薫は中の君の出京について心得ておくことを女房たちに言い、山荘の留守居にあの髭男の侍などが残るであろうことを思って、ここに近い領地の支配をする者を呼び寄せて、今後もここへそれらの人の生活に不足せぬほどの物を届けさせる用も命じた。 弁は中の君の移る二条の院へ従って行こうとも思わず、さまざまのことに出あって自身の長生きするのを恨めしい気がするし、人が見ても無気味な老女と思うであろうから、もう自分は存在しないものと思われるようにと言って、尼になっていた。そして引きこもっていた部屋から薫はしいて呼び出して、哀れに変わった面影のその人を見た。いつものように大姫君の話を薫はして、 「ここへは今後も時々私は来るつもりなのですが、知った人がいなくなっては心細いのに、あなたがあとへ残ってくれるのは非常にうれしい」 など皆も言うことができず泣いてしまった。 「世の中をいとえばいとうほど延びてまいります命も恨めしゅうございますし、また私をどうなれとお思いになって、捨ててお死にになったのかと女王様も恨めしゅうございまして、人生に対して片意地になっておりますのも罪の深いことと思われましてね」 と、尼になるまでの気持ちを弁の訴えるのも老いた女らしく一徹に聞こえるのであったが、薫はよく言い慰めていた。非常に年は取っているが、昔の日に美しかった名残の髪を切り捨て後ろ梳きの尼額になったために、かえって少し若く見え雅味があるようにも思われた。故人の恋しさに堪えない心から、なぜあの人の望みどおりに尼にさせなかったのであろう、そしたならあるいは命が助かっていたかもしれぬではないか、そして二人して御仏に仕え、ますますこまやかな交情を作っていきたかった、とこんなことさえ思われる薫には、弁の尼姿さえうらやまれてきて、身体を隠すようにしている几帳を少し横へ引きやって、親しみ深くいろいろな話をした。見た所はぼけたようではあるが、ものを言う気配などに洗練された跡が見え、美しい若い日を持っていたことが想像される。
さきに立つ涙の川に身を投げば人におくれぬ命ならまし
悲しそうな表情で弁の尼は言った。 「それも罪の深いことになるのですよ、そんな死に方をしては極楽へ行けることがまれで、そして暗い中有に長くいなければならなくなるのもつまりませんよ、いっさい空とあきらめるのがいちばんいいのですよ」 とも薫は教えた。
「身を投げん涙の川に沈みても恋しき瀬々に忘れしもせじ
どんな時が来れば少しでも心の慰むことが発見されるのだろう」 と薫は言い、終わりもない哀愁をいだかせられる気持ちがした。 帰って行く気もせず物思いを続けているうちに日も暮れたが、このまま泊まっていくことは人の疑いを招くことになりやすいからと思い帰京した。 源中納言の悲しんでいた様子を中の君に語って、弁はいっそう慰めがたいふうになっていた。他の女房たちは楽しいふうで、明日の用意に物を縫うのに夢中になっていたり、老いて醜くなった顔に化粧をして座敷の中を行き歩いていたりしている一方で弁は、いよいよ世捨て人らしいふうを見せて、
人は皆いそぎ立つめる袖のうらに一人もしほをたるるあまかな
と中の君へ訴えた。
「しほたるるあまの衣に異なれやうきたる波に濡るる我が袖
世間へ出て人並みな幸福な生活が続けていけるとは思われないのだから、ことによってはここをまた最後の隠れ家として私は帰って来るつもりだから、そうなればまたあなたに逢うこともできますが、しばらくでも別れ別れになって、寂しいあなたの残るのを捨てていくかと思うと、私の進まない心はいっそう進まなくなります。あなたのような姿になった人だっても、絶対に人づきあいをしないものではないようなのですからね、そうした人と同じ気持ちになって、時々は私の所へも来てください」 などと女王はなつかしいふうに話していた。大姫君の使っていて、なお用に立つような手道具類は皆この人へのこしておくことに中の君はした。 「だれよりも深くお姉様を悲しんでいてくれるあなたを見ると、深い縁が前生からあったのではなかろうかと、こんなことも思われて特別なものにあなたが見えます」 こんなことを言われて、いよいよ弁の尼は子供が母を恋しがって泣くように泣く。自身の気持ちをおさえる力も今はないように見えた。 山荘の中はきれいに片づき、荷物はできて、中の君の乗用車、その他の車が廊に寄せられた。前駆を勤める人の中に四位や五位が多かった。兵部卿の宮御自身でも非常に迎えにおいでになりたかったのであるが、たいそうになってはかえって悪いであろうと、微行の形で新婦をお迎えになることを計らわれたのであって、心配には思召された。源中納言のほうからも前駆を多人数よこしてあった。だいたいのことだけは兵部卿の宮が手落ちなくお計りになったのであるが、こまごまとした入り用の物、費用などは皆薫が贈ったのであった。 出立が早くできないでは日が暮れると女房らも言い、迎えの人たちも促すために、中の君はあわただしくて、今から行く所がどんな所かと思うことで不安な落ち着かぬ悲しい気持ちを抱きながら車上の人になった。大輔という女房が、
ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを身を宇治川に投げてましかば
と言って、笑顔をしているのを見ては、弁の尼の心境とはあまりにも相違したものであると中の君はうとましく思った。もう一人の女房、
過ぎにしが恋しきことも忘れねど今日はた先づも行く心かな
この二人はどちらも長くいた年寄りの女房で、皆大姫君付きになるのを希望した者であったが、利己的に主人を変えて、今日は縁起のよいことより言ってはならぬと言葉を慎んでいるのもいやな世の中であると思う中の君はものも言われなかった。道の長くてけわしい山路であるのをはじめて知り、恨めしくばかり思った宮の通い路の途絶えも無理のない点もあるように思うことができた。白く出た七日の月の霞んだのを見て、遠い路に馴れぬ女王は苦しさに歎息しながら、
ながむれば山より出でて行く月も世に住みわびて山にこそ入れ
と口ずさまれるのであった。変わった境遇へこうして移って行ってそのあとはどうなるであろうとばかり危ぶまれる思いに比べてみれば、今までのことは煩悶の数のうちでもなかったように思われ、昨日の世に帰りたくも思われた。 十時少し過ぎごろに二条の院へ着いた。まぶしい見も知らぬ宮殿の幾つともなく棟の別れた中門の中へ車は引き入れられ、そのころもう時を計って宮は待っておいでになったのであったから、車の所へ御自身でお寄りになり、夫人をお抱きおろしになった。夫人の居間の装飾の輝くばかりであったことは言うまでもないが、女房の部屋部屋にまで宮の御注意の行き届いた跡が見え、理想的な新婦の住居が中の君を待っていたのである。 宮がどの程度に愛しておいでになるのか、妾としてか、情人としての御待遇があるかと世間で見ていた八の宮の姫君はこうしてにわかに兵部卿親王の夫人に定まってしまったのを見て、深くお愛しになっているに違いないと世間も中の君をりっぱな女性として認め、かつ驚いた。 源中納言はこの二十日ごろに三条の宮へ移ることにしたいと思い、このごろは毎日そこへ来ていろいろな指図をしていたのであるが、二条の院に近接した所であったから、中の君の着く夜の気配をよそながら知りたく思い、その日は夜がふけるまで、まだ人の住まぬ新築したばかりの家にとどまっているうちに、迎えに出した前駆の人たちが帰って来て、いろいろ報告した。兵部卿の宮が御満足なふうで新婦を御大切にお扱いになる御様子であるということを聞く薫は、うれしい気のする一方ではさすがに、自身の心からではあったが得べき人を他へ行かせてしまったことの後悔が苦しいほど胸につのってきて、取り返し得ることはできぬものであろうかと、こんなうめきに似た独言も口から出た。
しなてるやにほの湖に漕ぐ船の真帆ならねども相見しものを
とあの夜のことでちょっと悪く言ってみたい気もした。 左大臣は六の君を兵部卿の宮に奉るのを、この二月にと思っていた所へ、こうした意外な人をそれより先にというように夫人として堂々とお迎えになり、二条の院にばかりおいでになるようになったのを見て、不快がっているということをお聞きになっては、また気の毒にお思われになる兵部卿の宮は手紙だけを時々六の君へ送っておいでになった。裳着の式の派手に行なわれることがすでに世間の噂にさえなっていたから、日を延ばすのも見苦しいことに思われて二十幾日にその式はしてしまった。一家の内輪どうしの中の縁組みは感心できぬものであるが、薫の中納言だけは他家の婿に取らせることは惜しい、六の君を改めてその人に娶らせようか、長く秘密にしていた宇治の愛人を失って憂鬱になっているおりからでもあるからと左大臣は思って、ある人に薫の意向を聞かせてみたが、人生のはかなさを実証したことに最近逢った自分は、結婚のことなどを思うことはできぬと相手にせぬ様子を聞き、どうして中納言までが懇切に自分のほうから言いだしたことに気のないような返辞をするのであろうと、一時は恨んだものの、兄弟ではあっても敬服せずにおられぬところの備わった薫に、しいて六の君を娶らせることは断念した。 陽春の花盛りになって、薫は近い二条の院の桜の梢を見やる時にも「あさぢ原主なき宿のさくら花心やすくや風に散るらん」と宇治の山荘が思いやられて恋しいままに、匂宮をお訪ねしに行った。宮はおおかたここにおいでになるようになって、貴人の夫人らしく中の君も住み馴れたのを見て、その人の幸福を喜びながらも怪しいあこがれの心はそれにも消されなかった。ますます中の君が恋しくなっていく。しかし本心は親切で、中の君を深く庇護しなければならぬことを忘れなかった。 宮と薫は何かとお話をし合っていたが、夕方に宮は御所へおいでになろうとして、車の仕度がなされ、前駆などが多く集まって来たりしたために、客殿を立って西の対の夫人の所へ薫はまわって行った。山荘の寂しい生活をしていた時に変わり、御簾の内のゆかしさが思われるような、落ち着いた高華な夫人の住居がここに営まれていた。美しい童女の透き影の見えるのに声をかけて、中の君へ消息を取り次がせると、褥が出され、宇治時代からの女房で薫を知ったふうの人が来て返辞を伝えた。薫は、 「始終お近い所に住んでおりながら、何と申す用がなくて伺いますことは、なれなれしすぎたことだとかえってお咎めを受けることになるかもしれませぬと御遠慮をしておりますうちに、世界も変わってしまいましたようになりました。お庭の木の梢も霞越しに見ているのですから、身にしむ気のする時も多いのです」 と取り次がせた、物思わしそうにしている薫の姿の気の毒なのを中の君は見て、あの人が惜しむどおりに大姫君が生きていて、あの人の所に迎えられておれば、近い家のことで、始終消息ができ、花鳥につけても少し愉しい日送りができたであろうがなどと、姉君を思い出すと、忍耐そのものが生活であったような宇治の時のほうが、かえって悲しみも忍びよかったように思われ、故人の恋しさのつのるばかりであった。女房たちも、 「世間の習いどおりに、うとうとしくあの方様をお扱いになってはなりませぬ。今こうおなりあそばしてからこそ、あの方様の御親切の並み並みでないことがおわかりになった御感謝の心をお見せあそばすべきでございます」 こう言って勧めているのであったが、にわかに自身で話に出るようなことはなお恥ずかしくて中の君が躊躇をしている時に、お出かけになろうとする宮が、夫人に言葉をかけるためにこの西の対へおいでになった。きれいなお身なりで、化粧も施され、見て見がいのある宮様であった。薫のこちらに来ていたのを御覧になり、 「どうしてあんなによそよそしい席を与えていらっしゃるのですか。あなたがたの所へはあまりにしすぎると思うほどの親切を見せていた人なのだからね。私のためには多少それは危険を感ずべきことではあっても、あんなに冷遇すれば男はかえって反発的なことを起こすものですよ。近くへお呼びになって昔話でもしたらいいでしょう」 こんなことを夫人に言われたのであるが、また、 「しかしあまり気を許して話し合うことはどうだろう。疑わしい心が下に見えますからね」 ともお言いになったので、どうすればよいかわからぬようなめんどうさを中の君は感じた。自分にもまれな好意の寄せられたのを知っているのであったから、今の身になったからといって、うとうとしくできるものでない、あの人も言うように、姉君の代わりと見て、感謝している自分の心をあの人に見せうる機会があればよいと願っているがと中の君は思うものの、さすがに宮がとやかくと嫉妬をあそばすのは苦しかった。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
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