それから後は、フランスの事は
「どうも已むを得ませんから、其筋へ上申して見ようかと思ひます。御職権外の事をなさるやうですから。」詞に
「併しあなただつてわたくしが丸で理由なしに、こんな事をし出したのだとは思はないでせうが。」
「それは御辯解が出来るなら、其筋でなさつたら好いでせう。」
「わたくしが何もフランスにしろ、外の国にしろ、余所の国に対して、どうと云ふ考のないことは、あなただつてお分かりでせうがなあ。」
大ぶ話の調子が変つてゐるので、夫人は戸の外で立聞をしてゐる。そしてかう思つてゐる。「なんだつて、此頃は二人で喧嘩ばかりしてゐるのだらう。変な事になつたものだ。」とう/\夫人は戸を開けて這入つた。
「あなた、なぜそんなに宅をお困らせなさいますの。こんな年寄りを。」
「好いよ/\、グラツシヤア。お前なんぞが出なくても好いよ。ほんに/\己は気でも違はなければ好いが。」
「ねえ、あなた。ミハイル・イワノヰツチユさん。宅は新聞の事で、随分色々な目に逢つてゐますのですから、どうぞあなたまでが、そんなに仰やらないで。」
「いゝえ、奥さん、どうもそれは違ひますなあ。わたくしが御主人をおいぢめ申すのではありません。御主人がわたくし共をおいぢめになりますので。」
「あら。そんな事を仰やつたつて、わたくし本当だとは思ひません。蠅一匹殺さない宅の事でございますもの。」
プラトンの出る地方庁の事務室にも、自宅にも電話が掛かつてゐる。役所に出てゐても、内にゐても、ちりん/\と
「もし/\。あんな記事をなぜ出させるのですか。」
「あなたはどなたです。」
「鉄道課長です。」
「なんと仰やるのですか。」
「なぜ新聞にあんな記事をお出させになるかと申すので。」
プラトンは受話器を耳に当てた儘で黙つてゐる。その顔付きは丸で途方にくれたやうである。
「いづれ其筋に申出ます。さやうなら。」電話は切れた。
プラトンは奮然として受話器を
「どなたです。」
「知事だがね。」
プラトンはびつくりして顔が
電話は切れた。「やれ/\。増俸も何もあつたものではない。こんな目に逢はずに済むことなら、こつちから三百ルウブル出しても好い。」
或る日編輯長がプラトンの事務室に、慌たゞしく這入つて来て、非常に不平な様子で、議論をし掛けた。
「あんまりひどいぢやありませんか。どう云ふお考だか、わたくしには丸で分かりませんなあ。なぜあの排水工事の記事をお削りになつたのです。」
此記事が削除せられたには、決して理由がないことはなかつた。それはかうである。先頃新聞に市の経理の記事が出た。プラトンが検閲して通過させたのである。ところが、その中に市の経理の失体を指
![※(「てへん+適」、第4水準2-13-57)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/2-13/2-13-57.png)
「どうも市長の事のある記事は通過させられないのです。侮辱だと云はれますからなあ。こつちがひどい目に逢ふです。いつかもあなたに話した筈ですが。」
「でも此記事には少しも市長を侮辱してゐる処はないぢやありませんか。排水工事の事が言つてある丈で。」
「一体排水工事とはどんな物ですかねえ。」かう云つて、記事を朗読し出した。市内が一般に不潔である。汚物が堆積して、土地に浸潤する。死亡比例が高い。ざつとこんな事が書いてあつて、その結論として、久しく委員の手に附托せられた儘になつてゐる排水工事案を解決して貰ひたいと云つてゐる。朗読を聞いてゐた編輯長が云つた。
「皆事実ぢやありませんか。」
「いゝ、え。事実でないです。」プラトンは臆病な心から、こんな記事を見ると、お上に対して喧嘩を買ふのだ、虚偽の事を書いて、其喧嘩の種にするのだとしか思はれなくなつてゐるのである。プラトンが為めには、市は外の市より清潔で、伝染病の巣窟ではないのである。
「いや。どうもいたし方がありません。其筋へお話をしませう。あまりひどいですから。」
「そんなら御勝手に。」
編輯長は冷淡に会釈をして、原稿を引つ攫んで行つてしまつた。一時間半程立つと、又非常に不平らしい顔をして、急いで這入つて来た。
「今市長の処へ行つて、全文を読んで貰つたのです。侮辱なんぞにはなつてゐないと云ふのです。これここに、差支なしと書いて貰つて来たですが。」
「市長が差支なくても、わたくしが差支があるです。」プラトンは強情にかう答へた。編輯長は又原稿を引つ掴んで行つた。それから二十分程立つと、電話がちりん/\と鳴つた。
「どなたですか。」
「知事だがなあ。なぜ排水工事の記事を削除するのか。」
プラトンの顔は真つ赤になつた。そして目をきよろ/\させて、救を求めるやうに、あたりを見廻した。それから間もなく真つ蒼になつた。そして先頃宴会で胴上げをせられた跡でしたやうな手附きをした。
「どうも、その、市の事があまり悪く書き過ぎてありますので。」微かな、不慥かな声である。
「なに。ちつとも聞えない。なーぜーはーいーすーゐーこーうーじーのーきーじーをーつーうーくわーさーせーなーいーかーと云ふのだがなあ。」
「余り悪く、実際より悪く書いてありますから。」
「なに。もつと大きな声で言はんか。」
プラトンは前の詞を今一度繰り返した。そして長官の返事を待つてゐる。受話器を持つてゐる手は震える。鼻の頭には大きな汗の玉が出てゐる。顔の表情には非常な恐怖が見えてゐる。長官はなんと云つたか知らないが、定めてひどく恐れ入らせられたことであらう。受話器を鉤に掛けた時には、常のやうに椅子へ
プラトンは水を一ぱい飲んだ。併し全身の疲労と不安とは恢復しない。脈が
「グラツシヤアや。どうも己はもう駄目らしいよ。」
電話の
「どうも個人攻撃は行かん。我輩の監督してゐる汚物排除は善く行はれてゐるのに、毎号新聞で悪く言つてある。なぜあんな記事を通過させるのですか。どうも其筋へ言はんでは済まされんです。怪しからん。」
そのうち体の中で不思議な感じがした。何物かがちぎれて、ちく/\引き吊つて、ぶる/\震えてゐる。それから傍の卓の上にあるコツプの水を取つて飲まうとすると、右の手が言ふことを聞かなくなつてゐた。丸で手ではなくて外の物のやうであつた。
プラトンはびつくりして、「グラツシヤア」と一声呼んだ。その声が小さくて、
「お父うさん。何御用。お母あさんを呼びませうか。」
夫人が室に這入つた時には、プラトンは泣いてゐた。そして左の手と足とが利かなくなつて、右の目が見えなくなつたのを、容易に打ち明けて言はなかつた。
――――――――――――
夫人の話の済んだ時は二時が鳴つてゐた。
「さあ。もうそろ/\行かなくちやあ。」学士がかう云つた。
「もう目を醒ましてゐるかも知れません。ちよつと見てまゐりませう。」夫人は泣き出しさうな声でかう云つて、病室へ行く。
「どれ。行つて見ませう。」学士は夫人の跡に附いて行く。
病室に這入つて見ると、プラトンはぢつとして、両眼を大きく
![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-88/1-88-85.png)