馬車来ぬれば、二人は乗りぬ。停車場の傍より、東の岸辺を奔らす。この時アルペンおろしさと吹来て、湖水のかたに霧立ちこめ、今出でし辺をふりかへり見るに、次第々々に鼠色になりて、家の棟、木のいただきのみ一きは黒く見えたり。御者ふりかへりて、「雨なり。母衣掩ふべきか。」と問ふ。「否」と応へし少女は巨勢に向ひて。「ここちよのこの遊や。むかし我命喪はむとせしもこの湖の中なり。我命拾ひしもまたこの湖の中なり。さればいかでとおもふおん身に、真心打明けてきこえむもここにてこそと思へば、かくは誘ひまつりぬ。『カッフェエ・ロリアン』にて恥かしき目にあひけるとき、救ひ玉はりし君をまた見むとおもふ心を命にて、幾歳をか経にけむ。先の夜『ミネルワ』にておん身が物語聞きしときのうれしさ、日頃木のはしなどのやうにおもひし美術諸生の仲間なりければ、人あなづりして不敵の振舞せしを、はしたなしとや見玉ひけむ。されど人生いくばくもあらず。うれしとおもふ一弾指の間に、口張りあけて笑はずば、後にくやしくおもふ日あらむ。」かくいひつつ被りし帽を脱棄てて、こなたへふり向きたる顔は、大理石脈に熱血跳る如くにて、風に吹かるる金髪は、首打振りて長く嘶ゆる駿馬の鬣に似たりけり。「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ。あすも、あさても空しき名のみ、あだなる声のみ。」
この時、二点三点、粒太き雨は車上の二人が衣を打ちしが、瞬くひまに繁くなりて、湖上よりの横しぶき、あららかにおとづれ来て、紅を潮したる少女が片頬に打ちつくるを、さし覗く巨勢が心は、唯そらにのみやなりゆくらむ。少女は伸びあがりて、「御者、酒手は取らすべし。疾く駆れ。一策加へよ、今一策。」と叫びて、右手に巨勢が頸を抱き、己れは項をそらせて仰視たり。巨勢は絮の如き少女が肩に、我頭を持たせ、ただ夢のここちしてその姿を見たりしが、彼凱旋門上の女神バワリアまた胸に浮びぬ。
国王の棲めりといふベルヒ城の下に来し頃は、雨いよいよ劇しくなりて、湖水のかたを見わたせば、吹寄する風一陣々、濃淡の竪縞おり出して、濃き処には雨白く、淡き処には風黒し。御者は車を停めて、「しばしがほどなり。余りに濡れて客人も風や引き玉はむ。また旧びたれどもこの車、いたく濡らさば、主人の嗔に逢はむ。」といひて、手早く母衣打掩ひ、また一鞭あてて急ぎぬ。
雨なほをやみなくふりて、神おどろおどろしく鳴りはじめぬ。路は林の間に入りて、この国の夏の日はまだ高かるべき頃なるに、木下道ほの暗うなりぬ。夏の日に蒸されたりし草木の、雨に湿ひたるかをり車の中に吹入るを、渇したる人の水飲むやうに、二人は吸ひたり。鳴神のおとの絶間には、おそろしき天気に怯れたりとも見えぬ「ナハチガル」鳥の、玲瓏たる声振りたててしばなけるは、淋しき路を独ゆく人の、ことさらに歌うたふ類にや。この時マリイは諸手を巨勢が項に組合せて、身のおもりを持たせかけたりしが、木蔭を洩る稲妻に照らされたる顔、見合せて笑を含みつ。あはれ二人は我を忘れ、わが乗れる車を忘れ、車の外なる世界をも忘れたりけむ。
林を出でて、阪路を下るほどに、風村雲を払ひさりて、雨もまた歇みぬ。湖の上なる霧は、重ねたる布を一重、二重と剥ぐ如く、束の間に晴れて、西岸なる人家も、また手にとるやうに見ゆ。唯ここかしこなる木下蔭を過ぐるごとに、梢に残る露の風に払はれて落つるを見るのみ。
レオニにて車を下りぬ。左に高く聳ちたるは、いはゆるロットマンが岡にて、「湖上第一勝」と題したる石碑の建てる処なり。右に伶人レオニが開きぬといふ、水に臨める酒店あり。巨勢が腕にもろ手からみて、縋るやうにして歩みし少女は、この店の前に来て岡の方をふりかへりて、「わが雇はれし英吉利人の住みしは、この半腹の家なりき。老いたるハンスル夫婦が漁師小屋も、最早百歩がほどなり。われはおん身をかしこへ、伴はむとおもひて来しが、胸騒ぎて堪へがたければ、この店にて憩はばや。」巨勢は現にもとて、店に入りて夕餉誂ふるに、「七時ならでは整はず、まだ三十分待ち給はではかなはじ、」といふ。ここは夏の間のみ客ある処にて、給仕する人もその年々に雇ふなれば、マリイを識れるもなかりき。
少女はつと立ちて、桟橋に繋ぎし舟を指さし、「舟漕ぐことを知り玉ふか。」巨勢、「ドレスデンにありし時、公園のカロラ池にて舟漕ぎしことあり、善くすといふにあらねど、君独りわたさむほどの事、いかで做得ざらむ。」少女、「庭なる椅子は濡れたり。さればとて屋根の下は、あまりに暑し。しばし我を載せて漕ぎ玉へ。」
巨勢はぬぎたる夏外套を少女に被せて小舟に乗らせ、われは櫂取りて漕出でぬ。雨は歇みたれど、天なほ曇りたるに、暮色は早く岸のあなたに来ぬ。さきの風に揺られたるなごりにや、
敲くほどの波はなほありけり。岸に沿ひてベルヒの方へ漕ぎ戻すほどに、レオニの村落果つるあたりに来ぬ。岸辺の木立絶えたる処に、真砂路の次第に低くなりて、波打際に長椅子据ゑたる見ゆ。蘆の一叢舟に触れて、さわさわと声するをりから、岸辺に人の足音して、木の間を出づる姿あり。身の長六尺に近く、黒き外套を着て、手にしぼめたる蝙蝠傘を持ちたり。左手に少し引きさがりて随ひたるは、鬚も髪も皆雪の如くなる翁なりき。前なる人は俯きて歩み来ぬれば、縁広き帽に顔隠れて見えざりしが、今木の間を出でて湖水の方に向ひ、しばし立ちとどまりて、片手に帽をぬぎ持ちて、打ち仰ぎたるを見れば、長き黒髪を、後ざまにかきて広き額を露はし、面の色灰のごとく蒼きに、窪みたる目の光は人を射たり。舟にては巨勢が外套を背に着て、蹲まりゐたるマリイ、これも岸なる人を見ゐたりしが、この時俄に驚きたる如く、「彼は王なり」と叫びて立ちあがりぬ。背なりし外套は落ちたり。帽はさきに脱ぎたるまま、酒店に置きて出でぬれば、乱れたるこがね色の髪は、白き夏衣の肩にたをたをとかかりたり。岸に立ちたるは、実に侍医グッデンを引つれて、散歩に出でたる国王なりき。あやしき幻の形を見る如く、王は恍惚として少女の姿を見てありしが、忽一声「マリイ」と叫び、持ちたる傘投棄てて、岸の浅瀬をわたり来ぬ。少女は「あ」と叫びつつ、そのまま気を喪ひて、巨勢が扶くる手のまだ及ばぬ間に僵れしが、傾く舟の一揺りゆらるると共に、うつ伏になりて水に墜ちぬ。湖水はこの処にて、次第々々に深くなりて、勾配ゆるやかなりければ、舟の停まりしあたりも、水は五尺に足らざるべし。されど岸辺の砂は、やうやう粘土まじりの泥となりたるに、王の足は深く陥いりて、あがき自由ならず。その隙に随ひたりし翁は、これも傘投捨てて追ひすがり、老いても力や衰へざりけむ、水を蹴て二足三足、王の領首むづと握りて引戻さむとす。こなたは引かれじとするほどに、外套は上衣と共に翁が手に残りぬ。翁はこれをかいやり棄てて、なほも王を引寄せむとするに、王はふりかへりて組付き、かれこれたがひに声だに立てず、暫し揉合ひたり。
これ唯一瞬間の事なりき。巨勢は少女が墜つる時、僅に裳を握みしが、少女が蘆間隠れの杙に強く胸を打たれて、沈まむとするを、やうやうに引揚げ、汀の二人が争ふを跡に見て、もと来し方へ漕ぎ返しつ。巨勢は唯奈何にもして少女が命助けむと思ふのみにて、外に及ぶに遑あらざりしなり。レオニの酒店の前に来しが、ここへは寄らず、これより百歩がほどなりと聞きし、漁師夫婦が苫屋をさして漕ぎゆくに、日もはや暮れて、岸には「アイヘン」、「エルレン」などの枝繁りあひ広ごりて、水は入江の形をなし、蘆にまじりたる水草に、白き花の咲きたるが、ゆふ闇にほの見えたり。舟には解けたる髪の泥水にまみれしに、藻屑かかりて僵れふしたる少女の姿、たれかあはれと見ざらむ。をりしも漕来る舟に驚きてか、蘆間を離れて、岸のかたへ高く飛びゆく螢あり。あはれ、こは少女が魂のぬけ出でたるにはあらずや。
しばしありて、今まで木影に隠れたる苫屋の燈見えたり。近寄りて、「ハンスルが家はここなりや、」とおとなへば、傾きし簷端の小窓開きて、白髪の老女、舟をさしのぞきつ。「ことしも水の神の贄求めつるよ。主人はベルヒの城へきのふより駆りとられて、まだ帰らず。手当して見むとおもひ玉はば、こなたへ。」と落付きたる声にていひて、窓の戸ささむとしたりしに、巨勢は声ふりたてて、「水に墜ちたるはマリイなり、そなたのマリイなり、」といふ。老女は聞きも畢らず、窓の戸を開け放ちたるままにて、桟橋の畔に馳出で、泣く泣く巨勢を扶けて、少女を抱きいれぬ。
入りて見れば、半ば板敷にしたるひと間のみ。今火を点したりと見ゆる小「ランプ」竈の上に微なり。四方の壁にゑがきたる粗末なる耶蘇一代記の彩色画は、煤に包まれておぼろげなり。藁火焚きなどして介抱しぬれど、少女は蘇らず。巨勢は老女と屍の傍に夜をとほして、消えて迹なきうたかたのうたてき世を喞ちあかしつ。
時は耶蘇暦千八百八十六年六月十三日の夕の七時、バワリア王ルウドヰヒ第二世は、湖水に溺れて
せられしに、年老いたる侍医グッデンこれを救はむとて、共に命を殞し、顔に王の爪痕を留めて死したりといふ、おそろしき知らせに、翌十四日ミュンヘン府の騒動はおほかたならず。街の角々には黒縁取りたる張紙に、この訃音を書きたるありて、その下には人の山をなしたり。新聞号外には、王の屍見出だしつるをりの模様に、さまざまの臆説附けて売るを、人々争ひて買ふ。点呼に応ずる兵卒の正服つけて、黒き毛植ゑたるバワリア
戴ける、警察吏の馬に騎り、または徒立にて馳せちがひたるなど、雑沓いはんかたなし。久しく民に面を見せたまはざりし国王なれど、さすがにいたましがりて、憂を含みたる顔も街に見ゆ。美術学校にもこの騒ぎにまぎれて、新に入し巨勢がゆくへ知れぬを、心に掛くるものなかりしが、エキステル一人は友の上を気づかひゐたり。
六月十五日の朝、王の柩のベルヒ城より、真夜中に府に遷されしを迎へて帰りし、美術学校の生徒が「カッフェエ・ミネルワ」に引上げし時、エキステルはもしやと思ひて、巨勢が「アトリエ」に入りて見しに、彼はこの三日がほどに相貌変りて、著るく痩せたる如く、「ロオレライ」の図の下に跪きてぞゐたりける。
国王の横死の噂に掩はれて、レオニに近き漁師ハンスルが娘一人、おなじ時に溺れぬといふこと、問ふ人もなくて已みぬ。
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