プラトン・アレクセエヰツチユ・セレダは床の中でぢつとしてゐる。死んでゐるかと思はれる程である。鼻は尖つて、干からびた顔の皮は紙のやうになつて、深く陥つた、
室内は殆ど真暗である。薄板を繋いだ
黒い服を着た、痩せた貴婦人が、苦痛を刻み附けられた顔をして、抜足をして、出たり這入つたりする。これが病人の妻グラフイラ・イワノフナである。女は耳を澄まして、病人の寐息を開く。それから仰向いて、燈明の小さい星のやうに照つてゐる奥の聖像を見る。それから痩せて、骨ばかりになつてゐる両手で、胸をしつかり押へて、唇を微かに動かす。
折々は大学の制服を着た青年が一人、不安らしい顔をして来て、二三分間閾の上に立つて、中の様子を窺つてゐて、頭を
こん度来たのは、脚の
「お父うさんはまだお目が醒めないかい。」と、母が問うた。
「いゝえ。」
「もう一遍行つて見てお出。」
「こはいわ。お父うさんがこはい顔をしてゐるのだもの。」おもちやにしてゐた毬の手を停めてかう云つたとき、娘の顔は急に真面目になつて、おつ母さんそつくりに見えた。
「馬鹿な事をお言ひなさい。」
「だつて、お父うさんの目丈があたいを見てゐて、お父うさんは動かずにゐるの。」
子供のかう云ふのを聞いて涙ぐんだので、母は顔を
午後一時頃に、門口のベルがあら/\しい音を立てた。誰も彼も足を爪立てて歩いて、小声で物を言つてゐる家の事だから、此音は不似合に、乱暴らしく、無情に響いた。グラフイラ夫人はびつくりして、手で耳を塞ぎさうにした。耳を塞いだら、ベルの方で乱暴をしたのを恥ぢて黙つてしまふだらうとでも思ふらしく、そんなそぶりをした。それから溜息を衝いて、玄関の戸を開けに立つた。来たのが医者だと云ふことは知つてゐるのである。併し学生が一足先きに出て、戸を開けた。
「先生です。」学生は
学生は学士シメオン・グリゴリエヰツチユを信頼してゐる。学生の思ふには、今此家で抜足をせずに歩いて、声高に物を言つて、どうかすると笑つたり、笑談を言つたりすると云ふ権利を有してゐるものは、此学士ばかりである。
学士は玄関でさう/″\しい音をさせてゐる。ゴム
「どうですな。新聞に
「眠つてゐますが。」
「結構々々。それが一番好い。」
「おや。入らつしやいまし。」戸を開けた学士を見て、夫人がかう云つた。哀訴するやうな声音である。
「いや。奥さん。ひどい寒さですね。雪が沓の下できゆつきゆと云つてゐます。かう云ふ天気が僕は好きです。列氏の十八度とは恐れ入りましたね。御病人は。」
「あの矢張休んでゐます。先程お茶とパンを一つ戴きました。右の手はまだちつとも動きません。足の方も動きませんの。それに目も
「好うがす、好うがす。何もそんなに心配なさらなくても宜しい。沓がきゆつきゆと云ふには驚きましたよ。列氏十八度ですからね。」
学士はカナリア鳥をちよいと見て、ニノチユカの少し濃い
「どうだい。
「あたい蜻なんかぢやなくつてよ。」
「そんなら蚤だ。」
「あたいが蚤なら、あなたは南京虫よ。」不服らしい表情で、頭を俯向けて、かう云つた。
「はゝゝ。」学士は声高に笑つた。
娘はゴム毬を持つた手を背中に廻して、壁に附いて立つてゐて、口の悪いをぢさんを睨んでゐる。学士は中肉中背の男である。年頃は中年である。顔は人が好ささうで、目は笑つてゐる。性質は静かで、
「あの、宅が目の醒めまするまで、あちらへお出を願つて、何か少し差上げたいのでございますが」と、夫人が云つた。
「いや。丁度今少し御馳走になつて来たところです。酒を一杯。パアテを二つ遣つて来ました。一つは肉を詰めたので、一つはシユウを詰めたのでしたよ。」
「そんならお茶なりとも」と、夫人は泣き出しさうな声で勧めた。
「お茶ですか。なる程、ぢやあ頂戴しませうかな。こんな寒い日には悪くないですな。」
一同食堂に這入つた。こゝには卓の上に、てら/\光る、気持の好い、腹のふくらんだサモワルがたぎつてゐる。そしてバタ附きのパンの匂がする。明るい居心の好い一間である。どうも主人が病気で、腰が立たないと云ふことなんぞは、此食堂は知らずにゐるらしい。サモワルはいつものやうに、綺麗に手入れがしてあつて、卓に被つてある
「あら。又新聞を机の上に置いたね。持つて来ておくれでないと云つたぢやないか」と、夫人は囁くやうに云つて、顔をサモワルの蔭に隠した。目が涙ぐんで来たからである。
学生は一寸肩をゆすつて、新聞を持つて、どこかへ隠しに行つた。そして帰つて来て見ると、母はまだ泣いてゐる。
「あれがお父うさんを殺すのだよ」と、サモワルの蔭から囁きの声が漏れた。そして卓が少しぐら附いて、上に載せてある
「奥さん。困りますな。お泣きになるにはまだちつと早過ぎます。お歎きになる理由がありません。」学士は匙で茶を掻き交ぜながら、かう云つた。「まだ好くなるかも知れません。足が立つて、目が明かないには限りません。落胆なさつてはいけない。あなたも、御主人も、落ち着いてお出になるのが肝心です。あんまり御心配なさり過ぎる。あの大佐の先生はどうです。両脚ともなくなつてゐますぢやありませんか。泣きなんぞはしない。立派に暮してゐる。上機嫌でさあ。恩給を頂戴して、天帝の徳を称へてゐるのです。」学士はかう語り続けた。
「宅なんぞでは、まだ三年勤めなくては、恩給は戴けません。」サモワルの蔭から、夫人は悲しげな声でかう云つて、涙を拭いた。「それに子供も二人あります。」かう云つて鼻をかんだ。
「二人あつて結構ぢやありませんか。兄いさんは学士になつて、お役人になります。無論出版物検閲官丈は御免を蒙るですな。蜻も大きくなつて、およめに行きます。きつとすばらしい、えらい婿さんがありますよ。」
「それはどうか取り留めて戴きまして、恩給の戴けるやうになるまで、もう三年お勤をいたして、そこでお役を罷めるのなら、宜しうございますが。いゝえ。どうもそんな都合の好い事にはなりますまいと存じます。あんなに弱り切つてゐますからね。まあ、なんと云ふ厭な新聞でせう。わたくし共一
「成行を考へて見ますと悲しうございます」と、夫人は病気の顛末を話した。
プラトンは、多くも少くもない、中等の俸給を貰つてゐる役人の常として、これまで始終控へ目勝ちに、平穏な生活をしてゐた。困窮もしないが、贅沢にも陥いらない。心に明るい印象を受けず、深い感じも起さずに、灰色の歓喜、灰色の苦労から成り立つた灰色の生活をしてゐた。此人の幸福は無智な、
高等学校に入れてある倅は、好い成績も得ないが、それだと云つて、進歩の悪い方でもない。足で蹴られる小桶のやうに、下の級から上の級へ押し遣られてゐる。娘ニノチユカは段々大きくなる。カナリア鳥は囀る。イイスタア祭になると、賞与を貰ふ。
春夏秋冬が交る/″\過ぎて、幾年にかなつた。相応な年配になると、病気が出る。痔が起る。頭が禿げる。顔の皺が段々繁くなる。とう/\プラトンは五十八歳になつた。
プラトンは年齢の割には丈夫である。外の人はまだ下級参事官でゐるうちに、標本のやうに干からびたり、考古学の参考品のやうな形になつたりする。プラトンばかりは、奥さんの詞で言へば、「まだ御用に立つ男」である。当人ももう生涯が残り少なくなつて、程なく窮屈な箱に入れて、最終の届先へ遣られようと云ふ立場に到着する筈でありながら、そんな事は思はずに、未来に望を属してゐた。
市へ新しい地方長官が来た。公民の進歩派が多年発行したがつてゐる新聞紙を、これまでの長官は抑へて出させずにゐたのに、新長官は一般の為めに有益だと云つて、出させることにした。多年の希望は実現せられた。市は始て輿論の機関を得た。題号はポシエホンスキイ・ヘロルドと云ふのである。
地方には副長官といふものがある。併し現に此職にゐる人は断えず旅行してゐる。冬はクリムにゐる。夏はカウカズスにゐる。旅行してゐない時はきつと病気である。そこで新聞紙の検閲官の役を、最古参の参事官即ちプラトンが担任することになつた。
さて発行認許がいよ/\下がつたと云ふことになると、市中のものが