三人は岸を歩き出しました。少し歩いて岩のある所へ来ると、そこに網を繕つてゐる男がゐるのです。このオルクン
「なんだい。そのオルクンといふのは。その男の名かい。」
「どうですかねえ。さういふ名だつたかも知れません。併しわたくしの察したところでは、どうもオルクンといふのは酋長といふ事らしかつたのです。兎に角何がなんだか分からなかつたのですけれども。わたくし共は、そいつを驚かして、逃がしてはならないと思つて、用心してそろそろ側へ寄りました。それから間が近くなつた時、突然側へ駈け付けて、その男を取り巻きました。その時そいつが指で自分の顔をさしてオルクン、オルクンといふのです。
わたくし共はなんの事だか分かりませんが、こつちもどうかして用事を向うへ知らせて遣らうと思つて工夫をしました。とうとうヲロヂカが杖で砂の上へ、
さうすると、その男がちよつと考へてゐたが、直ぐに呑み込んで合点合点をしました。それから手の指を出して二本見せたり、五本見せたり、又十本皆見せたりしたのです。なんの積りだらうと、三人で相談しましたが、とうとうマカロフが
「おい。これは己達の仲間が何人ゐるかと問ふのだぜ。人数次第で、ボオトが幾ついるといふ事になるのだらう。」
成程といふので、わたくし共は、そいつに十二といふ数を知らせました。それは直ぐに呑み込んでくれました。
それからそいつが、こつちの仲間の所へ連れて行けと、手真似でいふのです。最初はどうしようかと思つて考へましたが、外にしやうがないので、連れて行く事にしました。どうも歩いて海は越されませんから、そいつに手伝つて、船を拵へて貰ふ外、為方がなかつたものですからね。
同志の者も、わたくし共がその男を連れて来たのを見て、最初は不平らしい顔をしました。
「なんだつてそんなものを引つ張つて来たのだい。それでは己達の隠家が知れてしまふぢやないか。」
「黙つてゐろ。連れて来なくつてはならないから連れて来たのだ。」
こんな事を言ひ合つてゐるのに、例の男は平気で同志の者の中に交つて、みんなの着てゐる上着を手で障つてゐるのです。
そこでみんなで二重に持つてゐる上着を脱いで遣ると、男はそれを受け取つて、肩に掛けて、山道を下りて行くのです。わたくし共は跡から付いて行きました。
少し行くと下の方に土人の天幕が並んでゐるのが見えました。小さな村なのです。
同志の者はちよつと足を留めて心配し出しました。「どうしよう。あいつが村へ帰つて行くと村の者を呼び集めるかも知れないぜ。」
わたくし共はかう云ひました。「構ふものか。あの天幕は四つある。中に何人づゝゐるとしても知れたものだ。こつちは同勢十二人、一人一人長さが四分の三アルシン位ある、立派なナイフを持つてゐるぢやないか。それにあいつらの体と、己達のやうな大男の体とは、比べものにならない。第一ロシア人は牛肉を食ふのに、あいつらは肴ばかり食つてゐやがる。どうする事が出来るものか。」
かうは云つたものの、わたくし共は余り好い気持はしませんでした。
兎に角島の果まで、漕ぎ付けて来た。併しあの向うの地平線に、青い帯のやうに見えてゐる、黒竜江の岸に渡つて、ほつと息を衝く事が出来るだらうか。鳥のやうに羽でも生えてくれれば好いと思つたのですね。
暫く待つてゐると、大勢の土人が、オルクンを先に立てゝ、遣つて来ます。見ると、それが皆槍を持つてゐるのです。同志の者が、かう云ひました。
「見ろ。あそこを遣つて来やがる。命のある内は降参すまいぜ。あいつらと遣り合つて、死ぬるものがあつたら、それも運だから、諦らめるが好い。お互に助け合つて、出来るだけ防いで見よう。さあ、みんな成るたけ散らばらないやうに、固まつてゐなくては行けないぜ。」
こんな風に待ち構へてゐましたが、これは全くこつちの誤解でした。オルクン
そこでお互に腹が分かつたものですから、わたくし共は、村の者と一しよに、ボオトのしまつてある所へ見に行きました。そこで土人は船を二艘出して見せました。大きい方には八人乗られるし、小さい方には四人乗られるのです。
こんな工合に、やうやう船だけは出来ました。ところが困つた事には、乗り出す事が出来なくなつたのです。丁度その時風が出て、向岸から吹くのですね。波が中々高くて、とてもボオト位では乗り出されません。
そこで二日間風を待ち合せました。その内に食料がいよ/\無くなつたものですから、木の実と、オルクンのくれる肴とを食つて、命を繋いでゐました。オルクンは正直な、好い奴でしたよ。今でもあいつの事は折々思ひ出します。
持つてゐた二日目の日が暮れたのに、わたくし共は矢張り島にゐるのです。どんなにじれつたかつたか、口では言はれません。その夜も過ぎてしまふ。三日目になつて見ても、まだ同じ風です。
その時海を見ますと、風が霧を皆吹き払つてしまつたものですから、向岸が好く見えるのです。それを見るといよいよ溜まらなくなつて来るのですね。
ブランの爺いさんは岩の上に
さうしてゐる内に、同志の者が皆我慢し切れなくなつて、とうとう夜になつたら、どうなつても構はないから、漕ぎ出さうといふ事に極めました。どうせ昼の内は漕ぎ出されません。そんな事をしようものなら、警戒線から見付けますから。夜ならばその心配だけはありません。そこで命を神に任せて、夜出掛けようといふのです。
風はやつぱりひどくて、鞭で打つやうに、波が
わたくしはみんなにかう云ひました。「さあ、皆来て寝るのだよ。丁度夜中には月が出る。その時船を出すのだ。船では寝るどころの騒ぎではないから、それまで出来るだけ休んで置くのだ。」
一同わたくしの差図通りに横になりました。わたくし共の隠家は高い岸の岩の側で、下から見上げても、立木が邪魔になつて見えないやうになつてゐました。只ブランだけは横にならずに、やつぱり西の方を見詰めてゐます。
みんなが横になつたのは、まだ夕日が入らない頃でした。日が暮れるまでには、大ぶ時間があります。わたくしは十字を切つて横になつて、波が岸を揺つたり、森の木が風にざわ付いたりする音を聞きながら、寐入つてしまひました。
どんな恐ろしい事が目前に迫つて来るか、皆知らずにゐたのですね。
ふいとブランが小声で呼ぶのに気が付いて、わたくしは眠たいのを我慢して、起き上がつて、身の
わたくしがその指ざしをしてゐる方を見ますと、木の間に兵隊がゐるぢやありませんか。
その内の一人で、一番前にゐるのが、銃でこつちを狙つてゐます。今一人はこつちの方へ駈けて来ようとしてゐます。その跡から山を下りて来掛かつてゐるのが三人あります。皆銃を持つてゐます。
わたくしは直ぐに気分がはつきりしました。そして大声で同志の者を呼びました。同志の者は皆同時に起き上がりました。そしてさつき狙つてゐた兵卒が射撃をしてしまふや否や、みんなで向うへ飛び込んで行きました。」
ワシリは
ワシリは
「どうでも好いぢやないか。しまひまで話してくれ。それからどうしたのだ。」
「それからですか。兵卒は六人でした。こつちは十二人でせう。なんでもわたくし共の寝てゐる所へ踏み込んで掴まへようとしたのですね。併しこつちは兵卒共に考へる時間を与へなかつたのです。わたくし共は大きなナイフを持つてゐます。向うは只一度打つた切りで、それも慌てゝ狙ひが
そこでわたくし共が飛び込んで行くと、向うはしかと防ぐ事も出来なかつたのです。こつちはまるで気の違つた狼のやうな勢で飛び付くのに、向うはやつと銃剣の尖で防いでゐるのです。
兵卒の一人が銃剣でわたくしを突かうとします。それがわたくしの足をかすりました。わたくしは
わたくしは飛び起きて、周囲を見廻しました。丁度その時同志の二人が、岩の上へ駈け上がつて行きます。その向うに立つてゐるのは警戒線の隊長で、サルタノフといふ士官です。樺太の名高い男で、土人さへ恐れてゐたのです。なんでも囚人がこの男の手で殺された事はたび/\であつたさうです。ところが今度はさうは行きません。向うが危なくなつてゐます。
二人の同志は例のチエルケス人でした。大胆で素早くつて、まるで猫のやうに体の利く奴です。先づ一人が正面から向つて行つて、サルタノフと岩の上で打つ付かりました。直き側でサルタノフが拳銃を打つたのを、チエルケス人は
わたくし共はそれを見て、その場に釘付けにせられたやうになつてゐますと、チエルケス人は
その時一番跡から来た兵卒が、岩の上で立ち留まつて、持つてゐた小銃をそこに棄てゝ、手で顔を押へたと思ふと、そのまゝ逃げ出しました。わたくし共は追ひ掛けては行きませんでした。その男が警戒線でたつた一人生き残つたわけです。
後に聞けば警戒線は、二十人で張つてゐたのです。その十三人が買出しに向岸へ渡つてゐて、風が強いのでまだ帰らなかつたのださうです。そこで残つてゐた七人の内、六人はわたくし共が殺してしまつてたつた一人逃げたのです。
その時突然、さつきまで皆の寝てゐた場所で、ブランがうなつてゐるのを聞き付けました。ブランは兵卒の打つた、たつた一つの弾に
同志の者が駈け付けて見ると、ブランは
「どうぞみんなで己の墓を掘つてくれ。どうせお前方はまだ船を出す事は出来ない。向うへ渡つた兵隊と海の上で出逢つてはならないから、夜になるのを待つのだ。だから墓を掘つてくれ。」
「なにをいふのだい。生きた人間を埋める奴があるものか。お前を向岸へ連れて行つて、逃げられる所まで、手の上へ載せてでも行つて遣る。」
「いや/\。運といふものは極まつてゐるものだ。己はこの島から外へは出られないのだ。それで好い。
ブランの話を聞いてゐて、わたくしは妙に感じました。それはまるで別な人間のやうになつてゐるからですね。言ふ事に筋道が立つて、気分がはつきりしてゐるのです。目も澄んでゐます。只声だけが力が無くなつてゐるのです。
ブランは同志の者を皆側へ寄せて、遺言をしたり、注意を与へたりしてくれました。
「みんな聞いてくれ。己の今言ふ事を忘れるなよ。お前方は己に別れてシベリアへ行くのだ。己はこゝに残るのだ。そこでお前方の行く先は、余り結構ではないぞよ。おまけにサルタノフまで殺したのだから、どこまでまづいか知れないのだ。サルタノフが殺されたといふ事は、直ぐに遠方まで知れる。イルクツクあたりは勿論、ロシアまでも知れるだらう。
ニコラエウスクではお前方の逃げて来るのを待つてゐるだらう。どうぞみんな用心してくれ。腹が減つても寒くつても、町や村へ寄るなよ。土人はこはがるには及ばない。お前方をどうもしようとは思つてゐない。これから己が大事な事を言ふから、気を付けて聞いてくれ。
ニコラエウスクの町の入口に屋敷がある。そこに己達の恩人が住つてゐる。タルハノフといふ商人の支配人だ。その男は元この樺太へ来て、土人を相手に商売をしてゐたものだ。或る時商品を持つて、この辺の山道に迷つた。平生土人とは仲が悪くて喧嘩をしてゐたものだから、山の中でまご付いてをるのを見付けると、殺してしまひさうにした。そこへ丁度脱獄仲間が通り掛かつたのだ。その中に己もゐた。初めて樺太を逃げ出した時の事だよ。
森の中でロシア語で助けてくれといふものゝあるのを、己達が聞いて駈け付けて、その男を土人の手から救ひ出したのだ。
それからといふものは、その男は樺太から逃げ出す囚人の助けにならうと心掛けてゐる。不断云ふには、己は死ぬるまで樺太の囚人に恩返しをしなくてはならないと云つてゐる。その頃から今までに、大ぶ人を助けたよ。お前方もその男の内へ行くが好い。きつと世話をしてくれるに違ひない。
もうこれで好い。もうみんなぐづ/\してゐては行けない。ワシリや。どうぞみんなに言ひ付けて、己の墓をこゝへ掘らせてくれ。こゝは丁度好い所だ。向岸から吹いて来る風が、己の墓に当る。向岸から打ち寄せる波が、己の墓の下まで来る。どうぞ直ぐに為事に掛からせてくれ。」
ブランの言つた事は、こればかりではなかつたのですが、大概こんなものでした。一同ブランの詞に随つて、墓を掘りに掛かりました。
老人は落葉松の木の下に坐つてゐる。わたくし共は例の小刀で土を掘り上げる。さて穴が出来ましたので、一同祈祷をしました。
老人はぢつとして坐つてゐて、合点合点をします。その両方の頬からは涙が流れ落ちるのです。
日が這入つてしまつた頃、ブランは死にました。暗くなつてから、わたくし共はブランを穴の中へ入れて、上から土を掛けました。
丁度船を漕ぎ出すと、月が登つて来ました。わたくし共は互に顔を見合せて帽を脱いで礼をしました。
八
「シベリアの岸に着いて聞けば、サルタノフが残酷に殺されたといふ話が、もう土人にも知れてゐるといふ事でした。風が吹き伝へでもしたやうに、この風説は広まつたのです。同志の者は
土人はわたくし共に
昼間は大抵森の中で寝て、夜になつてから歩き出します。そんな風にして歩いて、とう/\、タルハノフの家のある所に、或る朝夜の明け切らない内に着きました。
タルハノフの住ひは森の中にあつて、
門の中では明りを点けて、それから「誰だ」と云ひました。
「わたくし共は流浪人で、ブランといふ男からこちらのスタヘイ・ミトリツチユさんに言伝があつて来ました。」
丁度その時支配人は留守で手助けをする男が留守番をしてゐました。支配人は出て行く時留守番にかういふ事を云ひ付けたさうです。「樺太から逃げて来たものがあつたら、一人に五ルウベルの金と靴を一足、毛皮を一枚、その外着物と食料とを望むだけ遣つてくれ。逃げて来たものは何人であつても、これだけの事は一人残らずして遣つてくれ。金や品物を渡す時には、雇つてある百姓共を呼び集めて、その目の前で渡して貰ひたい。さうすれば己が帰つた時、百姓共が証人になつて、己に安心させてくれる事が出来るのだ」と云つたさうです。
この土地へもサルタノフが殺された話は、もう聞えてゐました。それですから留守番はわたくし共の顔を見て、気味を悪がつたやうでした。「サルタノフを遣つ付けたのはお前さん達だね。用心しないと危ないよ。」
「そんな事をしたのが、わたくし共だらうと、さうでなからうと、それはどうでも好いでせう。兎に角あなたは、わたくし共に補助でもしてくれるのですか、どうですか。ブランがスタヘイ・ミトリツチユさんに宜しくと云ひましたよ。」
「ブランはどこにゐるのだね。又樺太に遣られてゐるのですか。」
「えゝ。樺太に葬られてゐるのです。」
「おや/\。あの男は正直な、善い男でしたよ。今でもスタヘイ・ミトリツチユさんが折々噂をしてゐます。きつと亡くなつた事を聞かれたら、ミサの供養でもして遣られる事でせう。一体あの男の本当の名はなんと云つたか、お前さん達は知つてゐますかね。」
「いや。それは知りません。わたくし共は只ブランとばかり呼んでゐました。事に依ると、自分も本当の名を忘れてゐたかも知れません。流浪人にむづかしい名はいらないのですからね。」
「それはさうだね。お前さん達の世渡は随分心細いわけだ。牧師さんが神様にお祈をして上げようと思つたつて、本当の名を知らないから、なんと云つて好いか分からない。ブランだつて、故郷もあつただらうし、親類もあつただらう。兄弟や
「それはあつたかも知れません。流浪人といふものは、洗礼の時に貰つた名を棄ててしまふ事はあるが、それだつて、外の人間と同じやうに母親が生んだには違ひないのですから。」
「ほんにお前さん達は気の毒な世渡をしてゐるのですね。」
「さやうさ。わたくし共のしてゐるより、みじめな世渡はありますまい。乞食をして、人に物を貰つて食べてゐる。着物だつて同じ事だ。それから死んだところで、墓一つ立てて貰ふ事は出来ない。森の中で死ねば、体は
わたくし共の話を聞いて、留守番は余程気の毒に思つたものと見えます。シベリア人は気の毒にさへ思ひ始めれば、物惜しみはしなくなります。わたくし共も、自分で自分の事を話しながら、感動して来ました。この留守番なんぞは、今こつちに同情してゐてくれても、直ぐに
留守番はかう云ひました。「そこでわたしはもう寝なくてはならん。こゝの支配人の言ひ置かれただけのものは、相違なくお前さん達に上げる。それからわたしの手から、一人前二十銭づつ添へて上げる。どうぞそれで帰つて下さい。今頃百姓共を皆起す事は止めにしよう。こゝに三人だけは起きてゐて、それが正直な人達だから、跡で証人にするには十分だらう。お前さん達に、長く足を留めてゐられると、こつちも一しよに迷惑をする事になるかも知れない。悪い事は云はないから、ニコラエウスクへは寄らないが好い。あそこには厳しい裁判所長がゐる。通り抜ける旅人を一々調べる。

留守番は主人の云ひ付けた通りの金や品物を出して、それに自分の手から二十銭づつ出して添へてくれました。それから肴をくれました。そして十字を切つて、自分の部屋へ引つ込んで戸を締めてしまひました。その内一度
一体流浪人の心の内には、折々深い悲哀が起るものです。闇の夜や、茂つた森が
それでもどうかするとその牢屋の中が、今ゐる所に比べれば、却て天国のやうだと思ふ事があります。タルハノフの家を出て、夜道を歩いた時なんぞが、丁度さういふ場合でした。
わたくし共は皆黙つて歩いてゐました。その時、ヲロヂカがふいとかう云ひました。「どうだい。今時分仲間はどうしてゐるだらう。」
「仲間とは誰の事だい。」
「あの樺太の第七号舎に残して置いた仲間さ。あいつらは今時分安心して寝てゐるだらう。それにこつちとらは、こんなに迷ひ歩くのだ。逃げなければ好かつたになあ。」
あんまり下らない事を言ふと思つて、わたくしはヲロヂカを叱つて遣りました。「そんな婆あさんか何かのいふやうな事を言つて恥かしくはないかい。お前そんなに意気地がなくて、外の人をまで臆病仲間に引き入れさうにするなら、己達と一しよに出て来なければ好かつたのだ。」
かうは云つたものゝ、わたくしも気は引き立ちませんでした。一同疲れ切つてゐます。半分眠りながら歩いてゐるのです。流浪人になると、眠りながら歩く事を覚えます。不思議な事には、こんな時にちよいとでも眠ると、直ぐに牢屋にゐる夢を見るものです。月が差し込んで、壁を薄白く照らしてゐると、格子窓の奥の
そんな夢ならまだ好いが、夢の中で親父や母親に出て来られては溜まりません。そんな時はわたくしの身の上には、まだ何事もなく、牢に這入つた事もなく、樺太に行つた事もなく、警戒線の兵隊と戦つた事もないのです。わたくしは親の家にゐて、母が髪を撫で付けてくれてゐます。卓の上にはランプが点いてゐる。親父は鼻の上に目金を引つ掛けて、難有さうな本を読んでゐます。わたくしの親父は、人に本を読んで聞かせる男でした。母が小歌を歌ひ出します。
こんな夢を見て目の醒めた時は溜まりません。なんだか胸に小刀が刺してあるやうな気がします。そんなしんみりした、気楽な部屋の中から、突然真つ暗な森の中へ出たやうに思ふのですからね。
真つ先をマカロフが歩いてゐます。その跡へ一同続いて、丁度村の子供の跡に付いて、
わたくし共は段々ニコラエウスクに近づいて来ました。次第に人家や部落が多くなります。随つて次第に危険になつて来るのです。わたくし共は用心してそろ/\町の方へ忍び寄ります。夜になると歩いて、昼間は、人間どころではない、獣もゐないやうな森の茂みに隠れてゐるのです。
一体わたくし共はずつと大きい輪をかいて、ニコラエウスクの側へ寄らないやうにする積りでした。ところが体が疲れてゐて、遠道が歩きたくないのと、食料が段々乏しくなつたのとで、どうもさうしてはゐられなくなつたのです。
或る日の夕方河の岸に出ました。そこに人が集つてゐます。何ものだらうと思つて、好く見ると監視中の囚人です。(ロシアでは懲役になつて、刑期が過ぎ去ると、それそれの村に返して監視して置く。併し労働は監視を受けて規則通りにしてゐる。)それが肴を取つてゐます。わたくし共はその様子を見定めてから側へ寄つて行きました。「おい、どうだね。」
「うん、どこから来たのだい。」
こんな風に詞を交して、いろんな事を話す内に、その仲間の一番年上の奴が、わたくしを側へ呼んでかう云ふのです。「お前、樺太を脱けて来たのだらう。あのサルタノフを遣つ付けた連中だらう。」
正直を云へば、この時わたくしは本当の事を直ぐに云ひにくいやうに思つたのです。勿論相手も同じ罪人ではあるが、物に依つては打ち明けにくい事もあります。殊に監視中の人間は、本当の囚人仲間とは違ひます。この年上の男にしろ、その外の男にしろ、役人の機嫌が取りたいと思へば、直ぐに行つてわたくし共の事を密告する事が出来ます。自分達は兎に角或る自由を得てゐるのですからね。同じ牢屋の中に這入つてゐれば、密告をした奴は分かるから、そんな事は出来ない。こんな手放しにしてある人間は、さういふわけには行きません。
わたくしが少し詞を控へてゐるのを見て、相手は直ぐにわたくしの腹の中を
「己をこはがるのぢやないぞ。己は仲間の告口をするやうな人間ではない。それに何も己の関係した事ぢやあるまいし。町ではもうあの一件を知らないものはない。それにお前方を見れば、丁度同勢十一人だ。余り智恵がなくつても、その連中だらうといふ事は分かつてしまふ。その辺にうろ付いてゐると、ひどく危ないぜ。あの事件は大騒ぎになつてゐる。こゝの裁判所長は恐ろしく厳しいのだ。まあ、どうしてこゝを切り抜けるか、それはお前方の事だが、旨く行つたら大したものだ。幸ひ己達は少し食料も余計に持つてゐるから、町へ帰つたら、パンや肴を少し位、お前方に分けて遣らう。鍋なんぞもいりはしないか。」
「さうだね。若しお前の方で不用な鍋でもあれば難有いが。」
「好い。遣るとしよう。まだ何か思付いたものがあつたら、一しよに纏めて、晩に持ち出して遣る。仲間は助けて遣らなくてはならないからな。」
わたくし共はこの話をしてから、重荷を卸したやうな気がしました。そこで帽を脱いで、その男に礼を言ふと、同志の者も皆帽を脱ぎました。段々乏しくなつて来た食料をくれるといふのも難有いが、それよりはこの男の親切な詞が嬉しかつたのです。どの人間もどの人間も、わたくし共に対しては禍の種で、悪くすると命まで取り兼ねないから、わたくし共は避けるやうにしてゐる。それにこの男が始めてわたくし共に同情してくれたのです。
わたくし共は今の出来事が余り嬉しかつたものですから、もう少しで飛んだ危険を冒すところでした。
監視中の連中が行つてしまつた跡で、わたくし共は安心して、今まで程用心をしなくなりました。ヲロヂカなんぞは跳ねたり踊つたりしてゐます。その辺に、河の近い所で、ヂツクマン谷といふ所があります。ヂツクマンといふ独逸人が、そこで蒸汽機関を製造した所です。そこへわたくし共は這入り込んで、火を焚いて、その上へ鍋を二つ掛けました。一つの方では茶が煮えてゐる。今一つの方では肴を入れた汁が煮えてゐる。その内に日が暮れて、
そんな風にして野宿をしてゐて、アブラハムの懐にゐるやうな気で暢気になつてゐたのです。こつちから目の前に町の明りが見えるのだから、町からもこつちで焚く火が見えなくてはならないのを、大胆にも気に掛けずにゐたのです。人間は不思議なもので、人一人に出逢つてもならないと思つて、森や野原をさまよひ歩くかと思ふと、こんな事を遣るのです。大きな町の直ぐ前で火を焚いて、なんの危険もない積りで、暢気に話をしてゐます。
わたくし共の僥倖で、丁度その時ニコラエウスクの町に或る年寄の役人がゐました。その人は或る土地の監獄長をした事のある人です。その監獄は大きくて、種々な囚人が入れてありました。そこにゐた囚人は皆この老人の恩を受けてゐます。シベリアで、ステパン・サヱリイツチユ・サマロフといへば、それを知らない流浪人はない。三年程前にそのサマロフが亡くなつたといふ事を聞くと、わたくしでさへわざ/\牧師さんの所へ行つて、ミサを読んで貰ひました。サマロフさんは実に好い人でした。只口が悪い。恐ろしい悪態を
わたくし共がヂツクマン谷で野宿をした時、この人はもう役を引いて、市中の自宅に住まつてゐました。それでも昔からの癖で、囚人や監視中の人間を世話をしてゐました。
丁度その晩サマロフさんは、自分の家の石段の上に出て、煙草を喫んでゐますと、わたくし共のヂツクマン谷で焚いてゐる火が見えたのです。それを見てお爺いさんが「あそこで火を焚いてゐるのは何者だらう」と思つたのですね。
その時石段の下を監視中の男が二人通つたので、爺いさんは、それを呼び留めました。「お前方はこの頃どこで漁をしてゐるのだい。ヂツクマン谷ではあるまいね。」
「いゝえ。あそこでは遣つてゐません。あの谷より上手です。それにけふは帰つてしまふ筈でした。」
「己もさう思つてゐたのだ。それにあそこに見えてゐる焚火はどうだい。」
「へえ。」
「何者が焚いてゐるのだらう。お前方はどう思ふ。」
「知りませんね。
「さうさ。旅人なら好いが。一体お前方は親切気がない。己にばかり心配をさせて、平気でゐる。お前達も知つてゐる筈だが、あの樺太から牢を脱けて出たものゝ事を、おとつひ裁判長が云つてゐたぢやないか。誰やらが近い所で見掛けたといふ事だつた。あの火を焚いてゐるのは、大方そいつだらう。あんまり気の好い話だ。」
「さうかも知れません。」
「もしさうだつたら、あの遣つてゐる事を見てくれ。己は好く知らないが、裁判所長はもう町へ帰つてゐるか知らん。まだ帰つてゐないにしても、もうそろ/\帰る頃だ。あの火を見付けようものなら、直ぐに兵隊を差し向けるのだ。
わたくし共は火を取り囲んで、汁の煮えるのを待つてゐました。もう大ぶ久しく、暖かいものを口に入れた事がないのです。その晩は闇で海の方から雲が出て、小雨が降つてゐます。森の中はざわ/\云つて、わたくし共の話声を打ち消してゐます。かういふ闇の夜が、わたくし共流浪人の為めには嬉しいのです。空は暗いほど胸が明るくなるのです。
突然

わたくしはみんなに声を掛けました。「おい。駄目だぜ。裁判所長が遣つて来た。」
一同踊り上がつて、鍋を引つ繰り返して、森の中へ逃げ込みます。
わたくしはこの時、ちらばらになるなと一同を戒めて、先づ様子を見てゐる事にしました。遣つて来る人間の頭数が少なければ、こつちが固まつて掛かれば、まだ勝てるかも知れないと思つたのです。
そこでわたくし共は木の
ボオトは岸に着きました。陸に上がつて来るのは五人です。その内の一人が笑つてかう云ひます。「馬鹿な奴だ。皆逃げ出したのか。己が今一言言つたら、直ぐにみんな出て来るだらう。一体お前方は大胆な筈だが、逃げる事も兎より上手だなあ。」
わたくしの隣には、一本の木の幹を楯に取つて、ダルジンがゐて、それがかう云ひました。「おい。ワシリ。なんだかあの裁判所長の声は聞き覚えがあるやうだな。」
「しつ。待て待て。人数が少いぜ。」
かう云つてゐる内に、船から来た連中の一人が前へ出てかう言ふのです。「おい、こはがるには及ばない。お前方だつて、この土地の監獄で、知つてゐる役人が一人位あるだらう。」
わたくし共は黙つてゐました。
その男が又かう云ひました。「なぜ返事をしないのだ。この土地の役人で、お前方が名を知つてゐるのがあるなら云つて見ろ。さうしたら、己達の事が分かるかも知れないから。」
わたくしが云ひました。「知つてゐても知らなくても、そんな事はどうでも好いが、己達の為めばかりではない。お前方もこゝで出つ食はしたのは不運だ。己達は息のある間は降参はしないぞ。」
わたくしはかう云つて置いて、同志の者に用意をしろといふ相図をしました。相手は五人で、こつちは十一人だ。どうぞ銃を打たないでくれゝば好いが、銃の音がし出しては、町で聞き附けずにはゐないだらう。兎も角ももう駄目かも知れない。併し素直には押へられたくないものだと思つてゐました。
その時さつきの男が、老人らしい声でかう云ひました。「おい。子供達。お前方の内に一人位サマロフを知つてゐる奴があるだらう。」
隣にゐたダルジンが肱でわたくしをつゝきました。「本当らしいぞ。監獄長のサマロフさんだ。」かう云つて置いて、大きな声を出して、「旦那、若しダルジンを覚えてお出なさいますか」と云ひました。
「ダルジンを知らんでなるものか。己の監獄で組長をしてゐたぢやないか。フエドトといつたつけな。」
「さやうでございます。さあ/\、みんな出て来い。難有い旦那がお出になつた。」
この声を聞いて同志の者は皆出て来ました。
その時ダルジンがサマロフさんに言ひました。「旦那。あなたがわたくし共を掴まへにお出でなさらうとは、思ひも寄りませんでした。」
「馬鹿な奴だなあ。己はお前方があんまり気の毒だから、わざ/\出て来たのだ。町の直ぐ前で、火を焚くなんて、お前方は気でも違ひはしないか。」
「雨で濡れたものですから。」
「なんだ。雨で濡れたと、それでお前方は流浪人だといふのかい。大方雨に濡れたら、砂糖のやうに
こんな風に口汚なく言はれながら、わたくし共は爺いさんを取り巻いて立つてゐて、皆揃つて笑つてゐました。
爺いさんは小言を言ひ止めて、かう云ひました。「己はそこのボオトの中に、パンや茶を入れて来た。どうぞこれから先も、サマロフの事を悪く思はないでくれ。若しお前方が旨くこの土地を逃げおほせて、誰か一人トボルスクへ行つたものがあつたら、あそこの寺に、己の守本尊があるから、蝋燭を一本上げてくれ、己は女房の持つて来た地面と家とがこの土地にあるから、多分こゝで死ぬるだらう。それに大ぶもう年を取つてゐる。それでも故郷の事は折々思ひ出すよ。さあ/\、これで好い。もうお別れにしよう。ところでまだ一つお前方に言つて置く事がある。そろ/\お前方は別れ/\になるが好いぜ。一体何人ゐるのだい。」
「十一人ゐます。」
「やれ/\、馬鹿な奴等だな。イルクツクではお前方の評判ばかりしてゐる。それに皆固まつて歩いてゐるのかい。」
爺いさんはボオトに乗つて帰つて行きました。
わたくし共は谷の奥に引つ込んで、茶や汁を煮直して食べて、食料を頭割に分けて、爺いさんの教へた通りに、別れる事にしました。
わたくしはダルジンと一しよに行く。マカロフとチエルケス人、それから韃靼人と外二人と、それから残つた三人と、かういふ組に別れたのです。
それから大ぶ久しくなりますが、外の連中にはその後逢ひません。誰が生きてゐるか、誰が死んでしまつたか、知りません。後になつてから韃靼人もこの土地へ来た事があるといふ事を聞きましたが、本当だかどうだか知りません。
わたくし共はその夜の内にこつそりニコラエウスクの側を通り抜けてしまひました。只或る家の犬が一度吠えたばかりでした。
翌朝日の出た頃には、もう森の中を十ヱルストも歩いて、街道の近くに出てゐました。
その時突然鈴の音がしたので、わたくし共二人は木立の蔭に隠れて見てゐると、三頭立の馬車が通ります。それに乗つて、外套を体に巻いて眠つてゐたのが、ニコラエウスクの裁判所長でした。
それを見てわたくしとダルジンとは、「やれ/\、難有い事だつた、あいつがゆうべ帰つてゐたら掴まへに来ずには置かなかつただらう」と云つて、十字を切りました。」