六、坂本鉉之助
東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の与力同心を随へて来た。跡部は堀と相談して、明六つ時にやう/\三箇条の手配をした。鈴木町の代官根本善左衛門に近郷の取締を托したのが一つ。谷町の代官池田岩之丞に天満の東照宮、建国寺方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力大西与五郎が病気引をしてゐる所へ使を遣つて、甥平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして長柄町近くへ往くと、もう大塩の同勢が繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ奔り、又懼れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。
大西へ使を遣つた跡で、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した捕手を大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、天満に火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。捕手は所詮近寄れぬと云つて帰つた。
両奉行は鉄砲奉行石渡彦太夫、御手洗伊右衛門に、鉄砲同心を借りに遣つた。同心は二人の部下を併せて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、玉造口定番遠藤但馬守胤統に加勢を願つた。遠藤は公用人畑佐秋之助に命じて、玉造組与力で月番同心支配をしてゐる坂本鉉之助を上屋敷に呼び出した。
坂本は荻野流の砲術者で、けさ丁打をすると云つて、門人を城の東裏にある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所へ出た。そこに月番の玉造組平与力本多為助、山寺三二郎、小島鶴之丞が出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の所為だと告げた。これは大塩の屋敷に出入する猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡翁助に告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に総出仕の用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は上屋敷へ呼ばれたのである。
畑佐の伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の旨を答へて、上屋敷から大番所へ廻つて手配をした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、小頭の与力二人には平与力蒲生熊次郎、本多為助を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人宛出すことにした。集合の場所は土橋と極めた。京橋組への伝達には、当番与力脇勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。
手配が済んで、坂本は役宅に帰つた。そして火事装束、草鞋掛で、十文目筒を持つて土橋へ出向いた。蒲生と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた畑佐は、跡部に二度催促せられて、京橋口へ廻つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一人を留めて置いて、集合地を発した。堀端を西へ、東町奉行所を指して進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。
坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡助之丞と西組与力近藤三右衛門とが応接して、大筒を用意して貰ひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の区々なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口定番所へ遣つた。昼四つ時に跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した北手の展望を害する梅の木を伐ること、島町に面した南手の控柱と松の木とに丸太を結び附けて、武者走の板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。
坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が長柄町から南へ迂廻したことを聞いた。そして杣人足の一組に天神橋と難波橋[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]との橋板をこはせと言ひ付けた。
坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門、馬場佐十郎に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番米津丹後守昌寿が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて承らうと云つた。
広瀬は雪駄穿で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、原来お互に御城警固の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召が分かり兼ねます。貴殿はどう考へられますか。」
坂本は目をつた。「成程自分の役柄は拙者も心得てをります。併し頭遠藤殿の申付であつて見れば、縦ひ生駒山を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の通拙者は打支度をいたしてをります。」
「いや。それは頭御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知を受るやうなわけで、体面にも係るではありませんか。先年出水の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固の者を貸すことは相成らぬと仰やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」
「それは御同意がなり兼ねます。頭の申付なら、拙者は誰の下にでも附いて働きます。その上叛逆人が起つた場合は出水などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷へお出になつて下さい。」
「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し出しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」
「已むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」
「然らばお暇しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。
そこへ京橋口を廻つて来た畑佐が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、暫くして同心三十人を連れて来た。併し自分は矢張雪駄穿で、小筒も何も持たなかつた。
坂本は庭に出て、今工事を片付けて持口に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部は、相役堀を城代土井大炊頭利位の所へ報告に遣つて置いて、書院から降りて来た。そして天満の火事を見てゐた。強くはないが、方角の極まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか/\こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。
七、船場
大塩平八郎は天満与力町を西へ進みながら、平生私曲のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町の四辻から綿屋町を南へ折れた。それから天満宮の側を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、兼て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に馳せ加はつたものの中に、砲術の心得のある梅田源左衛門と云ふ彦根浪人もあつた。
平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸を西に進んで、門樋橋を渡り、樋上町河岸を難波橋の袂に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足が、今難波橋の橋板を剥がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身の鑓を見て、ばら/\と散つた。
北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔は、一々方略に取り極めてあつたので、ここでも為事は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着られる限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔いてあつた。
平八郎は難波橋[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]の南詰に床几を立てさせて、白井、橋本、其外若党中間を傍にをらせ、腰に附けて出た握飯を噛みながら、砲声の轟き渡り、火焔の燃え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂の空を感じてゐた。昼八つ時に平八郎は引上の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやう/\百五十人許りであつた。その重立つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を懲すことは出来たが、窮民を賑すことが出来ないからである。切角発散した鹿台の財を、徒に烏合の衆の攫み取るに任せたからである。
人々は黙つて平八郎の気色を伺つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。暫くして瀬田が「まだ米店が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を揺り覚されたやうに床几を起つて、「好い、そんなら手配をせう」と云つた。そして残の人数を二手に分けて、自分達親子の一手は高麗橋を渡り、瀬田の一手は今橋を渡つて、内平野町の米店に向ふことにした。
八、高麗橋、平野橋、淡路町
土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部に土井の指図を伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。
「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組とを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた儘すわつてゐた。
堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや否や、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒を持たせて来てゐた。
「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら先手に立て」と堀が号令した。
同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の詞を聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き纏めて、西組与力同心の前に立つた。
堀の手は島町通を西へ御祓筋まで進んだ。丁度大塩父子の率ゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗が見えた。
「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
広瀬が同心等に「打て」と云つた。
同心等の持つてゐた三文目五分筒が煎豆のやうな音を立てた。
堀の乗つてゐた馬が驚いて跳ねた。堀はころりと馬から墜ちた。それを見て同心等は「それ、お頭が打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は馬丁に馬を牽かせて、御祓筋の会所に這入つて休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞をして京橋口に帰つて、同役馬場に此顛末を話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川を隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。
御祓筋から高麗橋までは三丁余あるので、三文目五分筒の射撃を、大塩の同勢は知らずにしまつた。
堀が出た跡の東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上すると、遠藤は岡翁助に当てて、平与力四人に大筒を持たせて、目附中井半左衛門方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百目筒を一挺宛、脇勝太郎、米倉倬次郎に三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ遣つた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部は坂本が手の者と、今到着した与力四人とを併せて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋を南に折れ、それから内平野町へ出て、再び西へ曲らうとした。
此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川の東河岸に落ち合つて、南へ内平野町まで押して行き、米店数軒に火を掛けて平野橋の東詰に引き上げてゐた。さうすると内骨屋町筋から、神明の社の角をこつちへ曲がつて来る跡部の纏が見えた。二町足らず隔たつた纏を目当に、格之助は木筒を打たせた。
跡部の手は停止した。与力本多や同心山崎弥四郎が、坂本に「打ちませうか/\」と催促した。
坂本は敵が見えぬので、「待て/\」と制しながら、神明の社の角に立つて見てゐると、やう/\烟の中に木筒の口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒をつるべかけた。
烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向まで開いてゐる。橋詰近く進んで見ると、雑人が一人打たれて死んでゐた。
坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に噎んで引き返した。そして始て敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう/\落馬した。
思案橋を渡つて、瓦町を西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生の外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵等が切れ/″\に続いた。
平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢は、又逃亡者が出たので百人余になり、浅手を負つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町を西へ退く所である。
北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通を坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を交叉する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一丁目筋と鍛冶屋町筋との交叉点では、もう敵が見えなかつた。
堺筋との交叉点に来た時、坂本はやう/\敵の砲車を認めた。黒羽織を着た[#「着た」は底本では「来た」]大男がそれを挽かせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は堺筋西側の紙屋の戸口に紙荷の積んであるのを小楯に取つて、十文目筒で大筒方らしい、彼黒羽織を狙ふ。さうすると又東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒で坂本を狙ふ。坂本の背後にゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒で金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十間程前へ出た。三人の筒は殆同時に発射せられた。
坂本の玉は大砲方の腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の陣笠をかすつたが、坂本は只顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の玉は全く的をはづれた。
坂本等は稍久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に燃えて来る。四辻の辺に敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒三挺車台付、木筒二挺内一挺車台付、小筒三挺、其外鑓、旗、太鼓、火薬葛籠、具足櫃、長持等であつた。鑓のうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓だと云つた。
玉に中つて死んだものは、黒羽織の大筒方の外には、淡路町の北側に雑人が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に仰向に倒れてゐた。身の丈六尺余の大男で、羅紗の黒羽織の下には、黒羽二重紅裏の小袖、八丈の下着を着て、裾をからげ、袴も股引も着ずに、素足に草鞋を穿いて、立派な拵の大小を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋では町家の看板が蜂の巣のやうに貫かれ、檐口の瓦が砕かれてゐたのである。
跡部は大筒方の首を斬らせて、鑓先に貫かせ、市中を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の士が、途中から大塩の同勢に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
跡部が淡路町の辻にゐた所へ、堀が来合せた。堀は御祓筋の会所で休息してゐると、一旦散つた与力同心が又ぽつ/\寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋の敵を打ち退けたので、堀は会所を出て、内平野町で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手を命じ、天神橋筋を南へ橋詰町迄出て、西に折れて本町橋を渡つた。これは本町を西に進んで、迂廻して敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。併し一手のものが悉く跡へ/\とすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつ/\耗つて、本町堺筋では十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう/\堺筋を北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。
跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の東詰まで引き上げて、二人は袂を分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入つた。坂本、本多、蒲生、柴田、脇並に同心等は、大手前の番場で跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。
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