朝おそくなってから宮はお起きになり、病身になっておいでになる中宮がまた少しお悪いとお聞きになって御所へまいろうとされ、衣服を改めなどしておいでになった。心が惹かれてまた常陸夫人がのぞくと、正しく装束をされたお姿はまた似るものもないほど気高くお美しい宮は、若君へお心が残るようにいろいろとあやしておいでになる。粥、強飯などを召し上がり、この西の対からお車に召されるのであった。今朝からまいっていて控え所のほうにいた人々はこの時になってお縁側へ出て来て何かと御挨拶を申し上げたりしている中に、気どったふうを見せながら平凡でおもしろみのない顔をし、直衣に太刀を佩いているのがあった。宮のおいでになる前では目にもとまらぬ男であったが、 「あれがあの常陸守の婿の少将じゃありませんか。初めはあの姫君の婿にと定められていたのに、守の娘をもらってかばってもらおうという腹で、女にもでき上がっていない子供を細君にしたのですよ。そんなことをこちらなどで噂する者はありませんがね、守の邸に知った人があって私はその事情を知っているのですよ」 とほかの一人にささやいている女房があった。常陸の妻が聞いているとは知らずにこんなことの言われているのにもその人ははっとして、少将を相当な風采をした男と認めた以前の自身すらも、残念に腹だたしく、あの男と結婚をさせれば姫君の一生は平凡なものになってしまうのであったと思い、あれ以来軽蔑はしているのであったが、いっそうその感を深くする常陸の妻であった。若君が這い出して御簾の端からのぞいているのに宮はお気づきになって、またもどっておいでになった。 「中宮様の御気分がよろしいようだったら早く退出して来よう。まだお苦しいふうな御容体だったら今夜は宿直しよう。この人がいては一晩でもほかにいる間は気がかりで苦しくてならない」 こう女房へお言いになりながらしばらく若君をお慰めになってから出てお行きになる宮の御様子は見ても見ても飽くことのないほどお美しかったのが、行っておしまいになったあとに物足りなさと寂しさを常陸夫人は感じた。 昔の中将が言葉を尽くして宮の御容姿をほめたたえているのを聞いていて、夫人はこの人も田舎びたものであると思って笑っていた。 「奥様にお別れになりましたのはお生まれになったばかしでございましたから、どうおなりあそばすことかとわれわれも不安でなりませんでしたし、宮様も御心配あそばしたものでございますが、あなた様は御幸運を持ってお生まれになったものですから、宇治のような山ふところでごりっぱにお育ちになったのでございます。ほんとうに残念でございます。大姫君のお亡れになりましたことはあきらめきれません」 などと泣きながら常陸の妻は言う。中の君も泣いていた。 「人生が恨めしくばかり思われて心細い時にも、また生きていれば少し慰みになる時もあって、そんなおりおりに、生まれた時にお別れしたお母様のことは、そうした運命だったのだからと、お顔を知らないのだからあきらめはつくのだけれど、お姉様のことはいつも生きていてくだすったらと思われて悲しいのですよ。大将さんが今でもまだどんなことにも心の慰められることがないとお悲しみになるほどの、深い愛をお姉様に持っておいでになったことがわかると、いっそうお死にになったのが残念でね」 と中の君は言った。 「大将様はあんなに、例もないほど婿君として帝がお大事にあそばすために、御驕慢になってそんなふうなこともお言いになるのではありますまいか。大姫君が生きておいでになっても、そのために宮様との御結婚をお断わりあそばすとも思われませんもの」 「まあお姉様だって、だれもが逢っているような悲しい目は見ていらっしゃるだろうからね。かえって先にお死にになってよかったかもしれない。すべてを見てしまわないためによい想像ばかりをしておられるようなものだと思うけれどね。でもね大将はどういう宿縁があるのか怪しいほど昔の恋を忘れずにおいでになってね、お父様の後世のことまでもよく心配してくだすって仏事などもよく親切に御自身の手でしてくださるのですよ」 と中の君は、感謝している心を別段誇張もせずに常陸夫人へ語って聞かせた。 「お亡れになった姫君の代わりにほしいと、物の数でもございません方のことさえも宇治の弁の尼からお言わせになりましてございます。私はそんなだいそれたことは考えもいたしませんが『紫の一本ゆゑに』(むさし野の草は皆がら哀れとぞ思ふ)と申しますように、大姫君の妹様というだけでお思いになるのかとおそれおおい申しようですが、哀れに思われますほどな真心な恋をなすったのでございますね」 などと常陸夫人は話したついでに、姫君を将来どう取り扱っていいかと煩悶しているということを泣く泣く中の君へ訴えた。細かに言ったのではないが、二条の院の女房らの間にまで噂をされるようになっていることであるからと思い、左近少将が軽蔑したことなどをほのめかして言った。 「私の命のございます間は、ただお顔を見るだけを朝夕の慰めにして、そばでお暮らしさせるつもりでございますが、死にましたあとは不幸な女になって世の中へ出て苦労をおさせすることになるかと思いますのが悲しくて、いっそ尼にして深い山へお住ませすることにすれば、人生への慾は忘れてしまうことになってよろしかろうなどと、考えあぐんでは思いついたりもいたします」 「ほんとうに気の毒なことだけれどそれは一人だけのことでなく父を亡くした人は皆そうよ。それに女は独身で置いてくれないのが世の中の慣いで一生一人でいるようにとお父様が定めておいでになった私でさえ、自分の意志でなしにこうして人妻になっているのだから、まして無理なことですよ。尼にさせることもあまりにきれいで惜しい人ですよ」 中の君が姉らしくこう言うのを聞いて常陸夫人は喜んでいた。年はいっているがりっぱできれいな顔の女であった。肥り過ぎたところは常陸さんと言われるのにかなっていた。 「お亡くなりになりました宮様が子としてお認めくださらなかったために、みじめな方はいっそうみじめなものになって、人からもお侮られになると悲しがっておりましたが、あなた様へお近づきいたしますのをお許しくださいまして、御親切な身のふり方まで御心配くださいますことで、昔の宮様のお恨めしさも慰められます」 そのあとで常陸さんはあちらこちらと伴われて行った良人の任国の話をし、陸奥の浮嶋の身にしむ景色なども聞かせた。 「あの『わが身一つのうきからに』(なべての世をも恨みつるかな)というふうに悲しんでばかりいました常陸時代のことも詳しくお話し申し上げることもいたしまして、始終おそばにまいっていたい心になりましたけれど、家のほうではわんぱくな子供たちのおおぜいが、私のおりませんのを寂しがって騒いでいることかと思いますと、さすがに気が落ち着きません。ああした階級の家へはいってしまいましたことで、私自身も情けなく思うことが多いのでございますから、この方だけはあなた様の思召しにお任せいたしますから、どうとも将来のことをお定めくださいまし」 この常陸夫人の頼みを聞いて、中の君も、この人の言うとおり妹は地方官級の人の妻などにさせたくないと思っていた。姫君は容貌といい、性質といい憎むことのできぬ可憐な人であった。ひどく恥ずかしがるふうも見せず、感じよく少女らしくはあるが機智の影が見えなくはない。夫人の居室に侍している女房たちに見られぬように、上手に顔の隠れるようにしてすわっていた。ものの言いようなども総角の姫君に怪しいまでよく似ているのであった。あの人型がほしいと言った人に与えたいとその人のことが中の君の心に浮かんだちょうどその時に、右大将の入来を人が知らせに来た。居室にいた女房たちはいつものように几帳の垂れ絹を引き直しなどして用意をした。姫君の母は、 「では私ものぞかせていただきましょう。少しお見かけしただけの人が、たいへんにおほめしていましたけれど、こちらの宮様のお姿とは比較すべきではございますまい」 と言っていたが、女房たちは、 「さあ、どうでしょう。どちらがおすぐれになっていらっしゃるか私たちにはきめられませんわね」 こんなことを言う。中の君が、 「二人で向かい合っていらっしゃるのを見た時、宮はうるおいのない醜いお顔のようにお見えになった。別々に見れば優劣はない方がたのように見えるのだけれど、美しい人というものは一方の美をそこねるものだから困るのね」 と言うと、人々は笑って、 「けれど宮様だけはおそこなわれにならないでしょう。どんな方だって宮様にお勝ちになる美貌を持っておいでになるはずはございませんもの」 などと言うころ、客は今下車するのであるらしく、前駆の人払いの声がやかましく立てられていたが、急には薫の姿がここへ現われては来なかった。 待ち遠しく人々が思うころに縁側を歩んで来た大将は、派手な美貌というのではなしに、艶で上品な美しさを持っていて、だれもその人に羞恥を覚えさせられぬ者はなく、知らず知らず額髪も直されるのであった。貴人らしく、この上なく典雅な風采が薫には備わっていた。御所から退出した帰り途らしい。前駆の者がひしめいている気配がここにも聞こえる。 「昨晩中宮がお悪いということを聞きまして、御所へまいってみますと、宮様がたはどなたも侍しておられないので、お気の毒に存じ上げてこちらの宮様の代わりに今まで御所にいたのです。今朝も宮様のおいでになるのがお早くなかったので、これはあなたの罪でしょうと私は解釈していたのですよ」 と大将は言った。 「ほんとうに深いお思いやりをなさいますこと」 夫人はこう答えただけである。宮が御所にとどまっておいでになるのを見てこの人はまた中の君と話したくなって来たものらしい。 いつものようになつかしい調子で薫は話し続けていたが、ともすればただ昔ばかりが忘られなくて、現在の生活に興味の持たれぬことを混ぜて中の君へ訴えようとするのであった。この人の言っているように長い時間を隔ててなお恋の続いているわけはない、これは熱愛するようにその昔に言い始めたことであったから、忘れていぬふうを装うのではないかと女王は疑ってもみたが、人の心は外見にもよく現われてくるものであるから、しばらく見ているうちに、この人の故人への思慕の情が岩木でない人にはよくわかるのであった。この人を思う心も縷々と言われるのに中の君は困っていて、恋の心をやめさせる禊をさせたい気にもなったか、人型の話をしだして、 「このごろはあの人、そっとこの家に来ています」 とほのめかすと、男もそれをただごととして聞かれなかった。牽引力のそこにもあるのを覚えたが、にわかにそちらへ恋を移す気にこの人はなれなかった。 「でもその御本尊が私の願望を皆受け入れてくださるのであれば尊敬されますがね。いつも悩まされてばかりいるようでは、信仰も続きませんよ」 「まあ、あなたの信仰ってそれくらいなのですね」 ほのかに中の君の笑うのも薫には美しく聞かれた。 「では完全に私の希望をお伝えください。御自身の一時のがれの口実だと伺っていると、あとに何も残らなかった昔のことが思い出されて恐ろしくなります」 こう言ってまた薫は涙ぐんだ。
見し人のかたしろならば身に添へて恋しき瀬々のなでものにせん
これを例の冗談にして言い紛らわしてしまった。
「みそぎ河瀬々にいださんなでものを身に添ふかげとたれか頼まん
『ひくてあまたに』(大ぬさの引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ)とか申すようなことで、出過ぎたことですが私は心配されます」 「『つひによるせ』(大ぬさと名にこそ立てれ流れてもつひの寄る瀬はありけるものを)はどこであると私が思っていることはあなたにだけはおわかりになるはずですし、その話のほうのははかない水の泡と争って流れる撫物でしかないのですから、あなたのお言葉のようにたいした効果を私にもたらしてくれもしないでしょう。私はどうすれば空虚になった心が満たされるのでしょう」 こんなことを言いながら薫が長く帰って行こうとしないのもうるさくて、中の君は、 「ちょっと泊りがけでまいっている客も怪しく思わないかと遠慮がされますから、今夜だけは早くお帰りくださいまし」 と言い、上手に帰りを促した。 「ではお客様に、それは私の長い間の願いだったことを言ってくだすって、にわかな思いつきの浅薄な志だと取られないようにしていただけば、私も自信がついて接近して行けるでしょう。恋愛の経験の少ない私には、女性の好意を求めに行くようなことなどは今さら恥ずかしくてできなくなっています」 薫はこう頼んで帰って行った。姫君の母は薫をりっぱだと思い、理想的な貴人であると心でほめて、乳母が左近少将への復讐として思いつき、たびたび勧めたのを、あるまじいことだと退けていたが、あの風采の大将であれば、たまさかな通い方をされても忍ぶことができよう、自分の娘は平凡人の妻とさせるにはあまりに惜しい美が備わっているのに、東国の野蛮な人たちばかりを見て来た目では、あの少将をすら優美な姿と見て婿にも擬してみたと、くちおしいまでにも破れた以前の姫君の婚約者のことをこの女は思うようになった。 よりかかっていた柱にも敷き物にも残った薫のにおいのかんばしさを口にしては誇張したわざとらしいことにさえなるであろうと思われた。おりおり見る人さえもそのたびごとにほめざるを得ない薫であったのである。 「お経をたくさん読んだ人に、その報いの現われてくることの書いてある中に、芳香を身体に持つということを最高のものに仏様が書いておありになるのも道理だと思われますね。薬王品などにも特にそれが書いてありますね。牛頭栴檀の香とかこわいような名だけれど、私たちは大将様にお近づきできることで仏様のお言葉に嘘のないことをわからせていただきました。御幼少の時から仏勤めをよくあそばしたからよ」 「でもこの世だけの信仰の結果とは思われませんね。どんな前生を持っていらっしゃったのか、それが知りたくなりますわ」 などとも言って口々にほめるのを、常陸夫人は知らず知らず微笑して聞いていた。中の君はそっと薫に託された話をした。 「一度お思いになったことは執拗なほどにもお忘れにならない、まれな頼もしい性質でね。それは今はまあ御新婚された時などで、めんどうが多い気もあなたはするでしょうけれど、あなたが尼にさせようかなどとも思っておいでになるのなら、その気で試みてごらんになったらどう」 「つらい思いも味わわせず、人に軽蔑もさせたく思いません心から、鶏の声も聞こえませぬような僧房住まいをおさせする気になっていたのですが、大将さんをはじめてお見上げして、ああした方にはたとえ下仕えにでも御奉公できますことは生きがいがあることと思われましてございます。年のいった者でもそう思うのですから、まして若い人はあの方に好感を持つことだろうと思われますものの、相手がごりっぱであればあるだけ卑下がされまして、物思いの種を心に蒔かせることになりはしないでしょうかと苦労に考えられます。身分の高低にかかわらず、女というものはねたましがらせられることで、この世のため、未来の世のために罪ばかりを作ることになるものだと思いますと、それがかわいそうでございます。しかし何も皆あなたの思召し次第でございます。どんなにでもお定めになって、お世話をくださいませ」 と常陸夫人の言うのを聞いていて、中の君は重い責任を負わされた気がして、 「今までの親切な心を知っているだけで将来のことは私に保証ができないのだから、そう言われるとどうしてよいかわからない」 と歎息をしたままでその話はしなくなった。 夜が明けると車などを持って来て、常陸守の帰りを促す腹だたしげな、威嚇的な言葉を使いが伝えたため、 「もったいないことですが、万事あなた様をお頼みに思わせていただきまして、あの方をお手もとへ置いてまいります。『いかならん巌の中に住まばかは』(世のうきことの聞こえこざらん)とばかり苦しんでおります間だけを隠してあげてくださいませ。哀れな人と御覧くださいまして、教えられておりませんことをお教えくださいませ」 などと、昔の中将の君は夫人に泣きながら頼んでおいて帰って行こうとした。姫君は母に別れていたこともない習慣から心細く思うのであったが、はなやかな貴族の家庭にしばらくでも混じって行けるようになったことはさすがにうれしかった。 常陸夫人の車の引き出されるころは少し明るくなっていたが、ちょうどこの時に宮は御所からお帰りになった。若君に心がお惹かれになるために御微行の体で車なども例のようでなく簡単なのに召しておいでになったのと行き合って、常陸家の車は立ちどまり、宮のお車は廊に寄せられてお下りになるのであった。だれの車だろう、まだ暗いのに急いで出て行くではないかと宮は目をおとめになった。こんなふうにして人目を忍んで通う男は帰って行くものであると、御自身の経験から悪い疑いもお抱きになった。 「常陸様がお帰りになるのでございます」 と、出る車に従った者は言った。 「りっぱなさまだね」 と若い前駆の笑い合っているのを聞いて、常陸の妻は、こんなにまで懸隔のある身分であったかと悲しんだ。ただ姫君のために自分も人並みな尊敬の払われる身分がほしいと思った。まして姫君自身をわが階級に置くことは惜しい悲しいことであるといよいよこの人は考えるようになった。 宮は夫人の居間へおはいりになって、 「常陸さんという人があなたの所へ通っているのではないか、艶な夜明けに急いで出て行った車付きの者が、なんだかわざとらしいこしらえ物のようだった」 まだ疑いながらお言いになるのであった。人聞きの恥ずかしい困ったことをお言いになると思い、 「大輔などの若いころの朋輩は何のはなやかな恰好もしていませんのに、仔細のありそうにおっしゃいますのね。人がどんなに悪く解釈するかもしれないようなことにわざとしてお話しなさいます。『なき名は立てで』(ただに忘れね)」 と言って、顔をそむける夫人は可憐で美しかった。そのまま寝室に宮は朝おそくまで寝んでおいでになったが、伺候者が多数に集まって来たために、正殿のほうへお行きになった。 中宮の御病気はたいしたものでなくすぐ快くおなりになったことにだれも安心して、まいっていた左大臣家の子息たちなどもごいっしょに碁を打ち韻塞などしてこの日を暮した。 夕方に宮が西の対へおいでになった時に、夫人は髪を洗っていた。女房たちも部屋へそれぞれはいって休息などをしていて、夫人の居間にはだれというほどの者もいなかった。小さい童女を使いにして、 「おりの悪い髪洗いではありませんか。一人ぼっちで退屈をしていなければならない」 と宮は言っておやりになった。 「ほんとうに、いつもはお留守の時にお済ませするのに、せんだってうちはおっくうがりになってあそばさなかったし、今日が過ぎれば今月に吉日はないし、九、十月はいけないことになるしと思って、おさせしたのですがね」 と大輔は気の毒がり、若君も寝ていたのでお寂しかろうと思い、女房のだれかれをお居間へやった。 宮はそちらこちらと縁側を歩いておいでになったが、西のほうに見馴れぬ童女が出ていたのにお目がとまり、新しい女房が来ているのであろうかとお思いになって、そこの座敷を隣室からおのぞきになった。間の襖子の細めにあいた所から御覧になると、襖子の向こうから一尺ほど離れた所に屏風が立ててあった。その間の御簾に添えて几帳が置かれてある。几帳の垂れ帛が一枚上へ掲げられてあって、紫苑色のはなやかな上に淡黄の厚織物らしいのの重なった袖口がそこから見えた。屏風の端が一つたたまれてあったために、心にもなくそれらを見られているらしい。相当によい家から出た新しい女房なのであろうと宮は思召して、立っておいでになった室から、女のいる室へ続いた庇の間の襖子をそっと押しあけて、静かにはいっておいでになったのをだれも気がつかずにいた。 向こう側の北の中庭の植え込みの花がいろいろに咲き乱れた、小流れのそばの岩のあたりの美しいのを姫君は横になってながめていたのである。初めから少しあいていた襖子をさらに広くあけて屏風の横から中をおのぞきになったが、宮がおいでになろうなどとは思いも寄らぬことであったから、いつも中の君のほうから通って来る女房が来たのであろうと思い、起き上がったのは、宮のお目に非常に美しくうつって見える人であった。例の多情なお心から、この機会をはずすまいとあそばすように、衣服の裾を片手でお抑えになり、片手で今はいっておいでになった襖子を締め切り、屏風の後ろへおすわりになった。 怪しく思って扇を顔にかざしながら見返った姫君はきれいであった。扇をそのままにさせて手をお捉えになり、 「あなたはだれ。名が聞きたい」 とお言いになるのを聞いて、姫君は恐ろしくなった。ただ戯れ事の相手として御自身は顔を外のほうへお向けになり、だれと知れないように宮はしておいでになるので、近ごろ時々話に聞いた大将なのかもしれぬ、においの高いのもそれらしいと考えられることによって、姫君ははずかしくてならなかった。乳母は何か人が来ているようなのがいぶかしいと思い、向こう側の屏風を押しあけてこの室へはいって来た。 「まあどういたしたことでございましょう。けしからぬことをあそばします」 と責めるのであったが、女房級の者に主君が戯れているのにとがめ立てさるべきことでもないと宮はしておいでになるのであった。はじめて御覧になった人なのであるが、女相手にお話をあそばすことの上手な宮は、いろいろと姫君へお言いかけになって、日は暮れてしまったが、 「だれだと言ってくれない間はあちらへ行かない」 と仰せになり、なれなれしくそばへ寄って横におなりになった。宮様であったと気のついた乳母は、途方にくれてぼんやりとしていた。 「お明りは燈籠にしてください。今すぐ奥様がお居間へおいでになります」 とあちらで女房の言う声がした。そして居間の前以外の格子はばたばたと下ろされていた。この室は別にして平生使用されていない所であったから、高い棚厨子一具が置かれ、袋に入れた屏風なども所々に寄せ掛けてあって、やり放しな座敷と見えた。こうした客が来ているために居間のほうからは通路に一間だけ襖子があけられてあるのである。そこから女房の右近という大輔の娘が来て、一室一室格子を下ろしながらこちらへ近づいて来る。 「まあ暗い、まだお灯も差し上げなかったのでございますね。まだお暑苦しいのに早くお格子を下ろしてしまって暗闇に迷うではありませんかね」 こう言ってまた下ろした格子を上げている音を、宮は困ったように聞いておいでになった。乳母もまたその人への体裁の悪さを思っていたが、上手に取り繕うこともできず、しかも気がさ者の、そして無智な女であったから、 「ちょっと申し上げます。ここに奇怪なことをなさる方がございますの、困ってしまいまして、私はここから動けないのでございますよ」 と声をかけた。何事であろうと思って、暗い室へ手探りではいると、袿姿の男がよい香をたてて姫君の横で寝ていた。右近はすぐに例のお癖を宮がお出しになったのであろうとさとった。姫君が意志でもなく男の力におさえられておいでになるのであろうと想像されるために、 「ほんとうに、これは見苦しいことでございます。右近などは御忠告の申し上げようもございませんから、すぐあちらへまいりまして奥様にそっとお話をいたしましょう」 と言って、立って行くのを姫君も乳母もつらく思ったが、宮は平然としておいでになって、驚くべく艶美な人である、いったい誰なのであろうか、右近の言葉づかいによっても普通の女房ではなさそうであると、心得がたくお思いになって、何ものであるかを名のろうとしない人を恨めしがっていろいろと言っておいでになった。うとましいというふうも見せないのであるが、非常に困っていて死ぬほどにも思っている様子が哀れで、情味をこめた言葉で慰めておいでになった。 右近は北の座敷の始末を夫人に告げ、 「お気の毒でございます。どんなに苦しく思っていらっしゃるでしょう」 と言うと、 「いつものいやな一面を出してお見せになるのだね。あの人のお母さんも軽佻なことをなさる方だと思うようになるだろうね。安心していらっしゃいと何度も私は言っておいたのに」 こう中の君は言って、姫君を憐れむのであったが、どう言って制しにやっていいかわからず、女房たちも少し若くて美しい者は皆情人にしておしまいになるような悪癖がおありになる方なのに、またどうしてあの人のいることが宮に知られることになったのであろうと、あさましさにそれきりものも言われない。 「今日は高官の方がたくさん伺候なすった日で、こんな時にはお遊びに時間をお忘れになって、こちらへおいでになるのがお遅くなるのですものね、いつも皆奥様なども寝んでおしまいになっていますわね。それにしてもどうすればいいことでしょう。あの乳母が気のききませんことね。私はじっとおそばに見ていて、宮様をお引っ張りして来たいようにも思いましたよ」 などと右近が少将という女房といっしょに姫君へ同情をしている時、御所から人が来て、中宮が今日の夕方からお胸を苦しがっておいであそばしたのが、ただ今急に御容体が重くなった御様子であると、宮へお取り次ぎを頼んだ。 「あやにくな時の御病気ですこと、お気の毒でも申し上げてきましょう」 と立って行く右近に、少将は、 「もうだめなことを、憎まれ者になって宮様をお威しするのはおよしなさい」 と言った。 「まだそんなことはありませんよ」 このささやき合いを夫人は聞いていて、なんたるお悪癖であろう、少し賢い人は自分をまであさましく思ってしまうであろうと歎息をしていた。 右近は西北の座敷へ行き、使いの言葉以上に誇張して中宮の御病気をあわただしげに宮へ申し上げたが、動じない御様子で宮はお言いになった。 「だれが来たのか、例のとおりにたいそうに言っておどすのだね」 「中宮のお侍の平の重常と名のりましてございます」 右近はこう申した。別れて行くことを非常に残念に思召されて、宮は人がどう思ってもいいという気になっておいでになるのであるが、右近が出て行って、西の庭先へお使いを呼び、詳しく聞こうとした時に、最初に取り次いだ人もそこへ来て言葉を助けた。 「中務の宮もおいでになりました。中宮大夫もただ今まいられます。お車の引き出されます所を見てまいりました」 そうしたように発作的にお悪くおなりになることがおりおりあるものであるから、嘘ではないらしいと思召すようになった宮は、夫人の手前もきまり悪くおなりになり、女へまたの機会を待つことをこまごまとお言い残しになってお立ち去りになった。 姫君は恐ろしい夢のさめたような気になり、汗びったりになっていた。乳母は横へ来て扇であおいだりしながら、 「こういう御殿というものは人がざわざわとしていまして、少しも気が許せません。宮様が一度お近づきになった以上、ここにおいでになってよいことはございませんよ。まあ恐ろしい。どんな貴婦人からでも嫉妬をお受けになることはたまらないことですよ。全然別な方にお愛されになるとも、またあとで悪くなりましてもそれは運命としてお従いにならなければなりません。宮様のお相手におなりになっては世間体も悪いことになろうと思いまして、私はまるで蝦蟇の相になってじっとおにらみしていますと、気味の悪い卑しい女めと思召して手をひどくおつねりになりましたのは匹夫の恋のようで滑稽に存じました。お家のほうでは今日もひどい御夫婦喧嘩をあそばしたそうですよ。ただ一人の娘のために自分の子供たちを打ちやっておいて行った。大事な婿君のお来始めになったばかりによそへ行っているのは不都合だなどと、乱暴なほどに守はお言いになりましたそうで、下の侍でさえ奥様をお気の毒だと言っていました。こうしたいろいろなことの起こるのも皆あの少将さんのせいですよ。利己的な結婚沙汰さえなければ、おりおり不愉快なことはありましてもまずまず平和なうちに今までどおりあなた様もおいでになれたのですがね」 歎息をしながら乳母はこう言うのであった。 姫君の身にとっては家のことなどは考える余裕もない。ただ闖入者が来て、経験したこともない恥ずかしい思いを味わわされたについても、中の君はどう思うことであろうと、せつなく苦しくて、うつ伏しになって泣いていた。見ている乳母は途方に暮れて、 「そんなにお悲しがりになることはございませんよ。お母様のない人こそみじめで悲しいものなのですよ。ほかから見れば父親のない人は哀れなものに思われますが、性質の悪い継母に憎まれているよりはずっとあなたなどはお楽なのですよ。どうにかよろしいように私が計らいますからね、そんなに気をめいらせないでおいでなさいませ。どんな時にも初瀬の観音がついてあなたを守っておいでになりますからね、観音様はあなたをお憐みになりますよ。お参りつけあそばさない方を、何度も続けてあの山へおつれ申しましたのも、あなたを軽蔑する人たちに、あんな幸運に恵まれたかと驚かす日に逢いたいと念じているからでしたよ。あなたは人笑われなふうでお終わりになる方なものですか」 と言い、楽観させようと努めた。 宮はすぐお出かけになるのであった。そのほうが御所へ近いからであるのか西門のほうを通ってお行きになるので、ものをお言いになるお声が姫君の所へ聞こえてきた。上品な美しいお声で、恋愛の扱われた故い詩を口ずさんで通ってお行きになることで、煩わしい気持ちを姫君は覚えていた。お替え馬なども引き出して、お付きして宿直を申し上げる人十数人ばかりを率いておいでになった。 中の君は姫君がどんなに迷惑を覚えていることであろうとかわいそうで、知らず顔に、 「中宮様の御病気のお知らせがあって、宮様は御所へお上がりになりましたから、今夜はお帰りがないと思います。髪を洗ったせいですか、気分がよくなくてじっとしていますが、こちらへおいでなさい。退屈でもあるでしょう」 と言わせてやった。 「ただ今は身体が少し苦しくなっておりますから、癒りましてから」 姫君からは乳母を使いにしてこう返事をして来た。どんな病気かとまた中の君が問いにやると、 「何ということはないのですが、ただ苦しいのでございます」 とあちらでは言った。少将と右近とは目くばせをして、夫人は片腹痛く思うであろうと言っているのは姫君のために気の毒なことである。 夫人は心で残念なことになった、薫が相当熱心になって望んでいた妹であったのに、そんな過失をしたことが知れるようになれば軽蔑するであろう、宮という放縦なことを常としていられる方は、ないことにも疑念を持ちうるさくお責めにもなるが、また少々の悪いことがあってもぜひもないようにおあきらめになりそうであるが、あの人はそうでなく、何とも言わないままで情けないことにするであろうのを思うと、妹はどんなに気恥ずかしいことかしれぬ、運命は思いがけぬ憂苦を妹に加えることになった、長い間見ず知らずだった人なのであるが、逢って見れば性質も容貌もよく、愛せずにはいられなくなった妹であったのに、こんなことが起こってくるとはなんたることであろう、人生とは複雑にむずかしいものである、自分は今の身の上に満足しているものではないが、妹のような辱しめもあるいは受けそうであった境遇にいたにもかかわらず、そうはならずに正しく人の妻になりえた点だけは幸福と言わねばなるまい、もう自分は薫が恋をさえ忘れてくれて、以前の友情でつきあって行けることになれば、何も深く憂えずに暮らす女になろうと思った。多い髪であるから、急にはかわかしきれずにすわっていねばならぬのが苦しかった。白い服を一重だけ着ている中の君は繊細で美しい。 姫君はほんとうに身体が苦しくなっていたのであるが、乳母は、 「そんなふうにしておいでになっては、痛くない腹をさぐられます。何か事のあったように女王様はお思いになっていらっしゃるかもしれませんから、ただおおようなふうにしてあちらへいらっしゃいませ。右近さんなどには事実を初めからお話しいたしますよ」 と言い、しいて促し立てておき、夫人の居室の襖子の前へまで行き、 「右近さんにちょっとお話しいたしたいことが」 と言った。出て来たその人に、 「御冗談をなさいました方様のために、お姫様は驚いて気もお失いになるばかりなのですよ。ほんとうのひどい目にでもおあいになった人のように苦しいふうをお見せになるのでお気の毒でなりません。奥様から慰めてあげていただきたいと私はお願いに出たのでございます。過失もなさいませんでしたのに、恥ずかしくてならぬように思召すのもお道理でございますよ。異性のことがよくわかっておいでになる方であれば、これは何でもないことだとおわかりになるのでしょうが、そうでないところに純粋なところも持っていらっしゃるのだと拝見しています」 と言っておき、姫君を引き起こして夫人の所へ伴って行くのであった。人のするままに任せて、他人がどんな想像をしているだろうと思うことに羞恥は覚えるのであるが、柔らかなおおよう過ぎたほどの性質の人であったから、乳母に押し出されて夫人の居間の中へはいった。額髪などの汗と涙でひどく濡れたのを隠したく思い、灯のほうから顔をそむけた姫君は、夫人をこれ以上の美人はないと常にながめている女房たちが見て、劣ったふうもなく、貴女らしく美しい、宮がこの方をお愛しになるようになったら気まずいことを見ることになろう、これほどの人でなくても、新しい人をお喜びになる宮の御性質であるからと、夫人に侍していた二人ほどの女房は、姫君の隠しきれない顔を見て思っていた。中の君はなつかしいふうで話していて、 「あなたの家と違った所だとここを思わないでいらっしゃいよ。お姉様がお亡れになってから、私は姉様のことばかりが思われて、忘れることなどは少しもできなくてね、自分の運命ほど悲しいものはないと思って暮らしていたのですがね、あなたという姉様によく似た人を見ることができるようになって、ずいぶん慰められてますよ。私にはほかにあなたのような妹はないのですから、お父様の御愛情を私から受け取る気になってくだすったらうれしいだろうと思います」 などとも夫人は語るのであったが、宮から愛のささやきをお受けした心のひけ目がある上に、よい環境に置かれていなかった人は、姉君に応じて何もものが言えないというふうがあって、 「長い間とうていおそばなどへまいれるものでないと思っていましたのに、こんなに御親切にいろいろとしていただけるのですもの、どんなことも皆慰められる気がいたします」 とだけ、少女らしい声で言った。夫人が絵などを出させて、右近に言葉書きを読ませ、いっしょに見ようとすると、姫君は前へ出て、恥じてばかりもいず熱心に見いだした灯影の顔には何の欠点もなく、どこも皆美しくきれいであった。清い額つきがにおうように思われて、おおような貴女らしさには総角の姫君がただ思い出されるばかりであったから、夫人は絵のほうはあまり目にとめず、身にしむ顔をした人である、どうしてこうまで似ているのであろう、大姫君は宮に、自分は母君に似ていると古くからいる女房たちは言っていたようである、よく似た顔というものは人が想像もできぬほど似ているものであると、故人に思い比べられて夫人は姫君を涙ぐんでながめていた。故人は限りもなく上品で気高くありながら柔らかな趣を持ち、なよなよとしすぎるほどの姿であった。この人はまだ身のこなしなどに洗練の足らぬところがあり、また遠慮をすぎるせいか美しい趣は劣って見える、重々しいところを加えさせるようにすれば大将の妻の一人になっても不似合いには見えまいなどと、姉心になって気もつかっている中の君であった。話し合って夜明け近くまでなってから寝んだのであるが、夫人はそばへ寝させて、父宮についてお亡れになるまでの御様子などを、ことごとくではないが話して聞かせた。聞けば聞くほど恋しく、ついにお逢いすることがなく終わったことをくやしく悲しく姫君は思った。
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