寺院は全く空虚である。
そこに二人は坐つてゐる。その頭の上には古い受難図が掛けてある。色の青い娘は、着てゐる薄い茶色のジヤケツを、分厚に出来た、黒い
フリツツといふ高等学校生徒は、地の悪くなつた手袋に嵌め込んである、ひどく小さい、娘の両手を、丁度小鳥をでも握つてゐるやうに、柔かに、しかもしつかり握つてゐる。
フリツツは好い心持に、
二人はぴつたり身を寄せ合つた。そして娘のアンナが、心細げに囁いた。「もう遅いでせうか。」
かういふと同時に、二人はいづれも悲しい事を思ひ出した。娘の思ひ出したのは、自分が明けても暮れても縫物をしてゐる窓の下の座である。そこからは厭な、黒い石垣が見えてゐて、日の当る事がない。少年の思ひ出したのは自分の
二人は目を見合せた。
アンナは溜息を衝いた。
フリツツはそつと保護するやうに、臂を娘の背に廻して抱いて云つた。「逃げられると好いのだがね。」
アンナは少年の顔を見た。そして少年の目の中に赫いてゐるあこがれに気が付いた。
娘が伏目になつて顔を赤くしてゐると、少年が囁いた。
「一体内の奴は皆気に食はないのですよ。どこまでも気に食はないのですよ。僕があなたの所から帰る度に、皆がどんな顔をして僕を
「あなた本当にわたくしを愛して入らつしやつて。」かう云つて娘は返事を待つてゐる。
「なんともかとも言ひやうのない程愛してゐます。」かう云つて少年は、何か言ひさうにしてゐる娘の唇にキスをした。
「そのあなたがわたくしを連れて逃げて下さると
少年は黙つてゐる。そして無意識に仰向いて太い石の柱の角を辿つて、その上の方に掛つてゐる古い受難図を見た。その図には「父よ、彼等に免し給へ」云々と書いてある。
それから少年は心配気に娘に尋ねた。「あなたのお内ではもう何か
娘が黙つてゐるので、少年は「どうです」と重ねて尋ねた。
娘は黙つて
「さうですか。大方そんな事だらうと思つた。お
娘は少年の肩に身を寄せ掛けて、あつさりとした調子で云つた。「あなたそんなに心配なさらなくても好くつてよ。」
こんな風にもたれ合つて、二人は暫くぢつとしてゐた。
突然少年が頭を挙げて云つた。「僕と一しよに逃げて下さい。」
娘は涙の一ぱい溜まつてゐる、美しい目で、無理に笑はうとした。そして頭を振つたが、その様子が
少年は又前のやうに、悪い手袋を嵌めた、小さい手を取つた。そして
その内天井の高い所で、ぴいぴい云ふ声のするのに気が付いて、二人共仰向いて見た。一羽の燕が迷ひ込んでゐて、疲れた翼を
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少年は
机の上のラテンの筆記帳の上には、小さい手紙が一本ある。それを取り上げて、覚束ない、ちらつく蝋燭の火で読んで見ると、こんな事が書いてある。