日が暮れたならば雪は空も見えぬまでに高くなるであろうと思う従者たちは、主人の注意を促す咳払いなどをしだしたために、帰ろうとして薫は、 「何たる寂しいお住居でしょう。全然山荘のような静かな家を私は別に一つ持っておりまして、うるさく人などは来ない所ですが、そこへ移ってみようかとだけでも思ってくださいましたらどんなにうれしいでしょう」 こんなことを女王に言っていた。けっこうなお話であると、片耳に聞いて笑顔を見せる女房のあるのを、醜い考え方をする人たちである、そんな結果がどうして現われてこようと、姫君は見もし聞きもしていた。 菓子などが品よく客に供えられ、従者たちへは体裁のいい酒肴が出された。いつぞや薫からもらった衣服の芳香を持ちあぐんだ宿直の侍も鬘髭といわれる見栄のよくない顔をして客の取り持ちに出ていた。こんな男だけが守護役を勤めているのかと薫は見て、前へ呼んだ。 「どうだね。宮がおいでにならなくなって心細いだろうが、よく勤めをしていてくれるね」 と優しく慰めてやった。悲しそうな顔になって髭男は泣き出した。 「何の身寄りも助け手も持たない私でございまして、ただお一方のお情けでこの宮に三十幾年お世話になっております。若い時でさえそれでございましたから、今日になりましてはましてどこを頼みにして行く所がございましょう」 こんな話をするので、ますますみじめに見える髭男であった。 宮のお居間だったお座敷の戸を薫があけてみると、床には塵が厚く積もっていたが、仏だけは花に飾られておわしました。姫君たちが看経したあとと思われる。畳などは皆取り払われてあるのであった。御自分に出家の遂げられる日があったならと、それに薫が追随して行くことをお許しになったことなどを思い出して、
立ち寄らん蔭と頼みし椎が本むなしき床になりにけるかな
と歌い、柱によりかかっている薫を、若い女房などはのぞき見をしてほめたたえていた。 この近くの薫の領地の用を扱っている幾つかの所へ馬の秣などを取りにやると、主人は顔も知らぬような田舎男がおおぜい隊をなさんばかりにして山荘にいる薫へ敬意を表しに来た。見苦しいことであると薫は思ったのであるが、髭男を取り次ぎにして命じることだけを伝えさせた。この邸のために今夜も用を勤めるようにと荘園の者へ言い置かせて薫は山荘を出た。 一月にはもう空もうららかに春光を見せ、川べりの氷が日ごとに解けていくのを見ても、山荘の女王たちはよくも今まで生きていたものであるというような気がされて、なおも父宮の御事が偲ばれた。あの阿闍梨の所から、雪解の水の中から摘んだといって、芹や蕨を贈って来た。斎めの置き台の上に載せられてあるのを見て、山ではこうした植物の新鮮な色を見ることで時の移り変わりのわかるのがおもしろいと女房たちが言っているのを、姫君たちは何がおもしろいのかわからぬと聞いていた。
君が折る峰のわらびと見ましかば知られやせまし春のしるしも 雪深き汀の小芹誰がために摘みかはやさん親無しにして
二人はこんなことを言い合うことだけを慰めにして日を送っていた。薫からも匂宮からも春が来れば来るで、おりを過ぐさぬ手紙が送られる。例のようにたいしたことも書かれていないのであるから、話を伝えた人も、それらの内容は省いて語らなかった。 兵部卿の宮は春の花盛りのころに、去年の春の挿頭の花の歌の贈答がお思い出されになるのであったが、その時のお供をした公達などの河を渡ってお訪ねした八の宮の風雅な山荘を、宮が薨去になってあれきり見られぬことになったのは残念であると口々に話し合っていた時にも、宮のお心は動かずにいるはずもなかった。
つてに見し宿の桜をこの春に霞隔てず折りて挿頭さん
積極的なこんなお歌が宮から贈られた時に、思いも寄らぬことを言っておいでになるとは思ったが、つれづれな時でもあったから、美しい文字で書かれたものに対し、表面の意にだけむくいる好意をお示しして、
いづくとか尋ねて折らん墨染めに霞こめたる宿の桜を
とお返しをした。中姫君である。いつもこんなふうに遠い所に立つものの態度を変えないのを宮は飽き足らずに思っておいでになった。こうしたお気持ちのつのっている時にはいつも中納言をいろいろに言って責めも恨みもされるのである。おかしく思いながらも、ひとかどの後見人顔をして、 「浮気な御行跡が私の目につく時もございますからね。そうした方であってはと将来が不安でならなくなるのでございましょう」 などと申すと、 「気に入った人が発見できない過渡時代だからですよ」 宮はこんな言いわけをあそばされる。 右大臣は末女の六の君に何の関心もお持ちにならぬ宮を少し怨めしがっていた。宮は親戚の中でのそれはありきたりの役まわりをするにすぎないことで、世間体もおもしろくないことである上に、大臣からたいそうな婿扱いを受けることもうるさく、蔭でしていることにも目をつけてかれこれと言われるのもめんどうだから結婚を承諾する気にはなれないのであるとひそかに言っておいでになって、以前から予定されているようでありながら実現する可能性に乏しかった。 その年に三条の宮は火事で焼けて、入道の宮も仮に六条院へお移りになることがあったりして、薫は繁忙なために宇治へも久しく行くことができなかった。まじめな男の心というものは、匂宮などの風流男とは違っていて、気長に考えて、いずれはその人をこそ一生の妻とする女性であるが、あちらに愛情の生まれるまでは力ずくがましい結婚はしたくないと思い、故人の宮への情誼を重く考える点で女王の心が動いてくるようにと願っているのであった。 その夏は平生よりも暑いのをだれもわびしがっている年で、薫も宇治川に近い家は涼しいはずであると思い出して、にわかに山荘へ来ることになった。朝涼のころに出かけて来たのであったが、ここではもうまぶしい日があやにくにも正面からさしてきていたので、西向きの座敷のほうに席をして髭侍を呼んで話をさせていた。 その時に隣の中央の室の仏前に女王たちはいたのであるが、客に近いのを避けて居間のほうへ行こうとしているかすかな音は、立てまいとしているが薫の所へは聞こえてきた。このままでいるよりも見ることができるなら見たいものであると願って、こことの間の襖子の掛け金の所にある小さい穴を以前から薫は見ておいたのであったから、こちら側の屏風は横へ寄せてのぞいて見た。ちょうどその前に几帳が立てられてあるのを知って、残念に思いながら引き返そうとする時に、風が隣室とその前の室との間の御簾を吹き上げそうになったため、 「お客様のいらっしゃる時にいけませんわね、そのお几帳をここに立てて、十分に下を張らせたらいいでしょう」 と言い出した女房がある。愚かしいことだとみずから思いながらもうれしさに心をおどらせて、またのぞくと、高いのも低いのも几帳は皆その御簾ぎわへ持って行かれて、あけてある東側の襖子から居間へはいろうと姫君たちはするものらしかった。その二人の中の一方が庭に向いた側の御簾から庇の室越しに、薫の従者たちの庭をあちらこちら歩いて涼をとろうとするのをのぞこうとした。濃い鈍色の単衣に、萱草色の喪の袴の鮮明な色をしたのを着けているのが、派手な趣のあるものであると感じられたのも着ている人によってのことに違いない。帯は仮なように結び、袖口に引き入れて見せない用意をしながら数珠を手へ掛けていた。すらりとした姿で、髪は袿の端に少し足らぬだけの長さと見え、裾のほうまで少しのたるみもなくつやつやと多く美しく下がっている。正面から見るのではないが、きわめて可憐で、はなやかで、柔らかみがあっておおような様子は、名高い女一の宮の美貌もこんなのであろうと、ほのかにお姿を見た昔の記憶がまたたどられた。いざって出て、 「あちらの襖子は少しあらわになっていて心配なようね」 と言い、こちらを見上げた今一人にはきわめて奥ゆかしい貴女らしさがあった。頭の形、髪のはえぎわなどは前の人よりもいっそう上品で、艶なところもすぐれていた。 「あちらのお座敷には屏風も引いてございます。何もこの瞬間にのぞいて御覧になることもございますまい」 と安心しているふうに言う若い女房もあった。 「でも何だか気が置かれる。ひょっとそんなことがあればたいへんね」 なお気がかりそうに言って、東の室へいざってはいる人に気高い心憎さが添って見えた。着ているのは黒い袷の一襲で、初めの人と同じような姿であったが、この人には人を惹きつけるような柔らかさ、艶なところが多くあった。また弱々しい感じも持っていた。髪も多かったのがさわやいだ程度に減ったらしく裾のほうが見えた。その色は翡翠がかり、糸を縒り掛けたように見えるのであった。紫の紙に書いた経巻を片手に持っていたが、その手は前の人よりも細く痩せているようであった。立っていたほうの姫君が襖子の口の所へまで行ってから、こちらを向いて何であったか笑ったのが非常に愛嬌のある顔に見えた。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
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