手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや
と言って、花を見上げた薫の様子が身に沁んで気の毒に思われた藤侍従は、自身は無力で友のために尽くすことができなかったということをほのめかして薫をなだめていた。
紫の色は通へど藤の花心にえこそ任せざりけれ
まじめな性質の人であったから深く同情をしていた。薫は失恋にそれほど苦しみもしていなかったが残念ではあった。 蔵人少将はどうすればよいかも自身でわからぬほど失恋の苦に悩んで、自殺もしかねまじい気色に見えた。求婚者だった人の中では目標を二女に移すのもあった。蔵人少将を母夫人への義理で二女の婿にもと思い、かつて尚侍はほのめかしたこともあったが、あの時以後もう少将はこの家を訪ねることをしなくなった。院へは右大臣家の子息たちが以前から親しくまいっているのであったが、蔵人少将は新女御のまいって以来あまり伺候することがなくて、まれまれに殿上の詰め所へ顔を出してもその人はすぐに逃げるようにして帰った。 帝は、故人の関白の意志は姫君を入内させることであって、院へ奉ることではなかったのを、遺族のとった処置は腑に落ちぬことに思召して、中将をお呼びになってお尋ねがあった。 「天機よろしくはありませんでした。ですから世間の人も心の中でまずいことに思うことだと私が申し上げたのに、お母様は、信じるところがおありにでもなるように院参のほうへおきめになったものですから、私らが意見を異にしているようなことは言われなかったのです。ああしたお言葉をお上からいただくようでは私の前途も悲観されます」 中将は不愉快げに母を責めるのだった。 「何も私がそうでなければならぬときめたことではなく、ずいぶん躊躇をしたことなのだがね。お気の毒に存じ上げるほどぜひにと院の陛下が御懇望あそばすのだもの、後援者のない人は宮中にはいってからのみじめさを思って、はげしい競争などはもうだれもなさらないような院の後宮へ奉ったのですよ。だれも皆よくないことであれば忠告をしてくれればいいのだけれど、その時は黙っていて、今になると右大臣さんなども私の処置が悪かったように、それとなくおっしゃるのだから苦しくてなりませんよ。皆宿命なのですよ」 と穏やかに尚侍は言っていた。心も格別騒いではいないのである。 「その前生の因縁というものは、目に見えないものですから、お上がああ仰せられる時に、あの妹は前生からの約束がありましてなどという弁解は申し上げられないではありませんか。中宮がいらっしゃるからと御遠慮をなすっても、院の御所には叔母様の女御さんがおいでになったではありませんか。世話をしてやろうとか、何とか、言っていらっしゃって御了解があるようでも、いつまでそれが続くことですかね、私は見ていましょう。御所には中宮がおいでになるからって、後宮がほかにだれも侍していないでしょうか。君に仕えたてまつることでは義理とか遠慮とかをだれも超越してしまうことができると言って、宮仕えをおもしろいものに昔から言うのではありませんか。院の女御が感情を害されるようなことが起こってきて、世間でいろんな噂をされるようになれば、初めからこちらのしたことが間違いだったとだれにも思われるでしょう」 などとも中将は言った。兄弟がまたいっしょになっても非難するのを玉鬘夫人は苦しく思った。 その新女御を院が御寵愛あそばすことは月日とともに深くなった。七月からは妊娠をした。悪阻に悩んでいる新女御の姿もまた美しい。世の中の男が騒いだのはもっともである、これほどの人を話だけでも無関心で聞いておられるわけはないのであると思われた。御愛姫を慰めようと思召して、音楽の遊びをその御殿でおさせになることが多くて、院は源侍従をも近くへお招きになるので、その人の琴の音などを薫は聞くことができた。この侍従が正月に「梅が枝」を歌いながら訪ねて行った時に、合わせて和琴を弾いた中将の君も常にそのお役を命ぜられていた。薫は弾き手のだれであるかを音に知って、その夜の追想が引き出されもした。 翌年の正月には男踏歌があった。殿上の若い役人の中で音楽のたしなみのある人は多かったが、その中でもすぐれた者としての選にはいって薫の侍従は右の歌手の頭になった。あの蔵人少将は奏楽者の中にはいっていた。初春の十四日の明るい月夜に、踏歌の人たちは御所と冷泉院へまいった。叔母の女御も新女御も見物席を賜わって見物した。親王がた、高官たちも同時に院へ伺候した。源右大臣と、その舅家の太政大臣の二系統の人たち以外にはなやかなきれいな人はないように見える夜である。宮中で行なった時よりも、院の御所の踏歌を晴れがましいことに思って、人々は細心な用意を見せて舞った。また奏し合った中でも蔵人少将は、新女御が見ておられるであろうと思って興奮をおさえることができないのである。美しい物でもないこの夜の綿の花も、挿頭す若公達に引き立てられて見えた。姿も声も皆よかった。「竹河」を歌って階のもとへ歩み寄る時、少将の心にもまた去年の一月の夜の記憶がよみがえってきたために、粗相も起こしかねないほどの衝動を受けて涙ぐんでいた。后の宮の御前で踏歌がさらにあるため、院もまたそちらへおいでになって御覧になるのであった。深更になるにしたがって澄み渡った月は昼より明るく照らすので、御簾の中からどう見られているかということに上気して、少将は院のお庭を歩くのでなく漂って行く気持ちでまいった。杯を受けて飲むことが少ないと言って、自身一人が責められることになるのも恥ずかしかった。 踏歌の人たちは夜通しあちらこちらとまわったために翌日は疲労して寝ていた。薫侍従に院からのお召があった。 「苦しいことだ。しばらく休養したいのに」 と言いながら伺候した。御所で踏歌を御覧になった様子などを院はお尋ねになるのであった。 「歌頭は今まで年長者がするものなのだが、それに選ばれるほど認められているのだと思って満足した」 と仰せられてかわいく思召す御さまである。「万春楽」(踏歌の地に弾く曲)の譜をお口にあそばしながら新女御の御殿へおいでになる院のお供を薫はした。前夜の見物に自邸のほうから来ていた人たちが多くて、平生よりも御簾の中のけはいがはなやかに感ぜられるのである。渡殿の口の所にしばらく薫はいて、声になじみのある女房らと話などをしていた。 「昨夜の月はあまりに明るくて困りましたよ。蔵人少将が輝くように見えましたね。御所のほうではそうでもありませんでしたが」 などと言う薫の言葉を聞いて、心に哀れを覚えている女房もあった。 「夜のことでよくわかりませんでしたが、あなたがだれよりもごりっぱだったということは一致した評でございました」 などと口上手なことも言って、また中から、
竹河のその夜のことは思ひいづや忍ぶばかりの節はなけれど
だれかの言ったこの歌に、薫は涙ぐまれたことで、自分の心にも深くしみついている恋であることがわかった。
流れての頼みむなしき竹河に世はうきものと思ひ知りにき
と答えて、物思いのふうの見えるのを女房たちはおかしがった。その人たちも薫は蔵人少将などのように露骨に恋は告げなかったが、心の中に思いを作っていたのであろうと憐んではいたのである。 「少しよけいなことまでも言ったようですが、他言をなさいませんように」 と言って、薫が立って行こうとする時に、 「こちらへ来るように」 と、院の仰せが伝えられたので、晴れがましく思いながら新女御の座敷のほうへ薫はまいった。 「以前六条院で踏歌の翌朝に、婦人がたばかりの音楽の遊びがあったそうで、おもしろかったと右大臣が言っていた。何から言っても六条院がその周囲へお集めになったほどのすぐれた人が今は少なくなったようだ。音楽のよくできる婦人などもたくさん集まっていたのだからおもしろいことが多かったであろう」 などと、その時代を御追想になる院は、楽器の用意をおさせになって、新女御には十三絃、薫には琵琶をお与えになった。御自身は和琴をお弾きになりながら「この殿」などをお歌いあそばされた。新女御の琴は未熟らしい話もあったのであるが、今では傷のない芸にお手ずからお仕込みになったのである。はなやかできれいな音を出すことができ、歌もの、曲ものも上手に弾いた。何にもすぐれた素質を持っているらしい、容貌も必ず美しいであろうと薫は心の惹かれるのを覚えた。こんなことがよくあって、新女御と薫の侍従は親しくなっていた。反感を引くようにまでは怨みかけたりはしなかったが、何かのおりには失恋の歎きをかすめて言う薫を、女御のほうではどう思ったか知らない。 四月に院の第二皇女がお生まれになった。きわめてはなやかなことの現われてきたのではないが、院のお心持ちを尊重して、右大臣を初めとして産養を奉る人が多かった。尚侍はお抱きした手から離せぬようにお愛し申し上げていたが、院から早くまいるようにという御催促がしきりにあるので、五十日目ぐらいに、新女御は宮をおつれ申して院へまいった。院はただお一人の内親王のほかには御子を持たせられなかったのであるから、珍しく美しい少皇女をお得になったことで非常な御満足をあそばされた。 以前よりもいっそう御寵愛がまさって、院のこの御殿においでになることの多くなったのを、叔母の女御付きの女房たちなどは、こんな目にあわないではならなかったろうかなどと思ってねたんだ。叔母と姪との二人の女御の間には嫉妬も憎しみも見えないのであるが、双方の女房の中には争いを起こす者があったりして、中将が母に言ったことは、兄の直覚で真実を予言したものであったと思われた。尚侍も、こんな問題が続いて起こる果てはどうなることであろう、娘の立場が不利になっていくのは疑いないことである、院の御愛情は保てても、長く侍しておられる人たちから、不快な存在のように新女御が見られることになっては見苦しいと思っていた。 帝も院へ姫君を奉ったことで御不快がっておいでになり、たびたびその仰せがあるということを告げる人があったために、尚侍は申しわけなく思って、二女を公式の女官にして宮中へ差し上げることにきめて、自身の尚侍の職を譲った。尚侍の辞任と新任命は官で重大なこととして取り扱われるのであったから、ずっと以前から玉鬘には辞意があったのに許されなかったところへ、娘へ譲りたいと申し出たのを、帝は御伯父であった大臣の功労を思召す御心から、古い昔に例のあったことをお思いになって、大臣の未亡人の願いをお納れになり、故太政大臣の女は新尚侍に任命された。これはこの人に定められてあった運命で、母の夫人の単独に辞職を申し出た時にはお許しがなかったのであろうと思われた。真実は後宮であって、尚侍の動かない地位だけは得ているのであるから、競争者の中に立つようなこともなくて、気楽に宮中におられることとして玉鬘夫人は安心したのであるが、少将のことを雲井の雁夫人から再度申し込んで来た以前のことに対して、自分はそれに代える優遇法を考えていると言ったのであったがどう思っているであろうと、そのことだけを気の済まぬことに思った。二男の弁を使いにして玉鬘夫人は右大臣へ隔てのない相談をすることにした。宮中からこういう仰せがあるということを言って、 「娘を宮仕えにばかり出したがると世間で言われるようなことがないかと、そんなことを私は心配しております」 と伝えさせると、 「お上が不愉快に思召すのがお道理であるように私も承っております。それに公職におつきになったのですから、その点ででも宮中に出仕しないのは間違いです。早くお上げになるほうがいいと思います」 という言葉で大臣は答えて来た。院の女御の場合のように、中宮の御了解を得ることに努めてから、玉鬘は二女を御所へ奉った。良人の大臣が生きておれば、わが子は肩身狭くかくしてまでの宮仕えはせずともよかったはずであると夫人は物哀れな気持ちをまた得たのであった。姉君は有名な美人であることを帝もお知りあそばされていたのであったが、その人でない妹のまいったことで御満足はあそばされないようであったが、この人も洗練された貴女のふうのある人であった。前尚侍はこれが終わってのち尼になる考えを持っていたが、 「あちらもこちらもまだお世話をなさらなければならぬことが多いのですから、今日ではまだ仏勤めをなさいますのに十分の時間がなくて、尼におなりになったかいもなくなるでしょう。もうしばらくの間そのままで、どちらの姫君のことも、これで安心というところまで見きわめになってから、専念に道をお求めになるほうがいい」 と子息たちが言うので、そのことも停滞した形であった。
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