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大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 18:00:24  点击:  切换到繁體中文



   三、四軒屋敷

 天満橋筋てんまばしすぢ長柄町ながらまちを東につて、かどから二軒目の南側で、所謂いはゆる四軒屋敷の中に、東組与力大塩格之助おほしほかくのすけ役宅やくたくがある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田青太夫あをたいふの弟に生れたのを、養父平八郎がもらつて置いて、七年前においとまになる時、番代ばんだいに立たせたのである。しかし此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。
 玄関を上がつて右が旧塾きうじゆくと云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風をしたつて寄宿したものがある。左は講堂で、読礼堂どくれいだうと云ふ※(「匚<扁」、第4水準2-3-48)へんがくが懸けてある。その東隣が後に他家たけを買ひつぶして広げた新塾しんじゆくである。講堂の背後うしろが平八郎の書斎で、中斎ちゆうさいと名づけてある。それから奥、東照宮とうせうぐう境内けいだいの方へ向いた部屋々々へや/″\家内かないのものの居所ゐどころで、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館きやうちゆうかんくわくわんと云ふ※(「匚<扁」、第4水準2-3-48)へんがくかつてゐる。これだけの建物の内に起臥きぐわしてゐるものは、家族でも学生でも、ことごとく平八郎が独裁のつゑもとうなじを屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐるひらの学生に比べて、ほとんど何等なにらの特権をも有してをらぬのである。
 東町奉行所で白刃はくじんしたのがれて、瀬田済之助せいのすけが此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を青天せいてん霹靂へきれきとして聞くやうな、平穏無事の光景ありさまではなかつた。家内中かないぢゆう女子供をんなこどもはもう十日前にことごと退かせてある。平八郎が二十六歳で番代ばんだいに出た年に雇つためかけ曾根崎新地そねざきしんちの茶屋大黒屋和市わいちの娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、般若寺村はんにやじむらの庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇志摩しまの二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ弓太郎ゆみたらうを附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ退かせたのである。
 女子供がをらぬばかりでは無い。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それはかねて門人の籍にゐる兵庫西出町にしでまち柴屋長太夫しばやちやうだいふ其外そのほか縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が失錯しつさくをするたびに、科料のかはりに父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月につてからそれをことごとく運び出させ、土蔵にあつた一切経いつさいきやうなどをさへそれに加へて、書店河内屋喜兵衛かはちやきへゑ、同新次郎しんじらう、同記一兵衛きいちべゑ、同茂兵衛もへゑの四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために難儀なんぎする人民にほどこすのだと云つて、安堂寺町あんだうじまち五丁目の本屋会所ほんやくわいしよで、親類や門下生に縁故のあるおよそ三十三町村のもの一万軒に、一けんしゆわりもつて配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、うちはがらんとしてしまつた。
 今一つ此家の外貌がきずつけられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。町与力まちよりきは武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は玉造組たまつくりぐみ与力柴田勘兵衛しばたかんべゑの門人で、佐分利流さぶりりうやりを使ふ。当主格之助は同組同心故人藤重孫三郎ふぢしげまごさぶらうの門人で、中島流の大筒おほづゝを打つ。中にも砲術家は大筒をもたくはへ火薬をも製するならひではあるが、此家ではそれが格別にさかんになつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格之助の師藤重ふぢしげせがれ良左衛門りやうざゑもん、孫槌太郎つちたらうの両人を呼んで、今年の春さかひだうはまで格之助に丁打ちやううちをさせる相談をした。それから平八郎、格之助の部屋の附近に戸締とじまりをして、塾生を使つて火薬を製させる。棒火矢ぼうひや炮碌玉はうろくだまを作らせる。職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。火矢ひやの材木をき切つた天満北木幡町てんまきたこばたまちの大工作兵衛さくべゑなどがそれである。かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。大筒おほづゝは人から買ひ取つた百目筒ひやくめづゝが一ちやう、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人守口村もりぐちむらの百姓兼質商白井孝右衛門しらゐかうゑもんが土蔵のそばの松の木をつて作つた木筒きづゝが二挺ある。砲車はうしやは石を運ぶ台だと云つて作らせた。要するに此半年ばかりの間に、絃誦洋々げんしようやう/\の地が次第に喧噪けんさうと雑※(「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2-89-93) ざつたふとを常とする工場こうぢやうになつてゐたのである。
 家がそんな摸様もやうになつてゐて、そこへ重立おもだつた門人共の寄り合つて、けるまで還らぬことが、此頃次第に度重たびかさなつて来てゐる。昨夜は隠居と当主とのめかけの家元、摂津せつつ般若寺村はんにやじむらの庄屋橋本忠兵衛、物持ものもちで大塩家の生計を助けてゐる摂津守口村もりぐちむらの百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心庄司義左衛門しやうじぎざゑもん、同組同心の倅近藤梶五郎かぢごらう、般若寺村の百姓柏岡かしはをか源右衛門、同倅伝七でんしち河内かはち門真もんしん三番村の百姓茨田郡次いばらたぐんじの八人が酒を飲みながら話をしてゐて、折々をり/\いつもの人を圧伏あつぷくするやうな調子の、隠居の声が漏れた。平生最も隠居にしたしんでゐる此八人の門人は、とう/\屋敷に泊まつてしまつた。此頃は客があつてもなくても、勝手の為事しごとは、兼て塾の賄方まかなひかたをしてゐる杉山三平すぎやまさんぺいが、人夫を使つて取りまかなつてゐる。杉山は河内国かはちのくに衣摺村きぬすりむらの庄屋で、何か仔細しさいがあつて所払ところばらひになつたものださうである。手近な用をすのは、格之助の若党大和国やまとのくに曾我村生そがむらうまれの曾我岩蔵いはざう中間ちゆうげん木八きはち吉助きちすけである。女はうたと云ふ女中が一人、傍輩はうばいのりつがお部屋に附いて退いたあとで、しきりいとまもらひたがるのを、なだすかしてめてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、賄方まかなひかた杉山、若党曾我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫などがゐたのである。
 瀬田済之助せいのすけはかう云ふ中へ駆け込んで来た。

   四、宇津木と岡田と

 新塾にゐる学生のうちに、三年前に来て寄宿し、翌年一旦立ち去つて、去年再び来た宇津木矩之允うつぎのりのすけと云ふものがある。平八郎のあらはした大学刮目だいがくくわつもく訓点くんてんほどこした一にんで、大塩の門人中学力のすぐれた方である。此宇津木が一昨年九州に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎西築町にしつきまちの医師岡田道玄だうげんの子で、名を良之進りやうのしんと云ふ。宇津木に連れられて親元を離れた時が十四歳だから、今年十六歳になつてゐる。

 この岡田と云ふ少年が、けさ六つ半に目をました。職人が多くむやうになつてから、随分騒がしい家ではあるが、けさは又格別である。がた/\、めり/\、みし/\と、物を打ちこはす音がする。しかと聴き定めようとして、とこの上にすわつてゐるうちに、今毀してゐる物が障子しやうじふすまだと云ふことが分かつた。それにまじつて人声がする。「役に立たぬものはち棄てい」と云ふことばがはつきり聞えた。岡田は怜悧れいりな、思慮のある少年であつたが、余り思ひ掛けぬ事なので、一旦夢ではないかと思つた。それから宇津木先生はどうしてゐるかと思つて、くびばして見ると、先生はいつものとほり着布団きぶとんえりあごの下にはさむやうにして寝てゐる。物音は次第にはげしくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。
 岡田はきた。宇津木の枕元まくらもとにゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。
 宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。
「先生。えらい騒ぎでございますが。」
「うん。知つてをる。おれは余り人を信じ過ぎて、君をまで危地きちに置いた。こらへてくれたまへ。去年の秋からの丁打ちやううち支度したくが、仰山ぎやうさんだとはおれも思つた。それに門人中の老輩らうはい数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい素振そぶりをする。それをあやしいとはおれも思つた。しかし己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。ところが君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来てると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、ひとり席をつて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お前方まへがたはどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。おれは一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生良知りやうちの学ををさめてゐる。あれは根本のをしへだ。しかるに今の天下の形勢は枝葉しえふんでゐる。民の疲弊ひへいきはまつてゐる。草妨礙くさばうがいあらば、またよろしくるべしである。天下のために残賊ざんぞくを除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」
「はあ」と云つて、岡田は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。
「先づ町奉行衆まちぶぎやうしゆうくらゐの所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を見損みそこなつてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」
「そんなら今ことげるのですね。」
「さうだ。家には火を掛け、くみせぬものは切棄きりすてゝつと云ふのだらう。しかしあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少しひまがある。まあ、聞きたまへ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。おれは明朝御返事をすると云つて一時を糊塗ことした。いさめる機会があつたら、諫めて陰謀を思ひまらせよう。それが出来なかつたら、師となり弟子ていしとなつたのがめいだ、あまんじて死なうと決心した。そこで君だがね。」
 岡田は又「はあ」と云つて耳をそばだてた。
「君は中斎先生の弟子ではない。おれは君に此場を立ち退いてもらひたい。挙兵の時期が最もい。しどうすると問ふものがあつたら、おともをすると云ひたまへ。さう云つて置いて逃げるのだ。おれはゆうべ寝られぬから墓誌銘ぼしめい自撰じせんした。それを今書いて君にる。それから京都東本願寺家ひがしほんぐわんじけ粟津陸奥之助あはづむつのすけと云ふものに、己の心血をそゝいだ詩文稿しぶんかうが借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄下総しもふさやしきへ往つて大林権之進ごんのしんと云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら宇津木うつぎはゆつくり起きて、机にもたれたが、宿墨しゆくぼくに筆をひたして、有り合せた美濃紙みのがみ二枚に、一字の書損しよそんもなく腹藁ふくかうの文章を書いた。書きをはつて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。
 岡田は草稿を受け取りながら、「しかし先生」と何やら言ひ出しさうにした。
 宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。
 手に草稿を持つたまゝ、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。
「先生の指図通さしづどほり、宇津木をつてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞きれた門人大井おほゐの声である。玉造組与力たまつくりぐみよりきせがれで、名は正一郎しやういちらうと云ふ。三十五歳になる。
よろしい。しつかりたまへ。」これは安田図書やすだづしよの声である。外宮げぐう御師おしで、三十三歳になる。
 岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」
い。君早く逃げてくれ給へ。」
しかし。」
「早くせんと駄目だ。」
 廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿をふところぢ込んで、机の所へ小鼠こねずみのやうに走り戻つて、鉄の文鎮ぶんちんを手に持つた。そして跣足はだしで庭に飛び下りて、植込うゑごみの中をくゞつて、へいにぴつたり身を寄せた。
 大井は抜刀ばつたうを手にして新塾に這入はひつて来た。先づ寝所しんじよあたゝかみをさぐつてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ちまつた。しばらくして便所の戸に手を掛けて開けた。
 中から無腰むこしの宇津木が、恬然てんぜんたる態度で出て来た。
 大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀をかまへながら言分いひわけらしく「先生のお指図さしづだ」と云つた。
 宇津木は「うん」と云つたきり棒立ぼうだちに立つてゐる。
 大井は酔人すゐじんを虎がねるやうに、やゝ久しく立ちすくんでゐたが、やう/\思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて真甲まつかふ目掛めがけて切りおろした。宇津木が刀を受け取るやうに、俯向加減うつむきかげんになつたので、百会ひやくゑ背後うしろたてに六寸程骨まで切れた。宇津木は其儘そのまゝ立つてゐる。大井は少しあわてながら、二の太刀たちで宇津木の腹を刺した。刀はほぞの上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は背後うしろへ押し倒してのどを刺した。
 塀際へいぎはにゐた岡田は、宇津木の最期さいごを見届けるやいなや、塀に沿うて東照宮とうせうぐう境内けいだいへ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前ぢやうまへ文鎮ぶんちんけて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。

   五、門出

 瀬田済之助せたせいのすけが東町奉行所の危急をのがれて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、あけ六つを少し過ぎた時であつた。
 書斎のふすまをあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の与党よたう、そのほか中船場町なかせんばまちの医師のせがれわづかに十四歳になる松本隣太夫りんたいふ天満てんま五丁目の商人阿部長助ちやうすけ摂津せつつ沢上江村さはかみえむらの百姓上田孝太郎うえだかうたらう河内かはち門真三番村の百姓高橋九右衛門たかはしくゑもん、河内弓削村ゆげむらの百姓西村利三郎にしむらりさぶらう、河内尊延寺村そんえんじむらの百姓深尾才次郎ふかをさいじらう播磨はりま西村の百姓堀井儀三郎ほりゐぎさぶらう近江あふみ小川村の医師志村力之助しむらりきのすけ、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎はしとねの上に端坐たんざしてゐた。
 たけ五尺五六寸の、面長おもながな、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細いまゆつてゐるが、はりの強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広いひたひ青筋あをすぢがある。まげは短くめてつてゐる。月題さかやきは薄い。一度喀血かくけつしたことがあつて、口の悪い男には青瓢箪あをべうたんと云はれたと云ふが、にもとうなづかれる。
「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。
「さうだらう。巡見じゆんけん取止とりやめになつたには、仔細しさいがなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為しよゐだ。」
「小泉はられました。」
「さうか。」
 目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。
 平八郎は一座をずつと見わたした。「かねての手筈てはずの通りに打ち立たう。棄て置きがたいのは宇津木一にんだが、その処置は大井と安田に任せる。」
 大井、安田の二にんはすぐにたうとした。
「まあ待て。打ち立つてからの順序は、たゞ第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢや。」第一段とは朝岡の家をおそふことで、第二段とは北船場きたせんばへ進むことである。これは方略はうりやくめてあつたのである。
「さあ」と瀬田が声を掛けて一座をかへりみると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた柏岡かしはをか伝七と、檄文げきぶんを配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした建具たてぐ奥庭おくにはへ運び出す音がし出した。
 平八郎は其儘そのまゝ端坐たんざしてゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに萌芽はうがし、いかに生長し、いかなる曲折をて今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。おれが自分の材幹さいかん値遇ちぐうとによつて、吏胥りしよとしてげられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた天保てんぱう元年は泰平であつた。民の休戚きうせき米作べいさく豊凶ほうきようかゝつてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年にやゝつねに復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に螟虫めいちゆうが出来る。海嘯つなみがある。とう/\去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は大風たいふう大水たいすゐがあり、東北をはじめとして全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述にもつぱらにして、古本大学刮目こほんだいがくくわつもく洗心洞剳記せんしんどうさつき、同附録抄ふろくせう儒門空虚聚語じゆもんくうきよしゆうご孝経彙註かうきやうゐちゆうの刻本が次第に完成し、剳記さつきを富士山の石室せきしつざうし、又足代権太夫弘訓あじろごんたいふひろのりすゝめによつて、宮崎、林崎の両文庫にをさめて、学者としてのこゝろざしをも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目をふさいで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置にたひらかなることが出来なかつた。賑恤しんじゆつもする。造酒ざうしゆに制限も加へる。しかし民の疾苦しつくは増すばかりで減じはせぬ。ことに去年から与力内山を使つて東町奉行跡部あとべつてゐる為事しごとが気に食はぬ。幕命ばくめいによつて江戸へ米を廻漕くわいさうするのは好い。しかすこしの米を京都におくることをもこばんで、細民さいみんが大阪へ小買こがひに出ると、捕縛ほばくするのは何事だ。おれは王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。かみ驕奢けうしやしも疲弊ひへいとがこれまでになつたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以てせば、これが人世じんせい必然のいきほひだとして旁看ばうかんするか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人をちゆうし富豪をおびやかして其私蓄しちくを散ずるかの三つよりほかあるまい。おれは此不平に甘んじて旁看ばうかんしてはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のためにはかつてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\誅伐ちゆうばつ脅迫けふはくとによつて事をさうと思ひ立つた。鹿台ろくたいの財を発するには、無道むだうしやうほろぼさんではならぬと考へたのだ。己が意をこゝに決し、げんかれたくし、格之助に丁打ちやううちをさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日をうて加はつても、準備のはかどつて行くのを顧みて、慰藉ゐしや其中そのうちに求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に逡巡しゆんじゆんするおくれもないが、又踊躍ようやくするきほひもない。準備をしてゐる久しい間には、折々をり/\成功の時の光景がまぼろしのやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下にかうべたゝく金持、それから草木さうもくの風になびくやうにきたする諸民が見えた。それが近頃はもうそんなまぼろしも見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、高井たかゐ殿に信任せられて、耶蘇やそ教徒を逮捕したり、奸吏かんり糺弾きうだんしたり、破戒僧を羅致らちしたりしてゐながら、老婆豊田貢とよだみつぎはりつけになる所や、両組与力りやうくみよりき弓削新右衛門ゆげしんゑもんの切腹する所や、大勢おほぜいの坊主が珠数繋じゆずつなぎにせられる所をまぼろしに見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、おれの胸には一度もうたがひきざさなかつた。今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図がほしいまゝに動いて、外界げかいの事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時いつでも用に立てられる左券さけんを握つてゐるやうに思つて、それを慰藉ゐしやにしただけで、やゝもすれば其準備を永く準備のまゝで置きたいやうな気がした。けふまでに事柄のはかどつて来たのは、事柄其物が自然にはかどつて来たのだと云つても好い。おれが陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己をらつして走つたのだと云つても好い。一体この終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。
 平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然にはかどつて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、受持々々うけもち/\為事しごとをする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木をはたしたとか、今奥庭おくにはに積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、其度毎そのたびごとに平八郎はただ一目ひとめそつちを見るだけである。
 さていよ/\勢揃せいぞろひをすることになつた。場所はかねて東照宮の境内けいだいを使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の錠前ぢやうまへいてゐたのを知つた。行列のさきに押し立てたのは救民と書いた四はんはたである。次に中に天照皇大神宮てんせうくわうだいじんぐう、右に湯武両聖王たうぶりやうせいわう、左に八幡大菩薩はちまんだいぼさつと書いた旗、五七のきりに二つびきの旗を立てゝ行く。次に木筒きづゝが二ちやう行く。次は大井と庄司とでおの/\小筒こづゝを持つ。次に格之助が着込野袴きごみのばかまで、白木綿しろもめん鉢巻はちまきめて行く。下辻村しもつじむら猟師れふし金助きんすけがそれに引き添ふ。次に大筒おほづゝが二挺とやりを持つた雑人ざふにんとが行く。次にほゞ格之助と同じ支度の平八郎が、黒羅紗くろらしやの羽織、野袴のばかまで行く。茨田いばらたと杉山とがやりを持つて左右に随ふ。若党わかたう曾我そが中間ちゆうげん木八きはち吉助きちすけとが背後うしろに附き添ふ。次に相図あひづの太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等重立おもだつた人々で、ことに平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同着込帯刀きごみたいたうで、多くは手鑓てやりを持つ。おさへは大筒おほづゝちやうかせ、小筒持こづゝもち雑人ざふにん二十人を随へた瀬田で、そばに若党植松周次うゑまつしうじ、中間浅佶あさきちが附いてゐる。
 この総人数そうにんずおよそ百余人が屋敷に火を掛け、表側おもてがはへいを押し倒して繰り出したのが、朝五つどきである。づ主人の出勤したあとの、向屋敷むかうやしき朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、天満橋筋てんまばしすぢ長柄町ながらまちに出て、南へ源八町げんぱちまちまで進んで、与力町よりきまちを西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、迂回うくわいして船場せんばに向はうとするのである。

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