「殿様からお召しがありましたので、今朝から京へまいって今が帰りです。いろいろと御用を仰せつけられましたついでに、こうしてここに奥様をお置きになっていらっしゃって、夜中でも夜明けでも御用には私らが宇治にいるのであるからと思召して、京のお邸から宿直の侍などはおよこしにならなかったところが、このごろになって、こちらの女房衆の所へよその人が通って来る話を聞いた、不届きだ、宿直に行っている者は出入りの人の名を聞いたはずだ、知らないで門を通すはずはないではないか、何という人が来たのかとこうお尋ねになったのですが、私は何も承知しないことですから、私は重い病気をしておりまして、そんなことのありましたのも、来た人はだれかということも存じません。ただしお役にたつような男はかわるがわる差し上げてあるのですから、ただ今お話のようなとんでもない事件がありますれば私の耳にはいっていぬはずはございませんとお取り次ぎをもって申していただいて来ました。気をつけて別荘を守れ、悪いことが起これば重い罰を加えるからという仰せがあったので、どんな罰にあうのかと恐れていますよ」 これを聞いていて右近は、梟の啼き声を聞くより恐ろしく感じた。答えもできず内舎人を帰したあとで、 「とうとうこんなことになりました。私が申していたとおりのことをお聞きになることになりました。大将様はあの秘密を皆お知りになったのですよ。お手紙もあれからまいりませんね」 などと姫君に言って歎息をした。乳母は内舎人の話を少し聞いていて、 「よく御注意をしてくださいましたわね。盗人などの多い土地だのに宿直の人だって初めほど頼もしい人は来ていなかったのですからね、代役だと言って下っぱの者をよこすようになって、その人たちというものは夜まわりをすらしないのですから」 と喜んでいた。浮舟はこうして寂しい運命のきわまっていくことを感じている時、宮から決心ができたはずであるとお言いになり、「君に逢はんその日はいつぞ松の木の苔の乱れてものをこそ思へ」というようなことばかり書いておいでになった。どちらへ行っても残る一人に障りのないことは望めない、自分の命だけを捨てるのが穏やかな解決法であろう、昔は恋を寄せてくる二人の男の優劣のなさに思い迷っただけでも身を投げた人もあったのである、生きておれば必ず情けないことにあわねばならぬ自分の命などは惜しくもない、母もしばらくは歎くであろうが、おおぜいの子の世話をすることで自然に自分の死のことは忘れてしまうであろう、生きていて身をあやまり、嘲笑を浴びる人になってしまうのは、母のためには自分の死んだよりも苦しいことに違いないと浮舟は死のほうへ心をきめていった。子供らしくおおようで、なよなよと柔らかな姫君と見えるが、人生の意義というものを悟るだけの学識も与えられずに成長した人であるから自殺というような思いきったこともする気になったらしい。あとで人の迷惑になりそうな反古類を破って、一度には処分せずある物は焼き、また水へ投げ入れさせなどしておいおいに皆なくしていった。秘密の片端も知らぬ女房などは、ほかへ移転をされるのであるから、つれづれな日送りをしておいでになる間にたまった手習いの紙などを破ってしまうのであろうと思っていた。侍従などの見つける時には、 「なぜそんなことをなさいますか。思い合った中でお取りかわしになったお手紙は、人にはお見せになるものではありませんでも、箱の底へでもしまってお置きになりまして、時々出して御覧になりますのが、どの女性にも共通した楽しいことになっておりますよ。この上もないお紙をお使いになりまして、美しい御文章でおしたためになったものを、そんなに皆お破りになりますのは情けないことではございませんか」 こんなふうに言ってとめる。 「いいのよ。私にはもう長い命はないようだからね。あとへ残ってはお書きになった方の迷惑にもなって気の毒よ。悪い趣味だ、愛人の手紙などをしまっておくなどとまたお思いになる方があっても恥ずかしいしね」 などと浮舟は言うのであった。死というものの心細い本質を思ってはまだ自殺の決行はできないらしいのももっともである。親よりも先に死んで行く人は罪が深くなるそうであるがなどとさすがに仏教の教理も聞いていて思いもするのである。 二十日過ぎにもなった。宮が交渉しておありになった家の住み主が二十八日に家をあけて立つことになっていて、
その二十八日の夜に必ず迎えに行きます。下人などに出かけるのを悟らせぬように気をおつけなさい。自分のほうから秘密のもれるようなことは絶対にありません。疑いを持たずにいてください。
というようなお手紙が来た。そうした無理な工作をしておいでになっても、もう一度お話をすることすら不可能でそのままお帰しすることになるのは悲しい。またどんな短時間でもこの家へお入れすることはできるものでないと思う浮舟が失望して自身を恨みながらお帰りになる様子を想像すると、常に去らない幻がまたありありと見えて、悲しかった。宮のお手紙を顔に押しあててしばらくは忍んで泣いていたが、そのうち声にも出してひどく泣いた。右近が、 「お姫様はこんなふうにしていらっしゃいますと人が皆悟ってしまいます。近ごろは不審を起こしかけた人たちもあるようでございます。こんなに一つのことを断ち切れない御心配になさいませんで、宮様へは御同意なさいましたことを書いておあげなさいましよ。私がおります以上、どんな大それたことでございましても取り繕いまして、こんなお小さいお身体一つは空からでもおつれ出しいたします」 と言うのを聞いて、 「そんなふうに私の心を解釈されるのが苦しい。そうしたいと私が望んでいるのならそれでいいけれど、してはならないことだと、どんなことも皆私は否定しているのに、このお手紙のように信じていらっしゃるのかと思うと、あの方はこれからのちにまたどんなことをあそばすだろうと不安でならなくて、私は今運命を悲しんでいるのよ」 と浮舟は言い、お返事は書かなかった。 兵部卿の宮は出奔してくることを浮舟が受諾して来ないし、返事さえ一つ一つは書いてよこさなくなったのは、大将が上手に、その人をなだめてしまい、自分へ来るより安定のありそうな境遇を選ばせることにしたのであろう、それは道理でもあると思召すのであったが、御自身としては残念でねたましく、今の態度はこうであっても、確かに自分をあの人は愛していたのだ、逢わないうちに周囲の者からよけいな忠告をされて、そのほうへ心が傾いたのであろうと物思いをしておいでになると、「わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行き方のなき」というふうにもなっていくため、例の無理をあそばして宇治へおいでになった。 蘆垣のところへ近づいておいでになると、これまでとは変わり、 「そこへ来るのはだれだ」 と緊張した声でとがめる者が幾人もあった。そこからやや遠ざかっておいでになり、行きなれた侍だけをおやりになったが、それをさえ誰何した。以前の様子と変わったことをめんどうに思い、 「京から急用のお手紙を持って来たのです」 と侍は言った。右近の使っている侍の名を言って呼んでもらった。右近はこの上にもまた難儀なことが起こってくると思った。 「どうしても今夜はだめでございます。非常に恐縮しておりますが」 と宮へ申し上げさせた。宮はどうしてこんな冷淡な取り扱いをするのであろうと、途方にくれたように思召して、 「ともかくも時方が行って、侍従を呼び出して都合をつけさせてくれ」 とお言いになり、内記をまたおやりになった。時方は才子であったから上手に宇治侍を欺いて、侍従を呼び、話すことができた。 「どうしたのでしょうか、大将様から仰せがあったのだと言いまして、宿直する人が出過ぎたことばかりを言うようになりまして困ります。お姫様がめいってばかりいらっしゃいますのは、宮様の思召しにお報いになることがおできになりませんからかとお気の毒に拝見いたしております。ことに今夜はあの人らが厳重に見張っておりますから、お逢いにいらっしゃいましてはかえって悪いことになりそうでございます。またおよろしい日においでくださいますことを、前に知らせてお置きくださいましたら私ども秘密になんとかいたして都合をつけます」 と侍従は言い、乳母が寝敏いことも語った。時方は、 「並みたいていの道をおいでになったのではありませんからね、よくよくお逢いになりたい御様子なんですから、失望をおさせいたすようなお返辞はもったいなくて私からできません。それではあなたがそこまで来てくだすって、私も言葉を添えますが、あなたからお断わりを申し上げるようにしてください」 と言って、誘い出そうとした。それは無理である、ぜひそうしてと言い合っているうちにも夜もずっとふけてきた。 馬上の宮は少し遠くへ立っておいでになるのであったが、田舎風な犬が集まって来て吠え散らす。恐ろしい気がしてお供の少ない軽いお出歩きであったから、無法者が走って出て来たならどう防いでよいかなどと、四、五人の者は心配していた。 「どうしても来てくださることですよ。早く、早く」 とせきたてて時方は侍従をつれて来るのであった。髪を右の脇から前へ曲げて持っている侍従は美しい女房であった。馬に乗せようとするが承知しないために、衣服の裾を時方は持ってやりながら歩かせて行くのである。自身の沓を侍従にはかせて、内記は供男の草鞋ようのものを借りてつけた。 宮のおそばへまいって山荘の事情をお話し申し上げ、侍従を伴って来たことをお知らせしたが、お話しになる場所というようなものもなくて、田舎家の垣根の雑草の中にあふりというものを敷いて、そこへ宮をおおろしした。宮もこんな所で災厄にあって終わる運命で自分はあるのかもしれぬとお思われになり非常にお泣きになった。心の弱い者はましてきわめて悲しいことであるとお見上げしていた。どんな仇敵でも、鬼であっても、そこなえまいと見える美貌をお持ちになるはずである。しばらく躊躇をあそばしてから、 「ちょっとひと言だけ話をすることもできないのだろうか。どうして今になってそんなに厳重に見張るのだろう。そばの者がどんなことを言ってあの方の自由意志を曲げさせたのか」 と侍従へ仰せられた。山荘内のことをくわしく申し上げて、 「またおいでの思召しのございます前からおっしゃってくださいまして、私どもにできますことをさせてくださいませ。こんなもったいない御様子を拝見いたします以上、私は自分を喜んで犠牲にもいたしまして、よろしい計らいをいたします」 と侍従は申した。御自身も人目をはばかっておいでになるのであるから、恋人をだけお恨みになることもおできにならなかった。 夜はふけにふけてゆく。初めから吠えかかった犬はそれなりも声も休めずに騒がしく啼く。従者がそれを追いかけようとすると、山荘のほうでは弓の弦を鳴らし、荒武者の声で「火の用心」などと呼ぶ。落ち着かぬお心から帰ろうとあそばしながらも、宮のお心は非常に悲しかった。
「いづくにか身をば捨てんとしら雲のかからぬ山もなく泣くぞ行く
ではもう別れて行こう」 とお言いになり、侍従をお帰しになった。宮の御様子は艶で、夜中の霧に湿ったお召し物から立つ香はたとえようもなく感じのいいものであった。 侍従は泣く泣く帰って来た。右近が宮のおいでをお断わり申し上げたことを言ってから浮舟はいよいよ煩悶を深くして寝ていたが、侍従のはいって来て、外での様子を話すのに対して返辞はしないながら枕も浮き上がらんばかりの涙の出るのを、この人がどう思うかとまた恥じられもした。 翌朝も泣きはらした目を思うと浮舟は起きるのがつらくていつまでも寝ていた。 起きてからははかなそうな姿で、しかも仏へ敬意を表する型として帯の端を肩から後ろ向きに掛けなどしながら浮舟の姫君は経を読んでいた。親よりも先に死ぬ罪が許されたいためである。宮のお描きになった絵を出してながめているうちに、その時の手つき、美しかったお顔などがまだ近い所にあるように見えてくる。そんなにも心から離れない方であるから、最後にひと言のお話もできなかった昨夜のことは悲しくてならないはずである。初めから同じように永久愛して変わるまいと言っていた大将も、自分が死んだあとではどんなに歎くことであろうと思い、その人への恋を忘れて心の変わったために死んだと自殺後に言う人もあろうことの想像されるのも恥ずかしかったが、軽薄な女と思われ、宮のほうへ奔ったと大将に思われるよりはまだそのほうがいいと思い続けて、
歎きわび身をば捨つとも亡きかげに浮き名流さんことをこそ思へ
と詠まれもした。母も恋しかった。平生は思い出すこともない異父の弟妹の醜い顔をした人たちも恋しかった。二条の院の女王を思い出してみても、恋しい。またそのほかにももう一度だけ逢いたいと思われるのが多い。女房たちは皆晴れと思う移転の時の用に物を染めたり、縫い物をしたり、何やかやとそうしたことについて話し合っているが浮舟は耳に聞こうともしない。夜になると人に見つけられずに家を出て行くのはどこをどうして行けばいいかという計画ばかりされて眠れぬために気分も悪く、病人のようになっている浮舟であった。朝になれば川のほうをながめながら「羊の歩み」よりも早く死期の近づいてくることが悲しまれた。 宮からは悲しかった夜のことをお言いになり激情にあふれたお手紙を贈られた。死期に人の見るかもしれぬものであるからと思うと、このお返事にも浮舟は思うだけのことを書かなかった。
からをだにうき世の中にとどめずばいづくをはかと君も恨みん
とだけ書いて出した。 姫君は大将へも遺書としてのものを書いておきたく思ったが、あちらへもそちらへも書いておいて、親友でおありになる人たちの話に上ることがあれば、情操のないことと思われるかもしれぬ、朧にぼかしておいて、どうなったかわからぬように自分の消えてしまうのがいいのであると思い返した。 京の使いが母の手紙を持って来た。
昨夜の悪夢の中であなたを見たものですから、ほうぼうの寺へ誦経を頼みました。その夢のあとは眠られなかったものですから、今日また昼寝をしました夢に、人が大不吉だという夢の中でまたあなたを見たのです。驚きながらこの手紙を書きます。謹慎日はよく謹慎してお暮らしなさい。寂しいそのお家へ時々おいでになります大将の関係から、どんな呪を受けておいでになるかわからないのにあなたは病気だし、ちょうどこんな時に悪夢が続くので心配しています。私が行きたいのだけれど、少将の妻の産前の容体が不安で、物怪風に煩っていますから、しばらくでもそばを離れますことは主人がやかましいため出かけられませぬ。そこの近くの寺へも誦経を頼みなさい。
と書いて、寺へ納めるべき物、寺への依頼状も添えて持たせて来たのであった。 もう死ぬ覚悟をしている自分とも知らずに、こんなに心をつかっているかと浮舟は母の愛を悲しく思った。寺へその使いをやった間に、母への返事を姫君は書くのであった。言いたいことは多かったが気恥ずかしくて、ただ、
のちにまた逢ひ見んことを思はなんこのよの夢に心まどはで
とだけ書いた。誦経の初めの鐘の音が川風に混じって聞こえてくるのをつくづくと聞いて浮舟は寝ていた。
鐘の音の絶ゆる響きに音を添へてわが世尽きぬと君に伝へよ
これは寺から使いがもらって来た経巻へ書きつけた歌であるが、使いは朝になってから帰るというために木の枝へ結びつけて渡すようにしておいた。乳母が、 「何だか胸騒ぎがしてならない。奥様も悪夢をたくさん見ると書いておよこしになったのだから、宿直の人によく気をつけるように言いなさい」 と言っているのを、今夜脱出して川へ行こうとする浮舟は迷惑に思って聞いていた。 「お食事の進みませんのはどうしたことでしょう。お湯漬けでもちょっと召し上がってごらんになりませんか」 などと世話をやくのを、利巧ぶっても老人ふうになってしまったこの女は、自分が死んでしまえばどこへ行くであろうと、そんなことも想像して浮舟は悲しかった。もう寿命とは別にこの世から消えて行こうと思っているとほのめかして乳母に言おうとすると、まず自分自身が驚かされて涙の流れるのを隠そうとすれば、それでものが言えなかった。右近が近くへ来て、寝仕度をしながら、 「あんまり物思いをあそばすと、物思いする魂は身体を離れてしまいますから、奥様へも悪い夢になって現われるのでございましょう。どちらか一方へお心をお集めになって、どうにでも成り行きにおまかせなさいませ」 と歎息もしつつ告げた。 柔らかい着物を顔に押し当てるようにして浮舟の姫君は寝たそうである。
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