この辺には乞食が沢山いた。その間に、五色の
沙で書画をかいて見せる男がある。少し広い処に、大勢の見物が輪を作って取り巻いているのは、居合ぬきである。
麻と一しょに暫く立って見ていた。刀が段々に掛けてある。下の段になるだけ長いのである。色々な事を
饒舌っているが、なかなか抜かない。そのうち
麻が、つと
退くから、何か分からずに附いて退いた。振り返って見れば、銭を集める男が、近処へ来ていたのであった。
楊弓店のある、狭い
巷に出た。どの店にもお白いを附けた女のいるのを、僕は珍らしく思って見た。お父様はここへは連れて来なかったのである。僕はこの女達の顔に就いて、不思議な観察をした。彼等の顔は
当前の人間の顔ではないのである。今まで見た、普通の女とは違って、皆一種の stereotype な顔をしている。僕の今の
詞を以て言えば、この女達の顔は凝結した表情を示しているのである。僕はその顔を見てこう思った。
何故皆
揃ってあんな顔をしているのであろう。子供に好い子をお
為というと、変な顔をする。この女達は、皆その子供のように、変な顔をしている。眉はなるたけ高く、甚だしきは髪の
生際まで
吊るし上げてある。目をなるたけ大きく
っている。物を言っても笑っても、鼻から上を動かさないようにしている。どうして言い合せたように、こんな顔をしているだろうと思った。僕には分からなかったが、これは売物の顔であった。これは prostitution の相貌であった。
女はやかましい声で客を呼ぶ「ちいと、
旦那」というのが
尤多い。「ちょいと」とはっきり聞えるのもあるが、多くは「ちいと」と聞える。「紺足袋の旦那」なんぞと云う奴もある。
麻は紺足袋を穿いていた。
「あら、
麻さん」
一際鋭い呼声がした。
麻はその店にはいって腰を掛けた。僕は
呆れて立って見ていると、
麻が手真似で掛けさせた。円顔の女である。物を言うと、薄い唇の間から、
鉄漿を
剥がした歯が見える。長い
烟管に烟草を吸い附けて、吸口を袖で拭いて、例の鼻から上を動かさずに、
麻に出す。
「何故拭くのだ」
「だって失礼ですから」
「榛野でなくっては、拭かないのは飲まして貰えないのだね」
「あら、榛野さんにだっていつでも拭いて上げまさあ」
「そうかね。拭いて上げるかね」
こんな風な会話である。詞が二様の意義を有している。
麻は僕がその第二の意義に対して、何等の想像をも
画き得るものとは認めていない。女も僕をば空気の如くに取り扱っている。しかし僕には少しの不平も起らない。僕はこの女は嫌であった。それだから物なんぞを言って貰いたくはなかった。
麻が楊弓を引いて見ないかと云ったが、僕は嫌だと云った。
麻は間もなく楊弓店を出た。それから
猿若町を通って、橋場の
渡を渡って、向島のお邸に帰った。
同じ頃の事であった。家従達の仲間に、銀林と云う針医がいて、折々彼等の詰所に来て話していた。これはお上のお療治に来るので、お国ものではない。
江戸児である。家従は大抵三十代の男であるのに、この男は四十を越していた。僕は家従等に比べると、この男が余程賢いと思っていた。
或る日銀林は銀座の方へ往くから、連れて行って遣ろうと云った。その日には用を済ませてから、銀林が京橋の側の
寄席に
這入った。
昼席であるから、余り客が多くはない。上品に見えるのは娘を連れた町家のお
上さんなどで、その外多くは職人のような男であった。
高座には話家が出て饒舌っている。徳三郎という息子が
象棋をさしに出ていた。夜が更けて帰って、
閉出を食った。近所の娘が一人やはり同じように閉出を食っている。娘は息子に話し掛ける。息子がおじの内へ往って留めて貰うより外はないと云うと、娘が一しょに連れて行ってくれろと頼む。息子は聴かずにずんずん行くが、娘は附いて来る。おじは
通物である。通物とは道義心の lax なる人物ということと見える。息子が情人を連れて来たものと速断する。息子が弁解するのを、恥かしいので言を左右に
托しているのだと思う。息子に恋慕している娘は、
物怪の幸と思っている。そこで二人はおじに二階へ追い上げられる。夜具は一人前しか無い。解いた帯を、縦に敷布団の真中に置いて、跡から書くので
譬喩が anachronism になるが、
樺太を両分したようにして、二人は寝る。さて一寐入して目が
醒めて
云々というのである。僕の耳には、まだ東京の詞は慣れていないのに、話家はぺらぺらしゃべる。僕は後に西洋人の講義を聞き始めた時と同じように、一しょう懸命に注意して聴いていると、銀林は僕の顔を見て笑っている。
「どうです。分かりますかい」
「うむ。大抵分かる」
「大抵分かりゃ沢山だ」
今までしゃべっていた話家が、
起って腰を
屈めて、高座の横から降りてしまうと、入り替って第二の話家が出て来る。「替りあいまして替り
栄も致しません」と謙遜する。「殿方のお道楽はお女郎買でございます」と破題を置く。それから職人がうぶな男を連れて吉原へ行くという話をする。これは吉原入門ともいうべき講義である。僕は、なる程東京という処は何の知識を
攫得するにも便利な土地だ、と感歎して聴いている。僕はこの時「おかんこを頂戴する」という奇妙な詞を覚えた。しかしこの詞には、僕はその後寄席以外では、どこでも遭遇しないから、これは僕の記憶に無用な負担を賦課した詞の一つである。
*
同じ年の十月頃、僕は本郷
壱岐坂にあった、
独逸語を教える私立学校にはいった。これはお父様が僕に鉱山学をさせようと思っていたからである。
向島からは遠くて通われないというので、その頃神田小川町に住まっておられた、お父様の先輩の
東先生という方の内に置いて貰って、そこから通った。
東先生は洋行がえりで、摂生のやかましい人で、盛に肉食をせられる外には、別に
贅沢はせられない。只酒を随分飲まれた。それも役所から帰って、晩の十時か十一時まで
飜訳なんぞをせられて、その跡で飲まれる。奥さんは女丈夫である。今から思えば、当時の大官であの位
閨門のおさまっていた家は少かろう。お父様は好い内に僕を置いて下すったのである。
僕は東先生の内にいる間、性慾上の
刺戟を受けたことは少しもない。強いて記憶の糸を
手繰って見れば、あるときこういう事があった。僕の机を置いているのは、応接所と台所との間であった。日が暮れて、まだ下女がランプを
点けて来てくれない。僕はふいと立って台所に出た。そこでは書生と下女とが話をしていた。書生はこういうことを下女に説明している。女の器械は何時でも用に立つ。心持に関係せずに用に立つ。男の器械は用立つ時と用立たない時とある。好だと思えば跳躍する。嫌だと思えば
萎靡して振わないというのである。下女は耳を真赤にして聴いていた。僕は不愉快を感じて、自分の部屋に帰った。
学校の課業はむつかしいとも思わなかった。お父様に英語を習っていたので、Adler とかいう人の字書を使っていた。独英と英独との二冊になっている。退屈した時には、membre という語を引いて Zeugungsglied という語を出したり、pudenda という語を引いて Scham という語を出したりして、ひとりで
可笑しがっていたこともある。しかしそれも性欲に支配せられて、そんな語を面白がったのではない。人の口に
上せない隠微の事として面白がったのである。それだから同時に fart という語を引いて Furz という語を出して見て記憶していた。あるとき独逸人の教師が化学の初歩を教えていて、硫化水素をこしらえて見せた。そしてこの
瓦斯を含んでいるものを知っているかと問うた。一人の生徒が faule Eier と答えた。いかにも腐った卵には同じ臭がある。まだ何かあるかと問うた。僕が起立して声高く叫んだ。
『Furz !』
『Was? Bitte, noch einmal !』
『Furz !』
教師はやっと分かったので顔を真赤にして、そんな詞を使うものではないと、懇切に教えてくれた。
学校には寄宿舎がある。授業が済んでから、寄って見た。ここで始て男色ということを聞いた。僕なんぞと同級で、毎日馬に乗って通って来る
蔭小路という少年が、彼等寄宿生達の及ばぬ恋の対象物である。蔭小路は余り課業は好く出来ない。薄赤い頬っぺたがふっくりと
膨らんでいて、可哀らしい少年であった。その少年という詞が、男色の受身という意味に用いられているのも、僕の為めには新智識であった。僕に帰り掛に寄って行けと云った男も、僕を少年視していたのである。二三度寄るまでは、馳走をしてくれて、親切らしい話をしていた。その頃書生の金平糖といった
弾豆、書生の
羊羹といった焼芋などを食わせられた。但しその親切は初から少し
粘があるように感じて、嫌であったが、年長者に礼を欠いではならないと思うので、忍んで交際していたのである。そのうちに手を握る。
頬摩をする。うるさくてたまらない。僕には Urning たる素質はない。もう帰り掛に寄るのが嫌になったが、それまでの交際の惰力で、つい寄らねばならないようにせられる。ある日寄って見ると床が取ってあった。その男がいつもよりも一層うるさい挙動をする。血が頭に上って顔が赤くなっている。そしてとうとう僕にこう云った。
「君、一寸だからこの中へ
這入って一しょに寝給え」
「僕は嫌だ」
「そんな事を言うものじゃない。さあ」
僕の手を取る。彼が熱して来れば来るほど、僕の
厭悪と恐怖とは高まって来る。
「嫌だ。僕は帰る」
こんな押問答をしているうちに、隣の部屋から声を掛ける男がある。
「だめか」
「うむ」
「そんなら応援して遣る」
隣室から廊下に飛び出す。僕のいた部屋の破障子をがらりと開けて
跳り込む。この男は粗暴な奴で、僕は初から交際しなかったのである。この男は少くも見かけの通の奴で、僕を釣った男は偽善者であった。
「長者の言うことを聴かなけりゃあ、布団
蒸にして
懲して遣れ」
手は詞と共に動いた。僕は布団を頭から被せられた。一しょう懸命になって、
跳ね返そうとする。上から押える。どたばたするので、書生が二三人覗きに来た。「よせよせ」などという声がする。上から押える手が
弛む。僕はようよう跳ね起きて逃げ出した。その時書物の包とインク壺とをさらって来たのは、我ながら
敏捷であったと思った。僕はそれからは寄宿舎へは往かなかった。
その頃僕は土曜日ごとに東先生の内から、向島のお
父様の処へ泊りに行って、日曜日の夕方に帰るのであった。お父様は或る省の判任官になっておられた。僕はお父様に寄宿舎の事を話した。定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと、少しもびっくりなさらない。
「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんと行かん」
こう云って平気でおられる。そこで僕は、これも
嘗めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。
*
十三になった。
去年お母様がお国からお出になった。
今年の初に、今まで学んでいた独逸語を
廃めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってから大分
益に立った。
僕は寄宿舎ずまいになった。生徒は十六七位なのが極若いので、多くは二十代である。服装は
殆ど皆小倉の
袴に紺足袋である。袖は肩の辺までたくし上げていないと、惰弱だといわれる。
寄宿舎には貸本屋の出入が許してある。僕は貸本屋の常得意であった。
馬琴を読む。京伝を読む。人が春水を借りて読んでいるので、又借をして読むこともある。自分が
梅暦の丹治郎のようであって、お蝶のような娘に慕われたら、愉快だろうというような心持が、始てこの頃
萌した。それと同時に、同じ小倉袴紺足袋の仲間にも、色の白い目鼻立の好い生徒があるので、自分の醜男子なることを知って、
所詮女には好かれないだろうと思った。この頃から後は、この考が永遠に僕の意識の底に潜伏していて、僕に十分の得意ということを感ぜさせない。そこへ年齢の不足ということが加勢して、何事をするにも、友達に暴力で圧せられるので、僕は陽に屈服して陰に反抗するという態度になった。兵家 Clausewitz は受動的抗抵を弱国の
応に取るべき手段だと云っている。僕は先天的失恋者で、そして境遇上の弱者であった。
性欲的に観察して見ると、その頃の生徒仲間には軟派と硬派とがあった。軟派は例の
可笑しな画を
看る連中である。その頃の貸本屋は本を
竪に高く積み上げて、
笈のようにして背負って歩いた。その荷の土台になっている処が箱であって
抽斗が附いている。この抽斗が例の可笑しな画を入れて置く処に極まっていた。中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。三五郎という前髪と、その兄分の
鉢鬢奴との間の恋の歴史であって、
嫉妬がある。
鞘当がある。末段には二人が
相踵いで戦死することになっていたかと思う。これにも
画があるが、左程見苦しい処はかいてないのである。
軟派は数に於いては優勢であった。何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。これに山口の人の一部が加わる。その外は中国一円から東北まで、
悉く軟派である。
その癖硬派たるが書生の本色で、軟派たるは多少
影護い処があるように見えていた。紺足袋小倉袴は硬派の服装であるのに、軟派もその真似をしている。只軟派は同じ服装をしていても、袖をまくることが少い。肩を怒らすることが少い。ステッキを持ってもステッキが細い。休日に外出する時なんぞは、そっと絹物を着て白足袋を
穿いたり何かする。
そしてその白足袋の足はどこへ向くか。芝、浅草の楊弓店、根津、吉原、品川などの悪所である。不断紺足袋で外出しても、軟派は好く町湯に行ったものだ。湯屋には硬派だって行くことがないではないが、行っても二階へは登らない。軟派は二階を
当にして行く。二階には必ず女がいた。その頃の書生には、こういう湯屋の女と夫婦約束をした人もあった。下宿屋の娘なんぞよりは、無論一層下った
貨物なのである。
僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の中では、僕と
埴生庄之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
学校に
這入ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は
鰐口弦という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白
菊石の顔が長くて、前にしゃくれた
腮が
尖っている。
痩せていて背が高い。
若しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
幸に鰐口は硬派ではなかった。どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ているらしい。さればとて普通の軟派でもない。軟派の連中は女に好かれようとする。鰐口は
固より好かれようとしたとて好かれもすまいが、女を
土苴の如くに視ている。女は彼の為に、只性欲に満足を与える器械に過ぎない。彼は機会のある毎にその欲を遂げる。そして彼の飽くまで冷静なる眼光は、蛇の
蛙を
覗うように女を覗っていて、巧に乗ずべき機会に乗ずるのである。だから彼の醜を以てして、決して女に不自由をしない。その言うところを聞けば、女は金で自由になる物だ。女に好かれるには及ばないと云っている。
鰐口は女を馬鹿にしているばかりはでない。あらゆる物を馬鹿にしている。彼の目中には神聖なるものが絶待的に無い。折々僕のお父様が寄宿舎に尋ねて来られる。お父様が、
倅は子供同様であるから頼むと挨拶をなさると、鰐口は只はあはあと云って取り合わない。そして黙ってお父様の僕に訓戒をして下さるのを聞いていて、跡で
声いろを
遣う。
「精出して勉強しんされえ。鰐口君でもどなたでも、長者の云いんさることは、聴かにゃあ行けんぜや。若し
腑に落ちんことがあるなら、どういうわけでそう
為にゃならんのか、分りませんちゅうて、教えて貰いんされえ。わしはこれで帰る。土曜には待っとるから、
来んされえ。あはははは」
それからはお父様の事を「来んされえ」と云う。今日あたりは又来んされえの来る頃だ。又
最中にありつけるだろうなんぞと云う。人の親を思う情だからって何だからって、いたわってくれるということはない。「あの来んされえが君のおっかさんと
孳尾んで君を
拵えたのだ。あはははは」などと云う。お国の木戸にいたお爺さんと択ぶことなしである。
鰐口は講堂での出来は中くらいである。独逸人の教師は、答の出来ない生徒を塗板の前へ直立させて置く例になっていた。或るとき鰐口が答が出来ないので、教師がそこに立っていろと云った。鰐口は塗板に背中を持たせて空を
嘯いた。塗板はがたりと鳴った。教師は火のようになって
怒って、とうとう幹事に言って鰐口を禁足にした。しかしそれからは教師も鰐口を
憚っていた。
教師が憚るくらいであるから、級中鰐口を憚らないものはない。鰐口は僕に保護を加えはしないが、鰐口のいる処へ来て、僕に不都合な事をするものは無い。鰐口は外出するとき、僕にこう云って出て行く。
「おれがおらんと、又
穴を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」
僕は用心している。寄宿舎は長屋造であるから出口は両方にある。敵が右から来れば左へ逃げる。左から来れば右へ逃げる。それでも心配なので、あるとき向島の内から、短刀を一本そっと持って来て、
懐に隠していた。
二月頃に久しく天気が続いた。毎日学課が済むと、埴生と運動場へ出て遊ぶ。外の生徒は二人が盛砂の中で
角力を取るのを見て、まるで
狗児のようだと云って冷かしていた。やあ、黒と白が
喧嘩をしている、白、負けるななどと声を掛けて通るものもあった。埴生と僕とはこんな風にして遊んでも、別に話はしない。僕は貸本をむやみに読んで、子供らしい空想の世界に住している。埴生は教場の外ではじっとしていない
性なので、本なぞは読まない。一しょに遊ぶと云えば、角力を取る位のものであった。
或る寒さの強い日の事である。僕は埴生と運動場へ行って、今日は寒いから
駆競にしようというので、駈競をして遊んで帰って見ると、鰐口の処へ、同級の生徒が二三人寄って相談をしている。間食の相談である。大抵間食は弾豆か焼芋で、生徒は
醵金をして、小使に二銭の使賃を遣って、買って来させるのである。今日はいつもと違って、大いに
奢るというので、
盲汁ということをするのだそうだ。てんでに出て何か買って来て、それを一しょに鍋に叩き込んで食うのである。一人の男が僕の方を見て、金井はどうしようと云った。鰐口は僕を横目に見て、こう云った。
「芋を買う時とは違う。小僧なんぞは仲間に
這入らなくても好い」
僕は
傍を向いて聞かない振をしていた。誰を仲間に入れるとか入れないとか云って、
暫く相談していたが、程なく皆出て行った。
鰐口の性質は
平生知っている。彼は権威に屈服しない。人と
苟も合うという事がない。そこまでは好い。しかし彼が何物をも神聖と認めない為めに、
傍のものが苦痛を感ずることがある。その頃僕は彼の性質を刻薄だと思っていた。それには、彼が漢学の素養があって、いつも机の上に
韓非子を置いていたのも、
与って力があったのだろう。今思えば刻薄という評は黒星に
中っていない。彼は cynic なのである。僕は後に Theodor Vischer の書いた Cynismus を読んでいる間、始終鰐口の事を思って読んでいた。Cynic という語は希臘の kyon 犬という語から出ている。犬学などという訳語があるからは、犬的と云っても好いかも知れない。犬が
穢いものへ鼻を突込みたがる如く、犬的な人は何物をも穢くしなくては気が済まない。そこで神聖なるものは認められないのである。人は神聖なるものを多く有しているだけ、弱点が多い。苦痛が多い。犬的な人に逢っては
叶わない。
鰐口は人に苦痛を覚えさせるのが常になっている。そこで人の苦痛を何とも思わない。刻薄な処はここから生じて来る。強者が弱者を見れば可笑しい。可笑しいと面白い。犬的な人は人の苦痛を面白がるようになる。
僕だって人が大勢集って
煮食をするのを、ひとりぼんやりして見ているのは苦痛である。それを鰐口は知っていて、面白半分に仲間に入れないのである。
僕は皆が食う間外へ出ていようかと思った。しかし出れば逃げるようだ。自分の部屋であるのに、人に勝手な事をせられて逃げるのは残念だと思った。さればといって、口に唾の
湧くのを呑み込んでいたら彼等に笑われるだろう。僕は外へ出て
最中を十銭買って来た。その頃は十銭最中を買うと、大袋に一ぱいあった。それを机の下に
抛り込んで置いて、ランプを附けて本を見ていた。
その中盲汁の仲間が段々帰って来る。炭に石油を
打っ掛けて火をおこす。食堂へ鍋を取りに行く。醤油を盗みに行く。買って来た
鰹節を掻く。汁が煮え立つ。てんでに買って来たものを出して、鍋に入れる。一品鍋に
這入る毎に笑声が起る。もう煮えたという。まだ煮えないという。鍋の中では箸の白兵戦が始まる。酒はその頃
唐物店に売っていた gin というのである。黒い
瓶の肩の怒ったのに這入っている
焼酎である。
直段が安いそうであったから、定めて下等な酒であったろう。
皆が折々僕の方を見る。僕は澄まして、机の下から最中を一つずつ出して食っていた。
Gin が利いて来る。血が頭へ上る。話が
下へ
下って来る。盲汁の仲間には硬派もいれば軟派もいる。軟派の
宮裏が硬派の
逸見にこう云った。
「どうだい。逸見なんざあ、
雪隠へ這入って下の方を覗いたら、僕なんぞが、裾の間から
緋縮緬のちらつくのを見たときのような心持がするだろうなあ」
逸見が怒るかと思うと大違で、真面目に返事をする。
「そりゃあお
情所から出たものじゃと思うて見ることもあるたい」
「あはははは。女なら話を極めるのに、手を握るのだが、少年はどうするのだい」
「やっぱり手じゃが、こぎゃんして」
と宮裏の手を
掴まえて、手の平を指で押して、承諾するときはその指を握るので、嫌なときは握らないのだと説明する。
誰やら逸見に何か歌えと勧めた。逸見は歌い出した。
「雲のあわやから鬼が
穴う
突ん出して縄で縛るよな
屁をたれた」
甚句を歌うものがある。詩を吟ずるものがある。
覗機関の口上を真似る。
声色を遣う。そのうちに、鍋も瓶も次第に
虚になりそうになった。軟派の一人が、何か近い処で好い物を発見したというような事を言う。そんなら今から
往こうというものがある。
此間門限の五分前に出ようとして留められたが、まだ十五分あるから大丈夫出られる。出てさえしまえば、
明日証人の証書を持って帰れば好い。証書は、印の押してある紙を貰って持っているから、出来るというような話になる。
盲汁仲間はがやがやわめきながら席を
起った。鰐口も一しょに出てしまった。
僕は最中にも食い
厭きて、本を見ていると、
梯子を
忍足で上って来るものがある。猟銃の音を聞き慣れた鳥は、
猟人を近くは寄せない。僕はランプを吹き消して、窓を明けて屋根の上に出て、窓をそっと締めた。露か霜か知らぬが、瓦は薄じめりにしめっている。戸袋の蔭にしゃがんで、懐にしている短刀の
をしっかり握った。
寄宿舎の窓は皆雨戸が締まっていて、小使部屋だけ障子に
明がさしている。足音は僕の部屋に這入った。あちこち歩く様子である。
「今までランプが付いておったが、どこへ往ったきゃんの」
逸見の声である。僕は息を
屏めていた。
暫くして足音は部屋を出て、梯子を降りて行った。
短刀は幸に用足たずに済んだ。
*
十四になった。
日課は相変らず苦にもならない。暇さえあれば貸本を読む。次第に早く読めるようになるので、馬琴や京伝のものは殆ど読み尽した。それからよみ本というものの中で、外の作者のものを読んで見たが、どうも面白くない。人の借りている人情本を読む。何だか、男と女との関係が、美しい夢のように、心に浮ぶ。そして余り深い印象をも与えないで過ぎ去ってしまう。しかしその印象を受ける度毎に、その美しい夢のようなものは、容貌の立派な男女の
享ける福で、自分なぞには企て及ばないというような気がする。それが僕には苦痛であった。
埴生とはやはり一しょに遊ぶ。暮春の頃であった。月曜日の午後埴生と散歩に出ると、埴生が好い処へ連れて行って遣ろうと云う。何処だと聞けば、近処の小料理屋なのである。僕はそれまで
蕎麦屋や牛肉屋には行ったことがあるが、お父様に連れられて、飯を食いに王子の扇屋に這入った外、御料理という看板の掛かっている家へ這入ったことがないのだから、
非道く驚いた。
「そんな処へ君はひとりで行けるか」
「ひとりじゃあない。君と行こうというのだ」
「そりゃあ分かっている。僕がひとりというのは、大きい人に連れられずに行けるかというのだ。一体君はもう行ったことがあるのか」
「うむ。ある。
此間行って見たのだ」
埴生は
頗る得意である。二人は
暖簾を
潜った。「いらっしゃい」と一人の女中が云って、僕等を見て、今一人の女中と目引き袖引き笑っている。僕は
間が悪くて引き返したくなったが、埴生がずんずん這入るので、しかたなしに附いて這入った。
埴生は料理を
誂える。酒を誂える。君は酒が飲めるかというと、飲まなくても誂えるものだという。女中は物を運んで来る度に、暫く笑いながら立って見ている。僕は堅くなって、口取か何かを食っていると、埴生がこんな話をし出した。
「昨日は実に愉快だったよ」
「何だ」
「おじの年賀に呼ばれて行ったのだ。そうすると、芸者やお酌が大勢来ていて、まだ外のお客が集まらないので、遊んでいた。そのうちのお酌が一人、僕に一しょに行って庭を見せてくれろと云うだろう。僕はそいつを連れて庭へ行った。池の
縁を廻って
築山の処へ行くと、黙って僕の手を握るのだ。それから手を引いて歩いた。愉快だったよ」
「そうか」
僕は一語を讃することを得ない。そして僕の頭には例の夢のような美しい想像が浮んだ。なる程埴生なら、綺麗なお酌と手を引いて歩いても、好く似合うだろうと思った。埴生は美少年であるばかりではない。着物なぞも相応にさっぱりしたものを着ているのであった。
こう思うと共に、僕はその事が、いかにも自分には縁遠いように感じた。そして不思議にも、人情本なんぞを読んで空想に
耽ったときのように、それが苦痛を感じさせなかった。僕はこの事実に出くわして、
却ってそれを当然の事のように思った。
埴生は間もなく勘定をして料理屋を出た。察するに、埴生は女の手を握った為めに祝宴を設けて、僕に馳走をしたのであったろう。
僕はその頃の事を思って見ると不思議だ。何故かというに、人情本を見た時や、埴生がお酌と手を引いて歩いた話をした時浮んだ美しい想像は、無論恋愛の
萌芽であろうと思うのだが、それがどうも性欲その物と密接に
関聯していなかったのだ。性欲と云っては、この場合には適切でないかも知れない。この恋愛の萌芽と Copulationstrieb とは、どうも別々になっていたようなのである。
人情本を見れば、接吻が、西洋のなんぞとまるで違った性質の接吻が叙してある。僕だって、恋愛と性欲とが関係していることを、悟性の上から解せないことはない。しかし恋愛が懐かしく思われる割合には、性欲の方面は発動しなかったのである。
或る記憶に残っている事柄が、直接にそれを証明するように思う。僕はこの頃悪い事を覚えた。これは甚だ書きにくい事だが、これを書かないようでは、こんな物を書く甲斐がないから書く。西洋の寄宿舎には、青年の生徒にこれをさせない用心に、両手を
被布団の上に出して寝ろという規則があって、舎監が夜見廻るとき、その手に気を附けることになっている。どうしてそんな事を覚えたということは、はっきりとは分からない。あらゆる穢いことを好んで口にする鰐口が、いつもその話をしていたのは事実である。その外、少年の顔を見る度に、それをするかと云い、小娘の顔を見る度に、或る体の部分に毛が生えたかと云うことを決して忘れない人は沢山ある。それが教育というものを受けた事のない卑賤な男なら是非が無い。紳士らしい顔をしている男にそういう男が沢山ある。寄宿舎にいる年長者にもそういう男が多かった。それが僕のような少年を
揶揄う
常套語であったのだ。僕はそれを試みた。しかし人に聞いたように愉快でない。そして跡で非道く頭痛がする。
強いてかの可笑しな画なんぞを想像して、反復して見た。今度は頭痛ばかりではなくて、
動悸がする。僕はそれからはめったにそんな事をしたことはない。つまり僕は内から促されてしたのでなくて、入智慧でしたので、
附焼刃でしたのだから、だめであったと見える。
或る日曜日に僕は向島の内へ帰った。帰って見ると、お父様がいつもと違って
烟たい顔をして黙っておられる。お母様も心配らしい様子で、僕に優しい詞を掛けたいのを控えてお
出なさるようだ。元気好く帰って行った僕は拍子抜がして、暫く二親の顔を見競べていた。
お父様が、
烟草を呑んでいた
烟管で、常よりひどく灰吹をはたいて、口を切られた。お父様は巻烟草は
上らない。いつも雲井という烟草を上るに極まっていたのである。さてお話を聞いて見ると、僕の罪悪とも思わなかった罪悪が、お父様の耳に入ったのである。それはかの手に関係する事ではない。埴生との交際の事である。
同じ学校の上の級に
沼波というのがあった。僕は顔も知らないが、先方では僕と埴生との
狗児のように遊んでいるのを
可笑がって見ていたものと見える。この沼波の保証人が向島にいて、お父様の碁の友達であった。そこでお父様はこういう事を聞かれたのである。
金井は寄宿舎じゅうで一番小さい。それに学課は好く出来るそうだ。その友達に埴生というのがいる。これも相応に出来る。しかし二人の性質はまるで違う。金井は落着いた少年で、これからぐんぐん伸びる人だと思うが、埴生は早熟した才子で、鋭敏過ぎていて、前途が
覚束ない。二人はひどく仲を好くして、一しょに遊んでいるようだが、それは外に相手がないから、小さい同志で遊ぶのであろう。ところがこの頃になって、金井の為めには、埴生との交際が
頗る危険になったようである。埴生は金井より二つ位年上であろう。それが江戸の町に育ったものだから、都会の悪影響を受けている。近頃ひとりで料理屋に行って、女中共におだてられるのを面白がっているのを見たものがある。酒も呑み始めたらしい。
尤も甚しいのは、或る楊弓店の女に帯を買って遣ったということである。あれは堕落してしまうかも知れない。どうぞ金井が一しょに堕落しないように、引き分けて遣りたいものだということを、沼波が保証人に話したのである。
お父様はこの話をして、何か埴生と一しょに悪い事をしはしないか。したなら、それを打明けて言うが好い。打明けて言って、これから先しなければ、それで好い。とにかく埴生と交際することは、これからは
止めねば行かぬと
仰ゃるのである。お母様が側から沼波さんもお前が悪い事をしたと云ったのではないそうだ、お前は何もしたのではあるまい、これからその埴生という子と遊ばないようにすれば好いのだと仰ゃる。
僕は恐れ入った。そして正直に埴生に、料理屋へ連れて行かれた事を話した。しかしそれが埴生の祝宴であったということだけは、言いにくいので言わなかった。
埴生と絶交するのは、余程むつかしかろうと思ったが、実際殆ど自然に事が運んだ。埴生は間も無く落第する。退学する。僕はその
形迹を失ってしまった。
僕が洋行して帰って
妻を貰ってからであった。或日の留守に、埴生庄之助という名刺を置いて行った人があった。株式の売買をしているものだと言い置いて帰ったそうだ。
*
同じ歳の夏休に向島に帰っていた。
その頃好い友達が出来た。それは
和泉橋の東京医学校の預科に這入っている
尾藤裔一という同年位の少年であった。裔一のお父様はお邸の会計で、文案を受け持っている
榛野なんぞと同じ待遇を受けている。家もお長屋の隣同志である。
僕のお父様はお邸に近い処に、小さい地面附の家を買って、少しばかりの畠にいろいろな物を作って楽んでおられる。
田圃を隔てて引舟の通が見える。裔一がそこへ遊びに来るか、僕がお長屋へ往くか、大抵離れることはない。
裔一は平べったい顔の黄いろ味を帯びた、しんねりむっつりした少年で、漢学が好く出来る。菊池三渓を
贔負にしている。僕は裔一に借りて、晴雪楼
詩鈔を読む。
本朝虞初新誌を読む。それから三渓のものが出るからというので、僕も浅草へ行って、花月新誌を買って来て読む。二人で詩を作って見る。漢文の小品を書いて見る。先ずそんな事をして遊ぶのである。
裔一は小さい道徳家である。埴生と話をするには、僕は遣り放しで、少しも自分を拘束するようなことは無かったのだが、裔一と何か話していて、少しでも野卑な詞、
猥褻な詞などが出ようものなら、彼はむきになって怒るのである。彼の想像では、人は進士及第をして、先生のお嬢様か何かに思われて、それを正妻に迎えるまでは、色事などをしてはならないのである。それから天下に名の聞えた名士になれば、
東坡なんぞのように、芸者にも大事にせられるだろう。その時は絹のハンケチに詩でも書いて遣るのである。
裔一の処へ行くうちに、裔一が父親に連れられて出て、いない事がある。そういう時に好く、長い髪を
項まで分けた榛野に出くわす。榛野は、僕が外から裔一を呼ぶと、僕が這入らないうちに、内から障子を開けて出て、帰ってしまう。裔一の母親があとから送って出て、僕にあいそを言う。
裔一の母親は継母である。ある時裔一と一しょに晴雪楼詩鈔を読んでいると、
真間の
手古奈の事を詠じた詩があった。僕は、ふいと思い出して、「君のお母様は本当のでないそうだが、
窘めはしないか」と問うた。「いいや、窘めはしない」と云ったが、彼は母親の事を話すのを嫌うようであった。
或日裔一の内へ往った。八月の晴れた日の午後二時頃でもあったろうか。お長屋には、どれにも竹垣を結い
廻らした小庭が附いている。尾藤の内の庭には、縁日で買って来たような植木が四五本次第もなく植えてある。日が砂地にかっかっと照っている。御殿のお庭の植込の茂みでやかましい程鳴く蝉の声が聞える。障子をしめた尾藤の内はひっそりしている。僕は竹垣の間の小さい
柴折戸を開けて、いつものように声を掛けた。
「裔一君」
返事をしない。
「裔一君はいませんか」
障子が開く。例の髪を項まで分けた榛野が出る。色の白い、
撫肩の、背の高い男で、純然たる東京詞を遣うのである。
「裔一君は留守だ。ちっと僕の処へも遊びに来給え」
こう云って長屋隣の内へ帰って行く。
鳴海絞の
浴衣の
背後には、背中一ぱいある、派手な模様がある。尾藤の奥さんが
閾際にいざり出る。
水浅葱の手がらを掛けた丸髷の
鬢を両手でいじりながら、僕に声を掛ける。奥さんは東京へ出たばかりだそうだが、これも純然たる東京詞である。
「あら。金井さんですか。まあお上んなさいよ」
「はい。しかし裔一君がいませんのなら」
「お父さんが釣に行くというので、附いて行ってしまいましたの、裔一がいなくたって好いではございませんか。まあ、ここへお掛なさいよ」
「はい」
僕はしぶしぶ縁側に腰を掛けた。奥さんは不精らしく又少しいざり出て、片膝立てて、僕の側へ、体がひっ附くようにすわった。汗とお白いと髪の油との匂がする。僕は少し脇へ
退いた。奥さんは何故だか笑った。
「好くあなたは裔一のような子と遊んでおやんなさるのね。あんなぶあいそうな子ってありゃしません」
奥さんは目も鼻も口も馬鹿に大きい人である。そして口が四角なように僕は感じた。
「僕は裔一君が大好です」
「わたくしはお嫌」
奥さんは頬っぺたをおっ附けるようにして、横から僕の顔を
覗き込む。息が顔に掛かる。その息が妙に熱いような気がする。それと同時に、僕は急に奥さんが女であるというようなことを思って、何となく恐ろしくなった。多分僕は
蒼くなったであろう。
「僕は又来ます」
「あら。好いじゃありませんか」
僕は
慌てたように起って、三つ四つお辞儀をして駈け出した。御殿のお庭の植込の間から、お池の水が小さい
堰塞を
踰して流れ出る溝がある。その縁の、杉菜の生えている砂地に、植込の高い木が、少し西へいざった影を落している。僕はそこまで駈けて行って、仰向に砂の上に寝転んだ。すぐ上の処に、
凌霄の燃えるような花が
簇々と咲いている。蝉が盛んに鳴く。その外には何の音もしない。Pan の神はまだ目を
醒まさない時刻である。僕はいろいろな想像をした。
それからは、僕は裔一と話をしても、裔一の母親の事は口に出さなかった。