横笛の調べはことに変はらぬをむなしくなりし音こそ尽きせね
返歌をしてもまだ去りがたくて大将がためらっているうち深更になった。 自宅に帰ってみると、もう格子などは皆おろされてだれも寝てしまっていた。一条の宮に恋をして親切がった訪問を常にするというようなことを、夫人へ言う者があったために、今夜のようにほかで夜ふかしをされるのが不愉快でならない夫人は、良人が室内へはいって来たことも知りながら寝入ったふうをしているものらしい。「妹とわれといるさの山の山あららぎ」(手をとりふれぞや、かほまさるかにや)と美しい声で歌いながらはいって来た大将は、 「どうしてこんなに早く戸を皆しめてしまったのだろう。引っ込み思案な人ばかりなのだね。こんな月夜の景色をだれも見ようとしないなど」 と歎息して格子を上げさせ、御簾を巻き上げなどして縁に近く出て横たわっていた。 「こんなよい晩に眠ってしまう人があるものですか。少し出ていらっしゃい。つまらないじゃありませんか」 などと夫人へ言うのであるが、おもしろく思っていない夫人は何とも言わないのである。子供が寝おびれて何か言っている声があちこちにして、女房もその辺の部屋にたくさん寝ている、このにぎわしい自宅の夜と、一条邸の夜とのあまりにも相違しているのを大将は思い比べていた。贈られた笛を吹きながら自分の去ったあとの御母子がどんなに寂しく月明の景色をながめておられるだろう、自分の弾いた楽器も宮の合わせてくだすったものもそのままで二人の女性にもてあそばれているであろう、御息所も和琴が上手なはずであるなどと思いやりながら寝ているのである。どうしてあんなにりっぱな宮様を衛門督は形式的に大事がっただけで、ほんとうに愛してはいなかったのであろうと大将は不思議に思われてならない。お顔を見て美しく想像したのと違ったところがあっては不幸な結果をもたらすことにもなろう、ほかのことでも空想をし過ぎたことには必然的に幻滅が起こるものであるなど思いながらも、大将は自身たち夫婦の仲を考えて、なんらの見栄も気どりも知らぬ少年少女の時に知った恋の今日まで続いて来た年月を数えてみては、夫人が強い驕慢な妻になっているのに無理でないところがあるとも思われた。 少し寝入ったかと思うと故人の衛門督がいつか病室で見た時の袿姿でそばにいて、あの横笛を手に取っていた。夢の中でも故人が笛に心を惹かれて出て来たに違いないと思っていると、
「笛竹に吹きよる風のごとならば末の世長き音に伝へなん
私はもっとほかに望んだことがあったのです」 と柏木は言うのである。望みということをよく聞いておこうとするうちに、若君が寝おびれて泣く声に目がさめた。この子が長く泣いて乳を吐いたりなどするので、乳母が起きて世話をするし、夫人も灯を近くへ持って来させて、顔にかかる髪を耳の後ろにはさみながら子を抱いてあやしなどしていた。色白な夫人が胸を拡げて泣く子に乳などをくくめていた。子供も色の白い美しい子であるが、出そうでない乳房を与えて母君は慰めようとつとめているのである。大将もそのそばへ来て、 「どう」 などと言っていた。夜の魔を追い散らすために米なども撒かれる騒がしさに夢の悲しさも紛らされてゆく大将であった。 「この子は病気になったらしい。はなやかな方に夢中になっていらっしって、おそくなってから月をながめたりなさるって格子をあけさせたりなさるものだから、また物怪がはいって来たのでしょう」 と若々しい顔をした夫人が恨むと、良人は笑って、 「変にこじつけて私の罪にするのですね。私が格子を上げさせなかったらなるほど物怪ははいる道がなかったろうね。おおぜいの人のお母様になったあなただから、たいした考え方ができるようになったものだ」 こう言っても妻をながめる大将の美しい目つきはさすがに恥ずかしがって、続けて恨みも言わずに、 「あちらへいらっしゃい。人が見ます。見苦しい」 とだけ言った。明るい灯に顔を見られるのをいやがるのも可憐な妻であると大将は思った。若君は夜通しむずかって寝なかった。 大将は夢を思うと贈られた横笛ももてあまされる気がした。故人の強い愛着の遺った品がやりたく思う人の手に行っていぬものらしい。しかも宮の御もとへ置きたく思う理由もない。それは笛が女の吹奏を待つものでないからである。生きておれば何とも思わぬことが臨終の際にふと気がかりになったり、ふと恋しく心が残ったりすることで幽魂が浄土へは向かわず宙宇に迷うと言われている。そうであるから人間は何事にも執着になるほどの関心を持ってはならないのであると、こんなことを思って大納言のために愛宕の寺で誦経をさせ、またそのほか故人と縁故のある寺でも同じく経を読ませた。この笛を歴史的価値のある物として、好意で自分へ贈った人に対しては、それがどんな尊いことであっても寺へ納めたりしてしまうことも不本意なことであると思って、大将は六条院へ参った。 その時院は姫君の女御の御殿へ行っておいでになった。三歳ぐらいになっておいでになる三の宮を女一の宮と同じように紫の女王がお養いしていて、対へお置き申してあるのであるが、大将が行くと走っておいでになって、 「大将さん、私を抱いてあちらの御殿へつれて行ってちょうだい」 うやうやしい態度で、そしてお小さい方らしくお言いになると、大将は笑って、 「いらっしゃいませ。けれど女王様のお御簾の前をどうしてお通りいたしましょう。私よりもあなた様がお困りになりましょう」 こう言いながらすわった膝へ宮を抱いておのせすると、 「だれも見ないよ。いいよ。私顔を隠して行くから」 宮が袖を顔へお当てになるのもおかわいらしくて大将はそのまま寝殿のほうへお抱きして行った。 こちらの御殿のほうでも院が宮の若君と二の宮がいっしょに遊んでおいでになるのをかわいく思ってながめておいでになるのであった。かどのお座敷の前で三の宮をお下ろししたのを、二の宮がお見つけになって、 「私も大将に抱いていただくのだ」 とお言いになると、三の宮が、 「いけない、私の大将だもの」 と言って伯父君の上着を引っぱっておいでになる。院が御覧になって、 「お行儀のないことですよ。お上のお付きの大将を御自分のものにしようとお争いになったりしてはなりませんよ。三の宮さんはよくわからずやをお言いになりますね。いつでもお兄様に反抗をなさいますね」 とお訓しになる。大将も笑って、 「二の宮様はずいぶんお兄様らしくて、お小さい方によくお譲りになったり、思いやりのあることをなさいます。大人でも恥ずかしくなるほどでございます」 こんなことを言っていた。院は微笑を顔にお浮かべになって、お小言はお言いになったものの、どちらもかわいくてならぬというような表情をしておいでになった。 「公卿をこんな失礼な所へ置いてはおけない。対のほうへ行くことにしよう」 とお言いになって、立とうとあそばされるのであるが、宮たちがまつわってお離れにならない。宮の若君は宮たちと同じに扱うべきでないとお心の中では思召されるのであるが、女三の尼宮が心の鬼からその差別待遇をゆがめて解釈されることがあってはと、優しい御性質の院はお思いになって、若君をもおかわいがりになり、大事にもあそばすのであった。大将はこの若君をまだよく今までに顔を見なかったと思って、御簾の間から顔を出した時に、花の萎れた枝の落ちているのを手に取って、その児に見せながら招くと、若君は走って来た。薄藍色の直衣だけを上に着ているこの小さい人の色が白くて光るような美しさは、皇子がたにもまさっていて、きわめて清らかな感じのする子であった。ある疑問に似たものを持つ思いなしか、眸ざしなどにはその人のよりも聡慧らしさが強く現われては見えるが、切れ長な目の目じりのあたりの艶な所などはよく柏木に似ていると思われた。美しい口もとの笑う時にことさらはなやかに見えることなどは自分の心に潜在するものがそう思わせるのかもしらぬが、院のお目には必ずお思い合わせになることがあろうと考えられるほど似ていると、大将は異母弟を見ながらも、いよいよ院が柏木に対してどう思っておいでになるかを早く知りたくなった。宮がたは自然に気高くお見えになるところはあるが、普通のきれいな子供とさまで変わってはおいでにならないのに、若君は貴族の子らしい品格のほかに、何ものにも優越した美の備わっているのを、大将は比べて思いながら、哀れなことである、自分の推測が真実であれば柏木の父の大臣は故人を切に思う心から、柏木の子供であると名のって来る者の出て来ないことに失望して、それだけの形見をすら不幸な親に残してくれなかったと言って泣きこがれているのであるから、知らせないでいるのは罪作りなことになろうと考えられて来るうちにまた、そんなことはありうることではないと否定もされる。ますます不可解な問題であると大将は思った。性質もなつかしく優しい子で、大将に馴染んでそばを離れず遊んでいるのもかわいく思われた。 院が対のほうへおいでになったのでお供をして行って大将がお話をかわしているうちに日も暮れかかってきた。昨夜一条の宮をお訪ねした時のあちらの様子などを大将が語るのを院は微笑して聞いておいでになった。故人に関することが出てくる時には言葉もおはさみになって同情して聞いておいでになるのであったが、 「想夫恋を少しお合わせになったということなどは非常におもしろくて文学的ではあるが、しかし自分の意見として言えば女は異性を知らず知らず興奮させるような結果までを考慮してどこまでも避けねばならぬことだと思うがね、故人への情誼で御親切にし始めたのであれば、君はどこまでもきれいな心でお交際をしなければならないよ。あやまちのないようにね。苦しい結果を引き起こすようなことのないようにするのがどちらのためにもいいことだろうと思う」 と院はお言いになった。大将は心に、このお言葉は承服されない、人をお教えになるのには賢いことを仰せられても、御自身がこの場合に処して御冷静でありうるであろうかと思っていた。 「あやまちなどの起こりようはありません。人生の無常に直面されたかたがたを宗教的な気持ちで慰めて差し上げる義務があるように思いましてお交際を始めたのですから、すぐまたその友情から離れますようなことをしましては、かえって普通の失敗した野心家らしく世間から思われるだろうと考えますから、いつまでも友情は捨てないつもりでおります。想夫恋をお弾きになりましたことで御非難のお言葉がございましたが、あちらが進んでなすったことであればそれは決しておもしろい話ではございませんが、私の参ります前から弾いておいでになりました琴を、ただ少しばかり私の想夫恋に合わせてくださいましたのですから、非常にその場の情景にかなってよかったのでございます。どんなこともその女性次第だと思います。御年齢などもきらきらとする若さを少し越えていらっしゃいます方が、好色漢のような態度をお見せするはずもない私に、親しい友情が生じまして、私の願ったことが聞いていただけたというようなことは恥ずかしいこととは思われません。御観察申し上げるところでは非常に女らしい優しい御性質のようです」 こんな話をしていた大将は、かねて願っている機会が到来したように思い、少し院のお座へ近づいて昨夜の夢の話をした。ものも言わずに聞いておいでになった院のお心の中にはお思い合わせになることがあった。 「その笛は私の所へ置いておく因縁があるものなのだよ。昔は陽成院の御物だったものなのだがね。私の叔父のお亡くなりになった式部卿の宮が秘蔵しておいでになったのを、あの衛門督は子供の時から笛がことによくできたものだから、宮のお邸で萩の宴のあった時に贈り物としてお与えになったのだ。御婦人がたは深いお考えもなしに君へ贈られたのだろう」 院はこうお言いになるのであった。御心中ではまず手もとへ置こう、死後にもとの持ち主の譲らせたい人は分明であると思召された。聡明な大将にはもう想像ができていて、今持ち合わせてもいるのであろうとお思いになるのであった。すべてを察しになった院のお顔色を見てはいっそう大将は打ち出しにくくなるのであるが、ぜひ伺ってみたい気持ちがあって、ただこの瞬間に心へ浮かんできたというようにして、思い出し思い出し申すように言う、 「もう衛門督が終焉に近いころでございました。見舞いにまいりました私に、いろいろ遺言をいたしました中に、六条院様に対して深い罪を感じているということを繰り返し繰り返し言ったのでございましたが、ただ御感情を害していると聞きましただけでは、私によくわからないのでしたが、どんなことだったのでございましょう。ただ今もまだよくわからないのでございます」 自分が感じたように大将はあの秘密の全貌を知っているのであると院はお悟りになったのであるが、くわしくお語りになるべきことでもないので、しばらくは突然いぶかしい話を聞くというような御表情を見せておいでになったあとで、 「そんなに死んで行く時にまで人の気にかけるようなことはいつ自分が言ったりしたりしたのだろう。私にもわからない、思い出せないよ。いずれ静かな時を見て君の夢に関する細かな説明はしてあげよう。夢の話を夜はしてならないものだとか、迷信だろうが女の人などは言うものだよ」 と院は言っておいでになって、あの不思議な問題にはあまり触れようとあそばさないのを見て、大将は自分の言い出したということがお気に入らないのではないかと、きまり悪く思ったのである。
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