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源氏物語(げんじものがたり)51 宿り木

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 10:11:15  点击:  切换到繁體中文



 
いたづらに分けつるみちの露しげみ昔おぼゆる秋の空かな

冷ややかなおもてなしについて「ことわり知らぬつらさ」(身を知れば恨みぬものをなぞもかくことわり知らぬつらさなるらん)ばかりが申しようもなくつのるのです。
 こんな内容である。返事を出さないのもいぶかしいことに人が見るであろうからと、それもつらく思われて、
承りました。非常に身体からだの苦しい日ですから、お返事は差し上げられませぬ。
 と中の君は書いた。
 これをあまりに短い手紙であると、物足らず寂しく思い、美しかった面影ばかりが恋しく思い出された。人妻になったせいか、むやみに恐怖するふうは見せず、貴女らしい気品も多くなった姿で、闖入者を柔らかになつかしいふうに説いて退却させた才気などが思い出されるとともに、ねたましくも、悲しくもいろいろにその人のことばかりが思われるかおるは、自身ながらわびしく思った。落胆はする必要もない、宮の愛が薄くなってしまえば、あの人は自分ばかりをたよりにするはずである、しかし公然とは夫婦になれず、世間のはばかられる二人であろうが、隠れた恋人としておいても、自分は他に愛する婦人を作るまい、生涯しょうがいで唯一の妻とあの人を自分だけは思っていけるであろうなどと、二条の院の夫人のことばかりを思っているというのもけしからぬ心である。反省している時、またその人に清い恋として告白している時には賢い人になっているのであるが、この人すら情けない愛欲から離れられないのは男性の悲哀である。大姫君の死は取り返しのならぬものであったが、その時には今ほど薫は心を乱していなかった。これは道義観さええていろいろな未来の夢さえ描くものを心に持っていた。
 この日は二条の院へ宮がおいでになったということを聞いて、中の君の保護者をもって任ずる心はなくして、胸が嫉妬しっとにとどろき、宮をおうらやましくばかり薫は思った。
 宮は二、三日も六条院にばかりおいでになったのを、御自身の心ながらも恨めしく思召おぼしめされてにわかにお帰りになったのである。もうこの運命は柔順に従うほかはない、恨んでいるとは宮にお見せすまい、宇治へ行こうとしても信頼する人にうとましい心ができているのであるからと中の君は思い、いよいよ右も左も頼むことのできない身になっていると思われ、どうしても自分は薄命な女なのであるとして、生きているうちはあるがままの境遇を認めておおようにしていようと、こう決心をしたのであったから、可憐かれんに素直にして、嫉妬しっとも知らぬふうを見せていたから、宮はいっそう深い愛をお覚えになり、思いやりをうれしくお感じになって、おいでにならぬ間も忘れていたのではないということなどに言葉を尽くして夫人を慰めておいでになった。腹部も少し高くなり、恥ずかしがっている腹帯の衣服の上に結ばれてあるのにさえ心がおかれになった。まだ妊娠した人を直接お知りにならぬ方であったから、珍しくさえお思いになった。何事もきれいに整い過ぎた新居においでになったあとで、ここにおいでになるのはすべての点で気安く、なつかしくお思われになるままに、こまやかな将来の日の誓いを繰り返し仰せになるのを聞いていても中の君は、男は皆口が上手じょうずで、あの無理な恋を告白した人も上手に話をしたと薫のことを思い出して、今までも情けの深い人であるとは常に思っていたが、ああしたよこしまな恋に自分は好意を持つべくもないと思うことによって、宮の未来のお誓いのほうは、そのとおりであるまいと思いながらも少し信じる心も起こった。それにしてもああまで油断をさせて自分の室の中へあの人がはいって来た時の驚かされようはどうだったであろう、姉君の意志を尊重して夫婦の結合は遂げなかったと話していた心持ちは、珍しい誠意の人と思われるのであるが、あの行為を思えば自分として気の許される人ではないと、中の君はいよいよ男の危険性に用心を感じるにつけても、宮がながく途絶えておいでにならぬことになれば恐ろしいと思われ、言葉には出さないのであるが、以前よりも少し宮へ甘えた心になっていたために、宮はなお可憐に思召され、心をかれておいでになったが、深く夫人にしみついている中納言のにおいは、薫香くんこうをたきしめたのには似ていず特異な香であるのを、においというものをよく研究しておいでになる宮であったから、それとお気づきになって、奇怪なこととして、何事かあったのかと夫人をただそうとされる。宮の疑っておいでになることと事実とはそうかけ離れたものでもなかったから、何ともお答えがしにくくて、苦しそうに沈黙しているのを御覧になる宮は、自分の想像することはありうべきことだ、よも無関心ではおられまいと始終自分は思っていたのであるとお胸が騒いだ。薫のにおいは中の君が下の単衣ひとえなども昨夜のとは脱ぎ替えていたのであるが、その注意にもかかわらず全身にんでいたのである。
「あなたの苦しんでいるところを見ると、進むところへまで進んだことだろう」
 とお言いになり、追究されることで夫人は情けなく、身の置き所もない気がした。
「私の愛はどんなに深いかしれないのに、私が二人の妻を持つようになったからといって、自分も同じように自由に人を愛しようというようなことは身分のない者のすることですよ。そんなに私が長く帰って来ませんでしたか、そうでもないではありませんか。私の信じていたよりも愛情のうすいあなただった」
 などとお責めになるのである。愛する心からこうも思われるのであるというふうにおきになっても、ものを言わずにいる中の君に嫉妬しっとをあそばして、

またびとになれけるそでの移り香をわが身にしめて恨みつるかな

 とお言いになった。夫人は身に覚えのない罪をきせておいでになる宮に弁明もする気にならずに、
「あなたの誤解していらっしゃることについて何と申し上げていいかわかりません。

見なれぬる中の衣と頼みしをかばかりにてやかけ離れなん」

 と言って泣いていた。その様子の限りなく可憐かれんであるのを宮は御覧になっても、こんな魅力が中納言をきつけたのであろうとお思いになり、いっそうねたましくおなりになり、御自身もほろほろと涙をおこぼしになったというのは女性的なことである。どんな過失が仮にあったとしても、この人をうとんじてしまうことはできないふうな、美しいいたいたしい中の君の姿に、恨みをばかり言っておいでになることができずに、宮は歎いている人の機嫌きげんを直させるために言い慰めもしておいでになった。
 翌朝もゆるりと寝ておいでになって、お起きになってからは手水ちょうずも朝のかゆもこちらでお済ませになった。座敷の装飾も六条院の新婦の居間の輝くばかり朝鮮、支那しなにしきで装飾をし尽くしてある目移しには、なごやかな普通の家の居ごこちよさをお覚えになって、女房の中には着疲れさせた服装のも混じっていたりして、静かに見まわされる空気が作られていた。夫人は柔らかな淡紫うすむらさきなどの上に、撫子なでしこ色の細長をゆるやかに重ねていた。何一つ整然としていぬものもないような盛りの美人の新婦に比べてごらんになっても、劣ったともお思われにならず、なつかしい美しさの覚えられるというのは宮の御愛情に相当する人というべきであろう。まるく肥えていた人であったが、少しほっそりとなり、色はいよいよ白くて上品に美しい中の君であった。怪しい疑いを起こさせるにおいなどのついていなかった常の時にも、愛嬌あいきょうのある可憐な点はだれよりもすぐれていると見ておいでになった人であるから、この人を兄弟でもない男性が親しい交際をして自然に声も聞き、様子もうかがえる時もあっては、どうして無関心でいられよう、必ず結果は恋を覚えることになるであろうと、宮は御自身の好色な心から想像をあそばして、これまでから恋をささやく明らかなあかしの見える手紙などは来ていぬかとお思いになり、夫人の居間の中の飾りだなや小さい唐櫃からびつなどというものの中をそれとなくお捜しになるのであったが、そんなものはない。ただまじめなことの書かれた短い、文学的でもないようなものは、人に見せぬために別にもしてなくて、物に取り混ぜてあったのを発見あそばして、不思議である、こんな用事を言うものにとどまるはずはないとお疑いの起こることで今日のお心が冷静にならないのも道理である。夫人が魅力を持つばかりでなく中納言の姿もまた趣味の高い女が興味を覚えるのに十分なものであるから、愛に報いぬはずはない、よい一対の男女であるから、相思の仲にもなるであろうと、こんな御想像のされるために、宮はわびしく腹だたしく、ねたましくお思いになった。不安なお気持ちが静まらぬため、その日も二条の院にとどまっておいでになることになり、六条院へはお手紙の使いを二、三度お出しになった。わずかな時間のうちにもそうも言っておやりになるお言葉が積もるのかと老いた女房などは陰口を申していた。
 中納言はこんなに宮が二条の院にとどまっておいでになることを聞いても苦しみを覚えるのであったが、自分は誤っている、愚かな情炎を燃やしてはよろしくない、そうした愛でない清い愛で助けようと決心していた人に対して、思うべからぬことを思ってはならぬとしいて思い返し、このままにしていても、自分の気持ちは汲んでくれる人に違いないという自信の持てるのがうれしかった。女房たちの衣服がなつかしい程度に古びかかっていたようであったのを思って、母宮のお居間へ行き、
「品のよい女物で、お手もとにできているのがあるでしょうか、少し入り用なことがあるのです」
 とお尋ねすると、
「例年の法事は来月ですから、その日の用意の白い生地などがあるだろうと思います。染めたものなどは平生たくさんは私の所に置いてないから、急いで作らせましょう」
 宮はこうお答えになった。
「それには及びません。たいそうなことにいるのではありませんから、できているものでけっこうです」
 とかおるは申し上げて、裁縫係りの者の所へ尋ねにやりなどして、女の装束幾重ねと、美しい細長などをありあわせのまま使うことにして、下へ着る絹やあやなども皆添え、自身の着料にできていたあか糊絹のりぎぬ槌目つちめの仕上がりのよい物、白い綾の服の幾重ねへ添えたく思ったはかまの地がなくて付け腰だけが一つあったのを、結んで加える時に、それへ、

結びける契りことなる下紐したひもをただひとすぢに恨みやはする

 と歌を書いた。大輔たゆうの君という年のいった女房で、薫の親しい人の所へその贈り物は届けられたのである。
にわかに思い立って集めた品ですから、よくそろいもせず見苦しいのですが、よいように取り合わせてお使いください。
 という手紙が添えられてあって、夫人の着料のものは、目だたせぬようにしてはあったが箱へ納めてあって、包みが別になっていた。大輔は中の君へこの報告はしなかったが、今までからこうした好意の贈り物を受けれていたことであって、受け取らぬなどと返すべきでなかったから、どうしたものかとも心配することもなく女房たちへ分け与えたので、その人々は縫いにかかっていた。若い女房で宮御夫婦のおそばへよく出る人はことにきれいにさせておこうとしたことだと思われる。下仕えの女中などの古くなった衣服を白のあわせに着かえさせることにしたのも目だたないことでかえって感じがよかった。
 この夫人のために薫以外にだれがこうした物質の補いをする者があろう、宮は夫人を愛しておいでになったから、すべて不自由のないようにと計らってはおいでになるのであるが、女房の衣服のことまではお気のおつきにならないところであった。大事がられて御自身でそうした物のことをお考えになることはなかったのであるから、貧しさはどんなに苦しいものであるともお知りにならないのは道理なことである。寒けをさえ覚える恰好かっこうで花の露をもてあそんでばかりこの世はいくもののように思っておいでになる宮とは違い、愛する人のためであるから、何かにつけて物質の補助を惜しまない薫の志をまれな好意としてありがたく思っている人たちであるから、宮のお気のつかないことと、気のよくつく薫とを比較してそしるようなことを言う乳母めのとなどもあった。童女の中には見苦しくなった姿で混じっていたりするのも目につくことがおりおりあったりして、夫人はそれを恥ずかしく思い、この住居すまいをしてかえって苦痛の多くなったようにも人知れず思うことがないでもなかったのであるのに、そしてこのごろは世の中の評判にさえなっている華美な宮の新婚後のお住居すまいの様子などを思うと、宮にお付きしている役人たちもどんなにこちらを軽蔑けいべつするであろう、貧しさを笑うであろうという煩悶はんもんを中の君がしているのを、薫が思いやって知っていたのであったから、妹でもない人の所へ、よけいな出すぎたことをすると思われるこんなことも、あなどって礼儀を失ったのではなく、目だつようにしないのは、自分に助けられている夫人の無力を思う人があってはならないと思う心から、忍んでする薫であった。この贈り物があったために、女房の身なりをととのえさせることができ、うちぎを織らせたり、あやを買い入れる費用も皆与えることができた。薫も宮に劣らず大事にかしずかれて育った人で、高い自尊心も持ち、一般の世の中から超越した貴族的な人格も持っているのであるが、宇治の八の宮の山荘へ伺うようになって以来、豊かでない家の生活の寂しさというものは想像以上のものであったと同情を覚え、その御一家だけへではなく、物質的に恵まれない人々をあまねく救うようになったのである。哀れな動機というべきである。
 薫はぜひとも中の君のために邪悪な恋は捨てて、清い同情者の地位にとどまろうとするのであるが、自身の心が思うにまかせず、常に恋しくばかり思われて苦しいために、手紙をもって以前よりもこまごまと書き、不用意に恋の心が出たふうに見せたような消息をよく送るようになったのを、中の君はわびしいことの添ってきた運命であると歎いていた。まったく知らぬ人であったならば、狂気の沙汰さたとたしなめ、そうした心を退けるのが容易なことであろうが、昔から特別な後援者と信頼してきて、今さら仲たがいをするのはかえって人目を引くことになろうと思い、さすがにまた薫の愛をあわれむ心だけはあるのであっても、誘惑に引かれて相手をしているもののようにとられてはならぬとはばかられて煩悶はんもんがされた。女房たちも夫人の気持ちのわかりそうな若い人らは皆新しく京へ移った前後から来てなじみが浅く、またなじみの深い人たちといっては昔から宇治にいた老いた女房らであったから、苦しいことも左右の者にらすことができず、姉君を思い出さぬおりもなかった。姉君さえおいでになれば中納言も自分へ恋をするようなことにはむろんならなかったはずであると、大姫君の死が悲しく思われ、宮が二心をお持ちになり、恨めしいことも起こりそうに予想されることよりもこの中納言の恋を中の君は苦しいことに思った。
 薫はおさえきれぬものを心に覚えて、例のとおりにしんみりとした夕方に二条の院の中の君をたずねて来た。すぐに縁側へ敷き物を出させて、
身体からだを悪くしております時で、お話を自身で伺えませんのが残念でございます」
 と中の君が取り次がせて来たのを聞くと、薫は恨めしさに涙さえ落ちそうになったのを人目につかぬようにしいて紛らして、
「御病気の時には、知らぬ僧でもお近くへまいるのですから、私も医師並みに御簾みすの中へお呼びいただいてもいいわけでしょう。こうした人づてのお言葉は私を失望させてしまいます」
 と言い、情けなさそうにしているのを、先夜の事情を知っている女房らが、
「仰せになりますとおり、お席があまり失礼でございます」
 と言い、中央の母屋もやの御簾を皆おろして、夜居の僧のはいる室へ薫を案内したのを、中の君は実際身体も苦しいのであったが、女房もこう言っているのに、あらわに拒絶するのもかえって人を怪しがらせる結果になるかもしれぬと思い、物憂ものうく思いながら少しいざって出て話すことにした。
 ごくほのかに時々ものを言う様子に、死んだ恋人の病気の初期のころのことが思われるのもよい兆候でないと薫は非常に悲しくなり、心が真暗まっくらになり、すぐにもものが言われず、ためらいながら、話を続けた。ずっと奥のほうに中の君のいるのも恨めしくて、御簾の下から几帳きちょうを少し押すような形にして、例のなれなれしげなふうを示すのが苦しく思われ、困ることに考えられて、中の君は少将の君という人をそばへ呼んで、
「私は胸が痛いからしばらくおさえて」
 と言っているのを聞いて、
「胸はおさえるとなお苦しくなるものですが」
 こう言って歎息たんそくらしながら薫のすわり直したことにさえ、母屋もやの中の夫人は不安が感ぜられた。
「どうしてそんなに始終お苦しいのでしょう。人に聞きますと、初めのうちは気持ちが悪くてもまた快くなおっている時もあると教えてくれました。あなたはそうお言いになって若々しく私を警戒なさるのでしょう」
 と薫の言うのを聞いて中の君は恥ずかしくなった。
「私は平生いつも胸が痛いのでございます。姉もそんなふうでございました。短命な人は皆こんなふうに煩うものだとか申します」
 と言った。だれも千年の松の命を持っているのでないから、あるいはそんな危険が近づいているのであるかもしれぬと思うと、薫には今の言葉が身にんで哀れに思われてきて、夫人がそばへ呼んだ女房の聞くのもはばかる気にはならず、きわめて悪い所だけは口にせぬものの、昔からどんなに深く愛していたかということを、中の君にだけは意味の通じるようにして言い、人には友情とより聞こえぬ上手じょうずな話し方を薫がしているために、その人は、今までからだれもが言うとおりに珍しい人情味のある人であるとそばにいて思っていた。表はおおかた総角あげまきの姫君と死別した尽きもせぬ悲しみを話題にしているのであった。
「私は少年のころから、この世から離れた身になりたい、正しく仏道へ踏み入るにはどうすればよいかと願うことはそれだけだったのですが、前生の因縁というものだったのでしょうか、そう御接近したわけでもないあの方を恋しく思い始めました時から、私の信仰に傾いた心が違ってきまして、またお死なせしてからはあちらこちらの女性と交渉を始めることもして、悲痛な心を慰めようとしたこともありましたが、そんなことは何の効果もあるものでないことが確かにわかりました。私に魅力を及ぼす人がほかにはこの世にいないことがわかりましたから、好色らしいと誤解されますのは恥ずかしいのですがそうした不良性な愛であなたをお思いしてこそ無礼きわまるものでしょうが、私の望むところは淡々たるもので、ただこれほどの隔てで時々あなたへ直接その時その気持ちをお話し申し上げて、そしてなんとかお言葉をいただくことができます程度のむつまじさで御交際することはだれも非難のいたしようもないことでしょう。私の変わった性情は世間一般の人が認めているのですから、どこまでもあなたは御安心していてください」
 などと、恨みもし、泣きもして薫は言うのである。
「御信用しておりませんでしたなら、こんなふうに誤解もされんばかりにまであなたと近しくお話などはいたしませんでしょう。長い間、父のため、姉のために御好意をお見せくださいましたことをよく存じているものですから、普通には説明のできない間柄の保護者と御信頼申し上げて、ただ今ではこちらから何かと御無心に出したりもいたしております」
「そんなことがありましたかどうだか私に覚えはないようです。そればかりのこともたいそうにおっしゃるではありませんか。今度宇治へおいでになりたいという御相談でやっと私の存在をお認めになったようなわけではありませんか。それだけでも哀れな私は満足ができたのですよ。誠意のある者とおわかりになってくだすったのですから、非常にありがたく思っております」
 こんなふうに言って、かおるには飽き足らぬ恨めしい心は見えるのであるが、聞いている者がいるのであっては、思うままのことを言いえようはずもない。庭のほうへ目をやって見ると、秋の日が次第に暗くなり、虫の声だけが何にも紛れず高く立っているが、築山のほうはもうやみになっている。こんな時間になっても驚かずしめやかなふうで柱によりかかって、去ろうと薫のしないのに中の君はやや当惑を感じていた。「恋しさの限りだにある世なりせば」(つらきをしひて歎かざらまし)などと低い声で薫は口ずさんでから、
「私はもうしかたもない悲しみのとりこになってしまったのです。どこか閑居をする所がほしいのですが、宇治辺に寺というほどのものでなくとも一つの堂を作って、昔の方の人型ひとがたはらいをして人に代わって川へ流すもの)か肖像を絵にかせたのかを置いて、そこで仏勤めをしようという気に近ごろなりました」
 と言った。
「身にしむお話でございますけれど、人型とお言いになりますので『みたらし川にせしみそぎ』(恋せじと)というようなことが起こるのではないかという不安も覚えられます。代わりのものは真のものでございませんからよろしくございませんから昔の人に気の毒でございますね。黄金こがねを与えなければよくはいてくれませんような絵師があるかもしれぬと思われます」
 こう中の君は言う。
「そうですよ。その絵師というものは決して気に入った肖像を作ってくれないでしょうからね。少し前の時代にその絵から真実の花が降ってきたとかいう伝説の絵師がありますがね、そんな人がいてくれればね」
 何を話していても死んだ人を惜しむ心があふれるように見えるのを中の君は哀れにも思い、自身にとって一つの煩わしさにも思われるのであったが、少し御簾みすのそばへ寄って行き、
「人型とお言いになりましたことで、偶然私は一つの話を思い出しました」
 と言い出した。その様子に常にえた親しみの見えるのが薫はうれしくて、
「それはどんなお話でしょう」
 こう言いながら几帳の下から中の君の手をとらえた。煩わしい気持ちに中の君はなるのであったが、どうにかしてこの人の恋をやめさせ、安らかにまじわっていきたいと思う心があるため、女房へも知らせぬようにさりげなくしていた。
「長い間そんな人のいますことも私の知りませんでした人が、この夏ごろ遠い国から出てまいりまして、私のここにいますことを聞いて音信たよりをよこしたのですが、他人とは思いませんものの、はじめて聞いた話を軽率けいそつにそのまま受け入れて親しむこともできぬような気になっておりましたのに、それが先日ここへいにまいりました。その人の顔が不思議なほどくなりました姉に似ていましたのでね、私は愛情らしいものを覚えたのです。形見に見ようと思召すのには適当でございませんことは、女たちも姉とはまるで違った育ち方の人のようだと言っていたことで確かでございますが、顔や様子がどうしてあんなにも似ているのでしょう。それほどなつながりでもございませんのに」
 この中の君の言葉を薫はあるべからざる夢の話ではないかとまで思って聞いた。
「しかるべきわけのあることであなたをお慕いになっておいでになったのでしょう。どうしてただ今までその話を少しもお聞かせくださらなかったのでしょう」
「でも古い事実は私に否定も肯定もできなかったのでございますからね。何のたよりになるものも持たずにさすらっている者もあるだろうとおっしゃって、気がかりなふうにお父様が時々おらしになりましたことなどで思い合わされることもあるのですが、過去の不幸だった父がまたそんなことで冷嘲れいちょうされますことの添いますのも心苦しゅうございまして」
 中の君のこの言葉によれば、八の宮のかりそめの恋のお相手だった人が得ておいた形見の姫君らしいと薫は悟った。大姫君に似たと言われたことに心がかれて、
「そのよくおわかりにならないことはそのままでもいいのですから、もう少しくわしくお話をしてくださいませんか」
 と中納言は望んだが、羞恥しゅうちを覚えて中の君は細かなことを言って聞かせなかった。
「その人を知りたく思召すのでございましたら、その辺と申すことくらいはお教え申してもいいのでございますが、私もくわしくは存じません。またあまり細かにお話をいたせばいやにおなりになることに違いございませんし」
「幻術師を遠い海へつかわされた話にも劣らず、あの世の人を捜し求めたい心は私にもあるのです。そうした故人の生まれ変わりの人と見ることはできなくても、現在のような慰めのない生活をしているよりはと思う心から、その方に興味が持たれます。人型として見るのに満足しようとする心から申せば山里の御堂みどうの本尊を考えないではおられません。なおもう少し確かな話を聞かせてくださいませんか」
 中納言は新しい姫君へにわかに関心を持ち出して中の君を責めるのだった。
「でもお父様が子と認めてお置きになったのでもない人のことを、こんなにお話ししてしまいますのは軽率なことなのですが、神通力のある絵師がほしいとお思いになるあなたをお気の毒に思うものですから」
 こう言ってから、さらに、
「長く遠い国でなど育てられていましたことで、その母が不憫ふびんがりまして、私の所へいろいろと訴えて来ましたのを、冷淡に取り合わずにいることはできないでいますうちに、ここへまいったのです。ほのかにしか見ることができませんでしたせいですか、想像していましたよりは見苦しくなく見えました。どういう結婚をさせようかと、それを母親は苦労にしている様子でしたが、あなたの御堂の仏様にしていただきますことはあまりに過分なことだと思います。それほどの資格などはどうしてあるものではありません」
 など夫人は言った。それとなく自分の恋を退ける手段として中の君の考えついたことであろうと想像される点では恨めしいのであったが、故人に似たという人にはさすがに心のかれる薫であった。自分の恋をあるまじいこととは深く思いながらも、あらわに侮蔑ぶべつを見せぬのも中の君が自分へ同情があるからであろうと思われる点で興奮をして中納言が話し続けているうちに夜もふけわたったのを、夫人は人目にどう映ることかという恐れを持って、相手のすきを見て突然奥へはいってしまったのを、返す返すも道理なことであると思いながらも薫は、恨めしい、くちおしい気持ちが静められなくて涙までもこぼれてくる不体裁さに恥じられもして、複雑なもだえをしながらも、感情にまかせた乱暴な行為に出ることは、恋人のためにも自分のためにも悪いことであろうと、しいて反省をして、平生よりも多く歎息をしながら辞去した。
 こんなに恋しい心はどう処理すればいいのであろう、これが続いていくばかりでは苦しさに堪えられなくなるに違いない、どんなにすれば世間の非難も受けず、しかも恋のかなうことになるであろうなどと、多くの恋愛に鍛え上げてきた心でない青年の中納言であるせいか、自身のためにも中の君のためにも無理で、とうてい平和な道のありえない思いをし続けてその夜は明かした。似ているとあの人が言った人をそのとおりに信じて情人の関係を結ぶようなことはできない、地方官階級の家に養われている人であれば、こちらで行なおうとすることに障害になるものもないであろうが、当人の意志でもない関係を結ぶのはおもしろくないことに相違ないなどと思い、話を聞いた時には一時的に興奮を感じたものの、冷静になってみれば心をさほど惹く価値もないことと薫はしているのであった。
 宇治の山荘を長く見ないでいるといっそうに恋しい昔と遠くなる気がして心細くなる薫は、九月の二十幾日に出かけて行った。主人のない家は河風かわかぜがいっそう吹き荒らして、すごい騒がしい水音ばかりが留守居をし、人影も目につくかつかぬほどにしか徘徊はいかいしていない。ここに来てこれを見た時から中納言の心は暗くなり、限りもない悲しみを覚えた。弁の尼にいたいと言うと、障子口をあけ、青鈍あおにび色の几帳のすぐ向こうへ来て挨拶あいさつをした。
「失礼なのでございますが、このごろの私はまして無気味な姿になっているのでございますから、御遠慮をいたすほうがよいと思われまして」
 と言い、顔は現わさない。
「どんなにあなたが寂しく暮らしておいでになるだろうと思うと、そのあなただけが私の悲しみを語る唯一の相手だと思われて出て来ましたよ。年月はずんずんたっていきました、あれから」
 涙を一目浮かべて薫がこう言った時、老女はましてとめようもない泣き方をした。
「御自身のためでなく、お妹様のために深い物思いを続けておいでになったころは、こんな秋の空であったと思い出しますと、いつでも寂しい私ではございましても、特別に秋風は身にんでつろうございます。実際今になりますと、大姫様の御心配あそばしましたのがごもっともなような現象が京では起こってまいったようにここでも承りますのは悲しゅうございます」
「一時はどんなふうに見えることがあっても、時さえたてばまた旧態にもどるものであるのに、あの方が一途に悲観をして病気まで得ておしまいになったのは、私がよく説明をしなかったあやまりだと、それを思うと今も悲しいのですよ。中姫君の今経験しておられるようなことは、まず普通のことと言わねばなりますまい。決して宮の御愛情は懸念を要するような薄れ方になっていないと思われます。それよりも言っても言っても悲しいのはやはり死んだ方ですよ。死んでしまってはもう取り返しようがない」
 と言ってかおるは泣いた。
 薫は阿闍梨あじゃりを寺から呼んで、大姫君の忌日の法会ほうえに供養する経巻や仏像のことを依託した。また、
「私はこんなふうに時々ここへ来ますが、来てはただ故人の死を悲しむばかりで、霊魂の慰めになることでもない無益な歎きをせぬために、この寝殿をこぼってお山のそばへ堂にして建てたく思うのです。同じくは速くそれに取りかからせたいと思っています」
 とも言い、堂を幾つ建て、廊をどうするかということについて、それぞれ書き示しなど薫のするのを、阿闍梨は尊い考えつきであると並み並みならぬ賛意を表していた。
「昔の方が風雅な山荘として地を選定してお作りになった家をこぼつことは無情なことのようでもありますが、その方御自身も仏教を唯一の信仰としておられて、すべてを仏へささげたく思召してもまた御遺族のことをお思いになって、そうした御遺言はしておかれなかったのかと解釈されます。今では兵部卿ひょうぶきょう親王の夫人の御所有とすべき家であってみれば、あの宮様の御財産の一つですから、このおやしきのままで寺にしては不都合でしょう。私としてもかってにそれはできない。それに地所もあまりに川へ接近していて、川のほうから見え過ぎる、ですから寝殿だけをこぼって、ここへは新しい建物を代わりに作って差し上げたい私の考えです」
 と薫が言うと、
「きわめて行き届いたお考えでけっこうです。最愛の人をくしましてから、その骨を長年袋へ入れくびへ掛けていた昔の人が、仏の御方便でその袋をお捨てさせになり、信仰の道へはいったという話もございます。この寝殿を御覧になるにつけましてもお心を悲しみに動かすということはむだなことです。御堂をお建てになることは多くの人を新しく道に導くよき方法でもあり、御霊魂をお慰め申すにも役だつことでもございます。急いで取りかかりましょう。陰陽おんよう博士はかせが選びます吉日に、経験のある建築師二、三人をおよこしくださいましたならば、細かなことはまた仏家の定式がありますから、それに準じて作らせることにいたしましょう」
 阿闍梨はこう言って受け合った。いろいろときめることをきめ、領地の預かり人たちを呼んで、御堂の建築の件について、すべて阿闍梨の命令どおりにするようにと薫は言いつけたりしているうちに短い秋の日は暮れてしまったので、山荘で一泊していくことに薫はした。
 この寝殿を見ることも今度限りになるであろうと思い、薫はあちらこちらの間をまわって見たが、仏像なども皆御寺のほうへ移してしまったので、弁の尼のお勤めをするだけの仏具が置かれてある寂しい仏室ぶつまを見て、こんな所にどんな気持ちで彼女は毎日暮らしているのであろうと薫は哀れに思った。
「この寝殿は建て直させることにします。でき上がるまでは廊の座敷へ住んでおいでなさい。二条の院の女王にょおう様のほうへお送りすべきものは私の荘園の者を呼んで持たせておあげなさい」
 などと薫はこまごまとした注意までも弁の尼にしていた。ほかの場所ではこんな老いた女などは視野の外に置いて関心を持たずにいるのであろうが、弁に対しては深い同情を持つ薫は、夜も近い室へ寝させて昔の話をした。弁も聞く人のないのに安心して、とう大納言のことなどもこまごまと薫に聞かせた。
「もう御容体がおむずかしくなりましてから、お生まれになりました方をしきりに見たく思召す御様子のございましたのが始終私には忘れられないことだったのでございましたのに、その時から申せばずっと末の世になりまして、こうしてお目にかかることができますのも、大納言様の御在世中真心でお仕えいたしました報いが自然に現われてまいりましたのかと、うれしくも悲しくも思い知られるのでございます。長過ぎる命を持ちまして、さまざまの悲しいことにあうと申す私の宿命が恥ずかしく、情けなくてなりません。二条の院の女王様から時々は逢いに出て来い、それきり来ようとしないのは私を愛していないのだろうなどとおっしゃってくださるおりもございますが、縁起の悪い姿になった私は、もう阿弥陀あみだ様以外にお逢い申したい方もございません」
 などと弁の尼は言った。大姫君の話も多く語った。親しく仕えて見聞きした話をし、いつどんな時にこうお言いになったとか、自然の風物に心の動いた時々に、故人のんだ歌などを、不似合いな語り手とは見えずに、声だけはふるえていたが上手じょうずに伝え、おおようで言葉の少ない人であったが、そうした文学的なところもあったかと、薫はさらに故人をなつかしく思った。宮の夫人はそれに比べて少し派手はでな性質であって、心を許さない人には毅然きぜんとした態度もとる型の人らしくはあるが、自分へは同情が深く、どうして自分の恋から身をはずそう、事のない友情だけで永久に親しみたいと思うところがあると薫は二人の女王を比較して思ったりした。こんな話のついでにあの人型のことを薫は言い出してみた。
「京にこのごろその人はいるのでございますかねえ。昔のことを私は人から聞いて知っているだけでございます。八の宮様がまだこの山荘へおいでになりませぬ以前のことで、奥様がおかくれになって近いころに中将の君と言っておりました、よい女房で、性質などもよい人を、宮様はかりそめなように愛人にあそばしたのを、だれも知った者はございませんでしたところ、女の子をその人が生みました時に、宮様がそんなことが起こるかもしれぬという懸念けねんを持っておいでになったものですから、それ以後の御態度がすっかりと変わりまして、絶対にお近づきになることはなかったのでございます。それが動機でありのすさびというものにお懲りになりまして、坊様と同じ御生活をあそばすことになったので、中将はお仕えしていますこともきまり悪くなりまして下がったのですが、それからのちに陸奥守むつのかみの家内になって任国へ行っておりまして、上京しました時に、姫君は無事に御成長なさいましたとこちらへほのめかしてまいりましたのを、宮様がお聞きになりまして、そんな音信たよりをこちらへしてくる必要はないはずだと言い切っておしまいになりましたので、中将は歎いていたと申します。それがまた主人が常陸介ひたちのすけになっていっしょにあずまへまいりましたが、それきり消息をだれも聞かなかったのでございます。この春常陸介が上ってまいりまして、中将が中の君様の所へたずねてまいりましたと申すことはちょっと聞きましてございます。姫君は二十くらいになっていらっしゃるのでしょう。非常に美しい方におなりになったのを拝見する悲しさなどを、まだ中将さんの若いころ小説のようにして書いたりしたこともございました」
 すべてを聞いた薫は、それではほんとうのことらしい。その人を見たいという心が起こった。
「昔の姫君に少しでも似た人があれば遠い国へでも尋ねて行きたい心のある私なのだから、子として宮がお数えにならなかったとしても結局妹さんであることは違いのないことなのですから、私のこの心持ちをわざわざ正面から伝えるようにではなく、こう言っていたとだけを、何かの手紙が来たついでにでも言っておいてください」
 とだけ薫は頼んだ。
「お母さんは八の宮の奥様のめいにあたる人なのでございます。私とも血の続いた人なのですが、昔は双方とも遠い国に住んでいまして、たびたび逢うようなことはなかったのでございます。先日京から大輔たゆうが手紙をよこしまして、あの方がどうかして宮様のお墓へでもお行きになりたいと言っていらっしゃるから、そのつもりでということでしたが、中将からは久しぶりの音信たよりというものもくれません。でございますからそのうちこちらへお見えになるでしょう。その節にあなた様の仰せをお伝えいたしましょう」
 夜が明けたので薫は帰ろうとしたが、昨夜遅れて京から届いた絹とか綿とかいうような物を御寺みてら阿闍梨あじゃりへ届けさせることにした。弁の尼にも贈った。寺の下級の僧たち、尼君の召使いなどのために布類までも用意させてきて薫は与えたのだった。心細い形の生活であるが、こうして中納言が始終補助してくれるために、気楽に質素な暮らしが弁にできるのである。
 堪えがたいまでに吹き通す木枯こがらしに、残る枝もなく葉を落とした紅葉もみじの、積もりに積もり、だれも踏んだ跡も見えない庭にながめ入って、帰って行く気の進まなく見える薫であった。よい形をした常磐木ときわぎにまとったつたの紅葉だけがまだ残ったあかさであった。こだにつるなどを少し引きちぎらせて中の君への贈り物にするらしく薫は従者に持たせた。

やどり木と思ひでずば木のもとの旅寝もいかに寂しからまし

 と口ずさんでいるのを聞いて、弁が、

荒れはつる朽ち木のもとを宿り木と思ひおきけるほどの悲しさ

 という。あくまで老いた女らしい尼であるが、趣味を知らなくないことで悪い気持ちは中納言にしなかった。
 二条の院へ宿り木の紅葉を薫の贈ったのは、ちょうど宮が来ておいでになる時であった。


 

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