山里の松の蔭にもかくばかり身にしむ秋の風はなかりき
過去の悲しい夢は忘れたのであろうか。 老いた女房などが、 「もうおはいりあそばせ、月を長く見ますことはよくないことだと申しますのに。それにこの節ではちょっとしましたお菓子すら召し上がらないのですから、こんなことでどうおなりになりますでしょう。よくございません。以前の悲しいことも私どもにお思い出させになりますのは困ります。おはいりあそばせ」 こんなことを言う。若い女房らは情けない世の中であると歎息をして、 「宮様の新しい御結婚のこと、ほんとうにいやですね。けれどこの奥様をお捨てあそばすことにはならないでしょう。どんな新しい奥様をお持ちになっても、初めに深くお愛しになった方に対しては情けの残るものだと言いますからね」 などと言っているのも中の君の耳にはいってくる。見苦しいことである、もうどんなことになっても何とも自分からは言うまい、知らぬふうでいようとこの人が思っているというのは、人には批評をさせまい、自身一人で宮をお恨みしようと思うのであるかもしれない。 「そうじゃありませんか、宮様に比べてあの中納言様の情のお深さ」 とも老いた女は言い、 「あの方の奥様になっておいでにならないで、こちらの奥様におなりになったというのも不可解な運命というものですね」 こんなこともささやき合っていたのである。 宮は中の君を心苦しく思召しながらも、新しい人に興味を次々お持ちになる御性質なのであるから、先方に喜ばれるほどに美しく装っていきたいお心から、薫香を多くたきしめてお出かけになった姿は、寸分の隙もないお若い貴人でおありになった。六条院の東御殿もまた華麗であった。小柄な華奢な姫君というのではなく、よいほどな体格をした新婦であったから、どんな人であろう、たいそうに美人がった柔らかみのない、自尊心の強いような女ではなかろうか、そんな妻であったならいやになるであろうと、こんなことを最初はお思いになったのであるが、そうではないらしくお感じになったのか愛をお持ちになることができた。秋の長夜ではあったが、おそくおいでになったせいでまもなく明けていった。 兵部卿の宮はお帰りになってもすぐに西の対へおいでになれなかった。しばらく御自身のお居間でお寝みになってから起きて新夫人の文をお書きになった。あの御様子ではお気に入らないのでもなかったらしいなどと女房たちは陰口をしていた。 「対の奥様がお気の毒ですね。どんなに大きな愛を宮様が持っておいでになっても、自然気押されることも起こるでしょうからね」 ただの主従でない関係も宮との間に持っている人が多かったから、ここでも嫉妬の気はかもされているのである。あちらからの返事をここで見てからと宮は思っておいでになったのであるが、別れて明かしたのもただの夜でないのであるから、どんなに寂しく思っていることであろうと、中の君がお気にかかってそのまま西の対へおいでになった。まだ夜のまま繕われていない夫人の顔が非常に美しく心を惹くところがあって、宮のおいでになったことを知りつつ寝たままでいるのも、反感をお招きすることであるからと思い、少し起き上がっている顔の赤みのさした色などが、今朝は特別にまたきれいに見えるのであった。何のわけもなく宮は涙ぐんでおしまいになって、しばらく見守っておいでになるのを、中の君は恥ずかしく思って顔を伏せた。そうされてまた、髪の掛かりよう、はえようなどにたぐいもない美を宮はお感じになった。きまりの悪さに愛の言葉などはちょっと口へ出ず、なにげないふうに紛らして、 「どうしてこんなに苦しそうにばかり見えるのだろう。暑さのせいだとあなたは言っていたからやっと涼しくなって、もういいころだと思っているのに、晴れ晴れしくないのはいけないことですね。いろいろ祈祷などをさせていても効験の見えない気がする。それでも祈祷はもう少し延ばすほうがいいね。効験をよく見せる僧がほしいものだ、何々僧都を夜居にしてあなたにつけておくのだった」 というようなまじめらしい話をされるのにもお口じょうずなのがうとましく思われる中の君でもあったが、何もお返辞をしないのは平生に違ったことと思われるであろうとはばかって、 「私は昔もこんな時には普通の人のような祈祷も何もしていただかないで自然になおったのですから」 と言った。 「それでよくなおっているのですか」 と宮はお笑いになって、なつかしい愛嬌の備わった点はこれに比べうる人はないであろうとお思いになったのであるが、お心の一方では新婦をなおよく知りたいとあせるところのおありになるのは、並み並みならずあちらにも愛着を覚えておいでになるのであろう。しかしながらこの人と今いっしょにおいでになっては、昨日の愛が減じたとは少しもお感じにならぬのか、未来の世界までもお言いだしになって、変わらない誓いをお立てになるのを聞いていて、中の君は、 「仏の教えのようにこの世は短いものに違いありません。しかもその終わりを待ちますうちにも、あなたが恨めしいことをなさいますのを見なければなりませんから、それよりも未来の世のお約束のほうをお信じしていていいかもしれないと思うことで、まだ懲りずにあなたのお言葉に信頼しようと思います」 と言い、もう忍びきれなかったのか今日は泣いた。今日までもこんなふうに思っているとはお見せすまいとして自身で紛らわしておさえてきた感情だったのであるが、いろいろと胸の中に重なってきて隠されぬことになり、こぼれ始めた涙はとめようもなく多く流れるのを、恥ずかしく苦しく思って、顔をすっかり向こうに向けているのを、しいて宮はこちらへお引き向けになって、 「二人がいっしょに暮らして、同じように愛しているのだと思っていたのに、あなたのほうにはまだ隔てがあったのですね。それでなければ昨夜のうちに心が変わったのですか」 こうお言いになり宮は御自身の袖で夫人の涙をおぬぐいになると、 「夜の間の心変わりということからあなたのお気持ちがよく察せられます」 中の君は言って微笑を見せた。 「ねえ、どうしたのですか、ねえ、なんという幼稚なことをあなたは言いだすのですか。けれどもあなたはほんとうは私へ隔てを持っていないから、心に浮かんだだけのことでもすぐ言ってみるのですね。だから安心だ。どんなにじょうずな言い方をしようとも私が別な妻を一人持ったことは事実なのだから私も隠そうとはしない。けれど私を恨むのはあまりにも世間というものを知らないからですよ。可憐だが困ったことだ。まああなたが私の身になって考えてごらんなさい。自身を自身の心のままにできないように私はなっているのですよ。もし光明の世が私の前に開けてくればだれよりもあなたを愛していた証明をしてみせることが一つあるのです。これは軽々しく口にすべきことではないから、ただ命が長くさえあればと思っていてください」 などと言っておいでになるうちに宮が六条院へお出しになった使いが、先方で勧められた酒に少し酔い過ぎて、斟酌すべきことも忘れ、平気でこの西の対の前の庭へ出て来た。美しい纏頭の衣類を肩に掛けているので後朝の使いであることを人々は知った。いつの間にお手紙は書かれたのであろうと想像するのも快いことではないはずである。宮もしいてお隠しになろうと思召さないのであるが、涙ぐんでいる人の心苦しさに、少し気をきかせばよいものをと、ややにがにがしく使いのことをお思いになったが、もう皆暴露してしまったのであるからとお思いになり、女房に命じて返事の手紙をお受け取らせになった。できるならば朗らかにしていま一人の妻のあることを認めさせてしまおうと思召して、手紙をおあけになると、それは継母の宮のお手になったものらしかったから、少し安心をあそばして、そのままそこへお置きになった。他の人の書いたものにもせよ、宮としてはお気のひけることであったに違いない。
私などが出すぎたお返事をいたしますことは、失礼だと思いまして、書きますことを勧めるのですが、悩ましそうにばかりいたしておりますから、
をみなへし萎れぞ見ゆる朝露のいかに置きける名残なるらん
貴女らしく美しく書かれてあった。 「恨みがましいことを言われるのも迷惑だ。ほんとうは私はまだ当分気楽にあなたとだけ暮らして行きたかったのだけれど」 などと宮は言っておいでになったが、一夫一婦であるのを原則とし正当とも見られている普通の人の間にあっては、良人が新しい結婚をした場合に、その前からの妻をだれも憐むことになっているが、高い貴族をその道徳で縛ろうとはだれもしない。いずれはそうなるべきであったのである。宮たちと申し上げる中でも、輝く未来を約されておいでになるような兵部卿の宮であったから、幾人でも妻はお持ちになっていいのであると世間は見ているから、格別二条の院の夫人が気の毒であるとも思わぬらしい。こんなふうに夫人としての待遇を受けて、深く愛されている中の君を幸福な人であるとさえ言っているのである。 中の君自身もあまりに水も洩らさぬ夫婦生活に慣らされてきて、にわかに軽く扱われることが歎かわしいのであろうと見えた。こんなに二人と一人というような関係になった場合は、どうして女はそんなに苦悶をするのであろうと昔の小説を読んでも思い、他人のことでも腑に落ちぬ気がしたのであるが、わが身の上になれば心の痛いものである、苦しいものであると、今になって中の君は知るようになった。宮は前よりもいっそう親しい良人ぶりをお見せになって、 「何も食べぬということは非常によろしくない」 などとお言いになり、良製の菓子をお取り寄せになりまた特に命じて調製をさせたりもあそばして夫人へお勧めになるのであったが、中の君の指はそれに触れることのないのを御覧になって、 「困ったことだね」 と宮は歎息をしておいでになったが、日暮れになったので寝殿のほうへおいでになった。涼しい風が吹き立って、空の趣のおもしろい夕べである。はなやかな趣味を持っておいでになったから、こんな場合にはまして美しく御風采をお作りになり出てお行きになる宮を知っていて、物哀れな夫人の心には忍び余る愁いの生じるのも無理でない。蜩の声を聞いても宇治の山陰の家ばかりが恋しくて、
おほかたに聞かましものを蜩の声うらめしき秋の暮れかな
と独言たれた。今夜はそう更かさずに宮はお出かけになった。前駆の人払いの声の遠くなるとともに涙は海人も釣り糸を垂れんばかりに流れるのを、われながらあさましいことであると思いつつ中の君は寝ていた。結婚の初めから連続的に物思いをばかりおさせになった宮であると、その時、あの時を思うと、しまいにはうとましくさえ思われた。身体の苦しい原因をなしている妊娠も無事に産が済まされるかどうかわからない、短命な一族なのであるから、その場合に死ぬのかもしれないなどと思っていくと、命は惜しく思われぬが、また悲しいことであるとも中の君は思った。またそうした場合に死ぬのは罪の深いことなのであるからなどと眠れぬままに思い明かした。 次の日は中宮が御病気におなりになったというので、皆御所へまいったのであるが、少しの御風気で御心配申し上げることもないとわかった左大臣は、昼のうちに退出した。源中納言を誘って同車して自邸へ向かったのである。この日が三日の露見の式の行なわれる夜になっていた。どんなにしても華麗に大臣は式を行なおうとしているのであろうが、こんな時のことは来賓に限りがあって、派手にしようもなかろうと思われた。薫をそうした席へ連ならせるのはあまりに高貴なふうがあって心恥ずかしく大臣には思われるのであるが、婿君と親密な交情を持つ人は自分の息子たちにもないのであったし、また一家の人として他へ見せるのに誇りも感じられる薫であったから伴って行ったらしい。平生にも似ず兄とともに忙しい気持ちで六条院へはいって、六の君を他人の妻にさせたことを残念に思うふうもなく、何かと式の用を兄のために手つだってくれるのを、大臣は少し物足らぬことに思いもした。 八時少し過ぐるころに宮はおいでになった。寝殿の南の間の東に寄せて婿君のお席ができていた。高脚の膳が八つ、それに載せた皿は皆きれいで、ほかにまた小さい膳が二つ、飾り脚のついた台に載せたお料理の皿など、見る目にも美しく並べられて、儀式の餠も供えられてある。こんなありふれたことを書いておくのがはばかられる。 大臣が新夫婦の居間のほうへ行って、もう夜がふけてしまったからと女房に言い、宮の御出座を促すのであったが、宮は六の君からお離れになりがたいふうで渋っておいでになった。今夜の来賓としては雲井の雁夫人の兄弟である左衛門督、藤宰相などだけが外から来ていた。やっとしてから出ておいでになった宮のお姿は美しくごりっぱであった。主人がたの頭中将が盃を御前へ奉り、膳部を進めた。宮は次々に差し上げる盃を二つ三つお重ねになった。薫が御前のお世話をして御酒をお勧めしている時に、宮は少し微笑をお洩らしになった。 以前にこの縁組みの話をあそばして、堅苦しく儀礼ばることの好きな家の娘の婿になることなどは自分に不似合いなことでいやであると薫へお言いになったのを思い出しておいでになるのであろう。中納言のほうでは何も覚えていぬふうで、あくまで慇懃にしていた。そしてまたこの人は東の対の座敷のほうに設けたお供の役人たちの酒席へまで顔を出して接待をした。はなやかな殿上役人も多かった四位の六人へは女の装束に細長、十人の五位へは三重襲の唐衣、裳の腰の模様も四位のとは等差があるもの、六位四人は綾の細長、袴などが出された纏頭であった。この場合の贈り物なども法令に定められていてそれを越えたことはできないのであったから、品質や加工を精選してそろえてあった。召次侍、舎人などにもまた過分なものが与えられたのである。こうした派手な式事は目にもまばゆいものであるから、小説などにもまず書かれるのはそれであるが、自分に語った人はいちいち数えておくことができなかったそうであった。 源中納言の従者の中に、あまり重用されない男かもしれぬが、暗い紛れに庭の中へはいって、それらの行なわれるのを見て来て、歎息を洩らし、 「うちの殿様はなぜいざこざをお言いにならないでこちらの殿様の婿におなりにならなかったろう、つまらぬ御独身生活だ」 と中門の所でつぶやいているのが耳にはいって中納言はおかしく思った。自身たちは夜ふけまで待たされていて、ただつまらぬ眠さを覚えさせられているだけであるのと、婿君の従者が美酒に酔わされて快くどこかの座敷で身を横たえているらしく思われるのとを比較してみてうらやましかったのであろう。 薫は家に入り寝室で横になりながら、新しい婿として式に臨むことはきまりの悪そうなことである、たいそうな恰好をした舅が席に出ていて、平生からなじみのある仲にもかかわらず燭をあかあかともして勧める盃などを宮は落ち着いて受けておいでになったのはごりっぱなものであったなどと思い出していた。それは実際自分でもすぐれた娘というようなものを持っていれば、この宮以外には御所へでもお上げする気にはなれなかったであろうと思われた薫は、どこの家でも匂宮へ奉ろうとして志を得なかった人はまだ源中納言という同じほどな候補者があると、何にも自分が宮にお並べして言われるのは世間の受けが決して悪くない自分とせねばならないなどと思い上がりもされた。内親王を賜わるという帝の思召しなるものが真実であれば、こんなふうに気の進まぬ自分はどうすればいいのであろう、名誉なことにもせよ、自分としてありがたく思われない、女二の宮が死んだ恋人によく似ておいでになったならその時はうれしいであろうがとさすがに否定をしきっているのでもない中納言であった。例のような目のさめがちな独り寝のつれづれさを思って按察使の君と言って、他の愛人よりはやや深い愛を感じている女房の部屋へ行ってその夜は明かした。朝になりきればとて人が奇怪がることでもないのであるが、そんなことも気にするらしく急いで起きた薫を、女は恨めしく思ったに違いない。
うち渡し世に許しなき関川をみなれそめけん名こそ惜しけれ
と按察使は言った。哀れに思われて、
深からず上は見ゆれど関川のしもの通ひは絶ゆるものかは
薫はこう言った。恋の心は深いと言われてさえ頼みにならぬものであるのに、上は浅いと認めて言われるのに女は苦痛を覚えなかったはずはない。妻戸を薫はあけて、 「この夜明けの空のよさを思って早く出て見たかったのだ。こんな深い趣を味わおうとしない人の気が知れないね、風流がる男ではないが、夜長を苦しんで明かしたのちの秋の黎明は、この世から未来の世のことまでが思われて身にしむものだ」 こんなことを紛らして言いながら薫は出て行った。女を喜ばそうとして上手なことを多く言わないのであるが、艶な高雅な風采を備えた人であるために、冷酷であるなどとはどの相手も思っていないのであった。仮なように作られた初めの関係を、そのままにしたくなくて、せめて近くにいて顔だけでも見ることができればというような考えを持つのか、尼になっておいでになる所にもかかわらず、縁故を捜してこの宮へ女房勤めに出ている人々はそれぞれ身にしむ思いをするものらしく見えた。 兵部卿の宮は式のあったのちの日に新夫人を昼間御覧になることによって、いっそう深い愛をお覚えになった。中くらいな背丈で、全体から受ける感じが清らかな人である。頬にかかった髪、頭つきはその中でも目だって美しい。皮膚があまりにも白いにおわしい色をした誇らかな気高い顔の眸つきはきわめて貴女らしくて、何の欠点もない美人というほかはない。二十一、二であった。少女ではないから完成されぬところもなくて妍麗なる盛りの花と見えた。大事に育てられてきた価値は十分に受けとれた。親の愛でこれを見れば、目もくらむ美女と思われるに違いない。ただ柔らかで愛嬌があって、可憐な点は中の君のよさがお思われになる宮であった。話をされた時にする返辞も羞じらってはいるが、またたよりない気を覚えさせもしない。確かな価値の備わった才女らしい姫君であった。きれいな若い女房が三十人ほど、童女六人が姫君付きで、そうした人の服装なども、きらきらしいものは飽くほど見ておいでになる兵部卿の宮だと思い、不思議なほど目だたぬふうに作らせてあった。三条の夫人が生んだ長女を東宮へ奉った時よりも今度の婿迎えを大事に夕霧の大臣は準備したというのも、宮の御声望の高さがさせたことであろう。 それからのちの宮は二条の院へ気安くおいでになることもおできにならなかった。軽い御身分でなかったから、昼間をそちらへ行っておいでになるということもむずかしくて、六条院の中の南の御殿に以前ずっとおいでになったようにしてお住みになり、日が暮れると東御殿を余所にしてお出かけになることもおできになれなかったりして、宮が幾日もおいでにならぬことのあるため、こうなることであろうとは思ったが、すぐにも露骨に冷淡なお扱いを受けることになったではないか、賢い人であれば自分の無価値さをよく知って京へまでは出て来なかったはずであったと、今になっては返す返す宇治を離れて来たことが正気をもってしたこととは思えなくて悲しい中の君は、やはりどうともして宇治へ行くことにしたい、ここを捨てて行くふうではなくて、あちらでしばらくでも心を休めたい、反抗的に行なえば人聞きも悪いであろうが、それならばいいはずである、とこの煩悶を一人で背負いきれぬように思い、恥ずかしくは思ったが源中納言に手紙を送った。
父君の仏事の日のことは阿闍梨から報告がございましてくわしく知ることができました。あなたのように昔の名残を思ってくださいます方がありませんでしたなら、どんなに故人はみじめであったかと思われますにつけても御親切がうれしくばかり思われます。なおこのお礼はお目にかかれます時に自身で申し上げたいと思います。
という文であった。檀紙の上の字も見栄をかまわずまじめな書きぶりがしてあるのであるが、それもまた美しく思われた。八の宮の御忌日に僧を集めて法事を宇治で薫が行なってくれたのに対する礼状なのであって、おおげさに謝意は述べてないが好意は深く認めているらしく思われた。平生はこちらから送る手紙の返事さえ気を置くふうに短くより書いて来ない人が、自身でまた口ずからお礼を申し上げたいと思うというようなことの書かれてあることのうれしさに薫の心はときめいた。宮がお得になったはなやかな生活に心が多くお引かれになって、二条の院へはよくもおいでにならないことについての中の君の煩悶も見えるのが哀れで、恋愛的なものではない手紙であるが、手から放たず何度となく薫は繰り返して読んでいた。返事は、
承りました。先日は僧のようなことを多く申して、昔のことばかりを歎いた私でしたが、それは追想にとらわれざるをえない時節だったからです。名残とお書きになりましたことで、私が故人の宮様にお持ちする感情を少し浅く御覧になっていらっしゃるのではないかと恨めしくなります。 何も皆近く参上してお話しいたしましょう。
と、きまじめな文章が、白い厚い色紙に書いて送られた。 薫は翌日の夕方に二条の院の中の君を訪ねた。中の君を恋しく思う心の添った人であるから、わけもなく服装などが気になり、柔らかな衣服に、備わるが上の薫香をたきしめて来たのであったから、あまりにも高いにおいがあたりに散り、常に使っている丁字染めの扇が知らず知らず立てる香などさえ美しい感じを覚えさせた。中の君も昔のあの夜のことが思い出されることもないのではなかったから、父宮と姉君への愛の深さが認識されるにつけても、運命が姉の意志のままになっていたのであったらと心の動揺を覚えたかもしれない。少女ではないのであるから、恨めしい方の心と比べてみて、何につけてもりっぱな薫がわかったのか、平生あまりに遠々しくもてなしていて気の毒であった、人情にうとい女だとこの人が思うかもしれぬと思い、今日は前の室の御簾の中へ入れて、自身は中央の室の御簾に几帳を添え、少し後ろへ身を引いた形で対談をしようとした。 「お招きくだすったのではありませんが、来てもよろしいとのお許しが珍しくいただけましたお礼に、すぐにもまいりたかったのですが、宮様が来ておいでになると承ったものですから、御都合がお悪いかもしれぬと御遠慮を申して今日にいたしました。これは長い間の私の誠意がようやく認められてまいったのでしょうか。遠さの少し減った御簾の中へお席をいただくことにもなりました。珍しいですね」 と薫の言うのを聞いて、中の君はさすがにまた恥ずかしくなり、言葉が出ないように思うのであったが、 「この間の御親切なお計らいを聞きまして、感激いたしました心を、いつものようによく申し上げもいたしませんでは、どんなに私がありがたく存じておりますかしれませんような気持ちの一端をさえおわかりになりますまいと残念だったものですから」 と羞じらいながらできるだけ言葉を省いて言うのが絶え絶えほのかに薫へ聞こえた。 「たいへん遠いではありませんか。細かなお話もし、あなたからも承りたい昔のお話もあるのですから」 こう言われて中の君は道理に思い、少し身じろぎをして几帳のほうへ寄って来たかすかな音にさえ、衝動を感じる薫であったが、さりげなくいっそう冷静な様子を作りながら、宮の御誠意が案外浅いものであったとお譏りするようにも言い、また中の君を慰めるような話をも静々としていた。中の君としては宮をお恨めしく思う心などは表へ出してよいことではないのであるから、ただ人生を悲しく恨めしく思っているというふうに紛らして、言葉少なに憂鬱なこのごろの心持ちを語り、宇治の山荘へ仮に移ることを薫の手で世話してほしいと頼む心らしく、その希望を告げていた。 「その問題だけは私の一存でお受け合いすることができかねます。宮様へ素直にお頼みになりまして、あの方の御意見に従われるのがいいと思いますがね、そうでなくば御感情を害することになって、軽率だとお怒りになったりしましては将来のためにもよくありません。それでなく穏やかに御同意をなされればあちらへのお送り迎えを私の手でどんなにでも都合よく計らいますのにはばかりがあるものですか。夫人をお託しになっても危険のない私であることは宮様がよくご存じです」 こんなことを言いながらも、話の中に自分は過去にしそこねた結婚について後悔する念に支配ばかりされていて、もう一度昔を今にする工夫はないかということを常に思うとほのめかして次第に暗くなっていくころまで帰ろうとしない客に中の君は迷惑を覚えて、 「それではまた、私は身体の調子もごく悪いのでございますから、こんなふうでない時がございましたら、お話をよく伺わせていただきます」 と言い、引っ込んで行ってしまいそうになったのが残念に思われて、薫は、 「それにしてもいつごろ宇治へおいでになろうとお思いになるのですか。伸びてひどくなっていました庭の草なども少しきれいにさせておきたいと思います」 と、機嫌を取るために言うと、しばらく身を後ろへずらしていた中の君がまた、 「もう今月はすぐ終わるでしょうから、来月の初めでもと思います。それは忍んですればいいでしょう。皆の同意を得たりしますようなたいそうなことにいたしませんでも」 と答えた。その声が非常に可憐であって、平生以上にも大姫君と似たこの人が薫の心に恋しくなり、次の言葉も口から出ずよりかかっていた柱の御簾の下から、静かに手を伸ばして夫人の袖をつかんだ。中の君はこんなことの起こりそうな予感がさっきから自分にあって恐れていたのであると思うと、とがめる言葉も出すことができず、いっそう奥のほうへいざって行こうとした時、持った袖について、親しい男女の間のように、薫は御簾から半身を内に入れて中の君に寄り添って横になった。 「私が間違っていますか、忍んでするのがいいとお言いになったのをうれしいことと取りましたのは聞きそこねだったのでしょうかと、それをもう一度お聞きしようと思っただけです。他人らしくお取り扱いにならないでもよいはずですが、無情なふうをなさるではありませんか」 こう薫に恨まれても夫人は返辞をする気にもならないで、思わず憎みの心の起こるのをしいておさえながら、 「なんというお心でしょう、こんな方とは想像もできませんようなことをなさいます。人がどう思うでしょう、あさましい」 とたしなめて、泣かんばかりになっているのにも少し道理はあるとかわいそうに思われる薫が、 「これくらいのことは道徳に触れたことでも何でもありませんよ。これほどにしてお話をした昔を思い出してください。亡くなられた女王さんのお許しもあった私が、近づいたからといって、奇怪なことのように見ていらっしゃるのが恨めしい。好色漢がするような無礼な心を持つ私でないと安心していらっしゃい」 と言い、激情は見せずゆるやかなふうにして、もう幾月か後悔の日ばかりが続き、苦しいまでになっていく恋の悩みを、初めからこまごまと述べ続け、反省して去ろうとする様子も見せないため、中の君はどうしてよいかもわからず、悲しいという言葉では全部が現わせないほど悲しんでいた。知らない他人よりもかえって恥ずかしく、いとわしくて、泣き出したのを見て、薫は、 「どうしたのですか、あなたは、少女らしい」 こう非難をしながらも、非常に可憐でいたいたしいふうのこの人に、自身を衛る隙のないところと、豊かな貴女らしさがあって、あの昔見た夜よりもはるかに完成された美の覚えられることによって、自身のしたことであるが、これを他の人妻にさせ、苦しい煩悶をすることとなったとくやしくなり、薫もまた泣かれるのであった。夫人のそばには二人ほどの女房が侍していたのであるが、知らぬ男の闖入したのであれば、なんということをとも言って中の君を助けに出るのであろうが、この中納言のように親しい間柄の人がこの振舞をしたのであるから、何か訳のあることであろうと思う心から、近くにいることをはばかって、素知らぬ顔を作り、あちらへ行ってしまったのは夫人のために気の毒なことである。中納言は昔の後悔が立ちのぼる情炎ともなって、おさえがたいのであったであろうが、夫人の処女時代にさえ、どの男性もするような強制的な結合は遂げようとしなかった人であるから、ほしいままな行為はしなかった。こうしたことを細述することはむずかしいと見えて筆者へ話した人はよくも言ってくれなかった。 どんな時を費やしても効のないことであって、そして人目に怪しまれるに違いないことであると思った薫は帰って行くのであった。まだ宵のような気でいたのに、もう夜明けに近くなっていた。こんな時刻では見とがめる人があるかもしれぬと心配がされたというのも中の君の名誉を重んじてのことであった。妊娠のために身体の調子を悪くしているという噂も事実であった。恥ずかしいことに思い、見られまいとしていた上着の腰の上の腹帯にいたましさを多く覚えて一つはあれ以上の行為に出なかったのである、例のことではあるが臆病なのは自分の心であると思われる薫であったが、思いやりのないことをするのは自分の本意でない、一時の衝動にまかせてなすべからぬことをしてしまっては今後の心が静かでありえようはずもなく、人目を忍んで通って行くのも苦労の多いことであろうし、宮のことと、その新しいこととでもこもごもにあの人が煩悶をするであろうことが想像できるではないかなどとまた賢い反省はしてみても、それでおさえきれる恋の火ではなく、別れて出て来てすでにもう逢いたく恋しい心はどうしようもなかった。どうしてもこの恋を成立させないでは生きておられないようにさえ思うのも、返す返すあやにくな薫の心というべきである。昔より少し痩せて、気高く可憐であった中の君の面影が身に添ったままでいる気がして、ほかのことは少しも考えられない薫になっていた。宇治へ非常に行きたがっているようであったが、宮がお許しになるはずもない、そうかといって忍んでそれを行なわせることはあの人のためにも、自分のためにも世の非難を多く受けることになってよろしくない。どんなふうな計らいをすれば、世間体のよく、また自分の恋の遂げられることにもなるであろうと、そればかりを思って虚になった心で、物思わしそうに薫は家に寝ていた。 まだ明けきらぬころに中の君の所へ薫の手紙が届いた。例のように外見はきまじめに大きく封じた立文であった。
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